あらすじ
“豆腐屋主義”の圭さんと奔放な性格の碌さん。江戸っ子二人の軽妙な会話を通じて、金持が幅をきかす社会を痛烈に批判する『二百十日』。理想主義が高じて失職した元中学教師の文筆家・白井道也と二人の青年・高橋と中野。学問、金、恋、人生の葛藤を描く『野分』。漱石の思想や哲学をもっとも鮮やかに体現する二作品。(解説・紅野敏郎)
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「愛読書は何?」と聞かれたらコレ。
圭さんも、碌さんも、白井道也も、高柳くんも、みんな個性があっていい。
『二百十日』
こちらは圭さんと碌さんの会話調で進むが、舞台のプロットのように映像化しなくとも読み進めていくだけで、ふたりが世の中に(という圭さんが)世の中をどのように捉えて憤っているかを感じさせてくれる。
戦の前の決意表明的なものでアル。
『野分』
こちらは『二百十日』の意気込みを実践の場で、3人を核として描いているような作品。
自分からしてみれば…もう少し他者に優しくあっていいんじゃないかと思う白井先生・ペシミストすぎる高柳くん・幸福で金があるがゆえに灯台下暗しな中野くん…という印象。
ただ三者三様であって、それぞれから見るそれぞれが生き生きとしている。
背景にある時代は現代社会の構図にも似ているような気はするので、余計に自分が入り込める余白が大きくて好きなのかも。
「解脱と拘泥」がたまらなく好き。
最後の白井先生の演説もいいなぁって思う。
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「二百十日」弥次喜多よろしく小気味よい会話が続く。阿蘇の噴火口を、宿から明治時代の装備でもって徒歩で目指す大変さが伝わってくる。もちろん山岳小説ではない。漱石お得意の批判的精神が、時に漢文的表現が現れるので気が抜けない。「野分」冴えない文学者・白井先生の、同時代に同調できない不器用な生き様のやりきれなさを描いたものと読み進めたら、終盤の堂々たる講演がとても印象的なものとなった。高柳君ではないが立ち上がって拍手を送りたい。転地療養用の百円を寄贈してしまった後の高柳君はどうなるのだろう?
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二百十日
単純で剛健な豆腐屋の圭さんと金のある禄さんの阿蘇山登山を、ほとんどふたりの会話で描写する。
主題は華族、金持ちに対する庶民の批判。その批判を圭さんに言わせ、禄さんが軽くかわす。おそらく、この小説が書かれた時代は、格差社会の入り口でもあり、かつ人々が理想を持ち始めた時代。したがい、漱石も単純には新興の金持ちを批判はできなかったのではないか。禄さんの態度が漱石に近かったような気がする。
ユーモア小説としても抜群の出来。熊本の宿屋で半熟玉子をふたつ頼むと、ひとつは固ゆで玉子、もうひとつは生玉子が来る。くすぐりが効いている。
野分
正義や理想主義のために教師の職を辞し、雑誌記者として細々と暮らす白井道也先生、裕福な中野君、理想主義者であるが道也先生ほど徹底できない高柳君、三者三様の交流を通して当時の日本人の考え方を描写する。二百十日と同様、この作品でも漱石はどの生き方が正しいかという態度を取っていない。高柳君と中野君、中野君と道也先生、道也先生と高柳君の交流はあるが、3人が一堂に会する場面はない。これにより、それぞれの階級が別の階級をどう思っているかがわかる。漱石が言いたかったのは、明治時代の後期、日本が世界に向かっていくなかで、どんな階級であれ、内なる理想を持つべきということと思う。最後の道也先生の演説の場面で「すべての理想は自己の魂である」「西洋の理想に圧倒されて眼がくらむ日本人はある程度において皆奴隷である」。この演説から100年以上たった現在でも我々は、やはり理想を持つことを心に刻むべきである。
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「豆腐屋主義」について語られる『二百十日』。
主義を曲げずに教壇から姿を消して文人になる道也先生、陰の高柳君と陽の中野君が出てくる『野分』。
明治時代に生きる若者に向けた、若者がどう社会の中で活動していかなければならないかを、漱石先生は伝えたかったのかなぁ…。今の時代の僕らにも通じているような主張があって、頑張らないとなぁと思っちゃう。
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読めて良かったー。読み応えのある「野分」の方が好き。
金銭本位な世の中で学者という人間は窮屈だったろうと思う。それでも敢えて苦しい境遇に身を置いて、社会に屈せずに己の道を貫く道也先生の姿勢に背筋の伸びる思いがする。
人間としての「道」が、富や権力より大事だということをきっとわたしは頭では理解しているけれど、だからといってそれを堂々と口にするのはなんとなく気恥ずかしくて、結局は世俗の評価基準に甘んじてしまっている。でもそれではいけないと思わされる。どんなに世界が歪もうと正しいものは正しいと、信じ続ける勇気を与えてもらっているような気がして。
中間部分あたりで道也先生の語る「文学」の話と、最後の演説の場面は痛快です。本当に本当に素敵。
それから最後の場面の、呆気ないけど劇的な感じも好き。
学問の意味を見失い気味なひとに、納得いかない世界に悶々としているひとに、是非、この本を。
Posted by ブクログ
#899「二百十日・野分」
漱石の割と初期に当る中篇二篇です。
「二百十日」は、「剛健な趣味を養成する」ことを目的に、阿蘇へ温泉旅行へきた圭さんと碌さんの会話を中心に話がトントン進みます。一見のんきな落語風の会話で笑はせてくれますが、資本家嫌ひの圭さんが放つ一つ一つの発言が時代を抉ります。
「野分」では、文学者白井道也と、高柳君・中野君の二人の若者が中心人物。白井道也は地方で教師をしてゐたが、学生たちに追ひ出されること三度、つひに東京で妻と二人で引きこもる生活に。
「二百十日」のテエマを更に進化させ、終盤の道也の演説は本作の白眉であります。観念的にならず、物語としても興味深く、ラストの展開は中中ドラマティック。
漱石作品中でも地味な扱ひで知名度が低いかも知れませんが、漱石の文学者としての覚悟も窺へる貴重な一作ではないでせうか。でも道也の奥さんは可哀想でした。
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40代に迫ったころの夏目漱石が書いた、短編と中編の二篇。
『吾輩は猫である』を書いていた漱石が、
この作品では社会に挑むようなテーマを扱っています。
「二百十日」はほぼ会話でできあがっている作品。
阿蘇の山に登るための旅中の会話が主体なんですね。
主人公の二人はところどころとぼけていて、
まるで落語みたいだなあと思いながら、おもしろく読めていく。
主人公の一人、圭さんが剛健な人物で、
当時の金持ちや華族連中の存在がいけない、
という持論を展開していきます。
それでも、冗談を交えた日常会話文ですから、
論理がむずかしいということもなく、
読者の気持ちもそこに乗り移るように、
男気ある好人物との触れ合いを楽しむように
読書することになるでしょう。
中編「野分」は、
社会派的性格が「二百十日」よりもずっと濃くなっていますし、
リアリティさも強い文体です。
クライマックスの、白井道也の演説はなかなか読みごたえがありました。
当時38,9歳の夏目漱石が考えたことでもあるでしょうし、
だいたい同年代の今の僕と重ね合わせて考えてみもしました。
今って、階級社会になってきましたよね。
70年代に築かれた中流層が崩れ、
下層階級と金持階級との二極化がすすみました。
そんな現代と、明治40年くらいのこの小説の舞台の時代の構造が、
もしかするとちょっと似ている部分がある。
金儲けに走ってうまくいき、富を得ただけなのに、
まるで位人臣を極めたかのように、
学問にも通じているかのようなふるまいをする人たち。
本作品では、それを「おかしいことだ」と、鋭く、でも平明な言葉で、
世間に投げかける。どうだ、と、まな板にのっけたんです。
「学問即ち物の理がわかると云う事と、生活の自由即ち金があると云う事とは
独立して関係のないのみならず、反って反対のものである。
学者であればこそ金がないのである。
金を取るから学者にはなれないのである。
学者は金がない代りに物の理がわかるので、
町人は理窟がわからないから、その代りに金を儲ける」
「それを心得んで金のある所には理窟もあると考えているのは愚の極である。
しかも世間一般はそう誤認している。
あの人は金持ちで世間が尊敬しているからして理窟もわかっているに違いない、
カルチユアーもあるに極まっていると―――こう考える。
ところがその実はカルチユアーを受ける暇がなければこそ
金をもうける時間が出来たのである。
自然は公平なもので一人の男に金ももうけさせる、
同時にカルチユアーも授けると云う程贔屓にはせんのである。
この見やすき道理も弁ぜずして、
かの金持ち共は自惚れて……」
という二つの引用セリフからもわかります。
そして、現代にもそういう誤認が市民権を得ていながら、
同時になんか腑に落ちないな、
という違和感もみんな感じているところだと思います。
それを、小説内の在野の思想家・白井道也が、
ひいては漱石のような作家が、
社会のそのあり方を憂い、強く糾弾しているんですよねえ。
見事だと思いました。
あとは、全然本筋とは離れますが、
「二百十日」では、豆腐屋(圭さん)にたいして、
豆腐屋ってたいがい彫り物をいれてるものだろ、
っていうようなセリフがあるんですけど、
日本の入れ墨の歴史をまったく知らないから驚きがありました。
それと、
田舎から出てきたばかりの若い女が隠し事ができず、
すぐに正直に喋ってしまうことを
笑いのダシにした芝居が西洋にあるくらいで、
田舎びとはとかく恥ずかしいものだけれど、
「実際田舎者の精神に、文明の教育を施すと、
立派な人物ができるんだがな。惜しい事だ」
というセリフが出てきて、言ったもんだな、と思うところ。
また、「野分」では、
文学者っていうのは、
楽に生活していけるものじゃないんだよ、
苦しまない者は文学者なんかなれないんだよ、
みたいに語られている。
そうさなあ、と思った次第です。
いや、しかし、
僕は元々「文学なんてカタブツなんだろう」から入ってる人だから、
こういうのに触れると素直に驚くし、刷新されます。
漱石はすごいな。
標準であるし、その標準の水準が高い位置にある。
日本の宝物的作家だと思いました。
Posted by ブクログ
学問に対する志は確かに大切だと思う。ただ金力を余りにも毛嫌いしすぎている印象はあった。ラストの展開、中野君は高柳君の作品見たさもあって金を融通したのではないか。もしそうなら高柳君の行動は中野君の見当違いになりはしないか?事象や主張が明確なだけに、疑問の多い作品だった。それだけに、反論やら別の展開を想像しやすいのは面白かった。あと、同意できる部分や上手い表現は他の作品に劣らず多かった。
結婚式で、立派な中野君と見窄らしい高柳君が出会った時、お互いがお互いを「これは」と思ったとあるが、この辺りは言葉の選び方が秀逸だと思う。「これは」と思うだけで、その先はお互いの友情やら思い遣りが考えるのを一歩留まらせるのだ。しかし、その先を考えさせざるおえないのだ。
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「野分」
最初の「白井道也は文学者である」に 引き寄せられた。白井道也だけでなく 高柳君も 夏目漱石なのだろうか。「野分」は 夏目漱石の決意書であり、若い学者への職業論。最後の演説は 野分という言葉の通り、台風のような 強い言葉。風が吹くタイミングで ストーリーが転回している
著者が文学者として伝えたかったのは 「文学は 人生そのものである〜苦痛であれ、困窮であれ〜それらをなめ得たものが 文学者である」
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『野分』について
小説の体を成していますが、思想的な主張の色彩が濃く表れています。
学問とはかくあるべしと主張をする者と、それに共鳴する者が主軸になりますが、彼らが最後に報われるというわけではありません。その点で、理想を宣言しつつ、理想主義者が肩身の狭い思いをする現実を批判した作品のように思います。
各々の言い分にうなずける部分があって、それぞれの主張の中間地点に、歩きやすい道があるんじゃないかと思ってしまいますが、その中途半端な考えは、彼らの方からするともっての他なのでしょう。
幕引きが突然に訪れる感があります。その分劇的ですが、もう少し先まで顛末を知りたいと思いました。
Posted by ブクログ
本書は最近の活火山の活発さのニュースで二百十日という天候が荒れやすいとされる日のことと夏目漱石がその名で小説を書いていることを知ったのをきっかけに読んでみた。当時の書き方を表記を現代の新仮名遣いに改めていても独特の言い回しで読みにくかったが明治も40年が過ぎ当時の日本の先行きが見えない状況は今21世紀にも通じるところがありそういう視点で読むと先人の考えは参考になりところもあり面白いと思う。
Posted by ブクログ
野分の高柳君と中野君が結婚披露宴でお互い「これは」と思いつつそれには触れずにやり過ごす場面。この辺りの人間観察の機微というのは凄い。グサッときた。
Posted by ブクログ
いまさらの夏目漱石ですが、これは読んだことなかった。
すーごーくー、良かった!
たしか、何年か前の姜尚中の著作『悩む力』で、彼が夏目漱石を絶賛していたように記憶していますが、ほんと、今のこの時代にこそ読まれるべき。
私は、頭の中がすっきり整理できました。
当分、夏目漱石を読み続けることになると思います。
夏目漱石が「明治の青年たち」に向けて書いた作品。
次の時代の扉を開く青年の一人であった志賀直哉や武者小路実篤らは、『野分』により強い感銘を与えられたそうです。
Posted by ブクログ
「二百十日」
会話が大部分を占めテンポ良く話しが進み、風通しの良い印象。金持ちへの痛烈な皮肉を含むものの人物造詣、思想ともに深みはこれといって無く、ただただ読んでて楽しい短編。
「野分」
その理想主義のために中学教師の生活に失敗し、東京で文筆家としての苦難の道を歩む白井道也と、大学で同窓の高柳と中野の三人の考え方・生き方を描く。
とのことですが、こちらはもう本当に好きです。わたしは最近、自意識と、他者との関わり、つまり内的生活と外的生活のバランスについてすごく悩んでいるのですが、この短編に出て来る主人公達もバランス取りにとても苦しんでいるという印象。それから経済的なこと、現実的生活の労苦にも焦点が当てられているのですが、衣食住に困ったこともなく親に養ってもらっている甘ったれた学生のわたしにはもう耳が痛い。こういった現実的なつらさって、生きていくうえで必ずどこかで誰かが引き受けなければならないことで、まあ誰もがいずれはある程度引き受けていかなければならないとは思うのです。その人とその人に関わる人が「きちんと」生きるために。道也先生の演説を笑う権利は、誰にもない。現代の青少年に告ぐ、といった啓蒙精神も多分に含まれるこの作品に、叱咤された気分。精進します。
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漱石の作品ではおなじみのテーマである「生活」と「趣味」の両立を扱った1冊。ただし、どの作品よりもこのテーマを全面に押し出し、「先立つものはお金」に対するアンチテーゼを本気で打ち出している。1日の大半を生活者として過ごしている者としては、全面的に賛成というわけにはいかないが、納得する面も多々あった。
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かための文章でわりと読むのはきつかったけど、二百十日は会話中心でテンポよかったし圭さん碌さんのコンビがいい感じだった。野分は道也先生と高柳の不器用な生き方にじれったくなりながら、道也はかっこいいと思いました。高柳はラストの言動が超ナイス。ラストは急にこしらえちゃった大団円みたいな感じらしいですがこれはこれでアリ。めちゃくちゃアリ。すっげー面白でした。むしろ問題は虞美人草にあるでしょう虞美人草好きだけどね
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特に「野分」では拝金主義の世の中を痛切に批判するという点において、漱石の考えが力強く盛り込まれていたのではないかと思う。道也先生の演説は素晴らしく格好よく印象的である。漱石自身の考えがギュッと凝縮された作品。
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一人坊っちは崇高なものです、とさ。
誰かと違うことをするなら、誰もやったことのないようなことをするなら、ほかの人からどう見られようとも気にしちゃいけないのよ。
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「二百十日」は阿蘇へ登る途中道に迷う二人の様がかなりリアルで怖く、二人の話す世の中の厳しさの暗喩として効果的。飄々とした二人の友情も心地よい。
「野分」の先生夫婦のやりとりや状況は「道草」等漱石の作品ではおなじみだが、漱石の思うところをここまではっきり語らせるのは珍しいのではないか。中野君の描写に、皮肉や冷笑より私は漱石の人を信じたい気持ちが感じられる気がした。
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二百十日は弥次喜多みたいで楽しく読めた。
悪天候時の山登りは危険。
野分は日常会話部分はすらすら読めても、頻繁に登場する漢文を下地にしたような文章が難しくてつっかえつっかえしながら読んだ。
まず、世俗的な考え方の人として描かれた道也先生の奥さんやお兄さんだけれども、その言い分ももっともだと思った。自分達を不幸な方向へ向かわせないと文学って書けないものかね?
また、道也先生や高柳君からすれば金持ちの中野君は対立的な立場の人なわけだけど、中野君みたいに自分のことを大事にして気にかけてくれる友達を高柳君は大事にせんといけんよ。「金持ち喧嘩せず」を体現している。
高柳君のラストの選択はだいぶ検討違いだと思った。中野君に対する裏切りじゃないか?道也先生もそれで良いのか?
数年後には高柳君は孤独に死んでしまいそう。
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阿蘇に旅した“豆腐屋主義”の権化圭さんと同行者の碌さんの会話を通して、金持が幅をきかす卑俗な世相を痛烈に批判し、非人情の世界から人情の世界への転機を示す『二百十日』。その理想主義のために中学教師の生活に失敗し、東京で文筆家としての苦難の道を歩む白井道也と、大学で同窓の高柳と中野の三人の考え方・生き方を描き、『二百十日』の思想をさらに深化・発展させた『野分』。『二百十日』が幾分のんきで好きですが。
Posted by ブクログ
旅行した2人の青年の問答を中心とした二百十日とリア充、非リア充、理想家の交流を描いた野分の二編。
野分のラストが好き。同情とかではない、世間に一矢報いてやった感が潔い。
Posted by ブクログ
会話のテンポの良さが読みやすい。
『野分』の先生の、奥さんの言い分はもっともだと思いながらも、先生との対比がなんだか世俗的すぎてゾワっとしたよ。。。
Posted by ブクログ
野分の主人公の理想主義者,白井道也は文学者としての理想を貫くべく,現実から背を向けた生活を送る.あまりにも潔い生き方.この人物を漱石はある肯定感を持って描いている.(彼からみると,私などは現実に妥協を重ねる卑怯な生き方をしている人間ということになるのだろう.)その理想は美しく力強いが,一方でそれは生活という現実と関われない,明治の知識人の特有の不健全な精神とも現代の目からは感じられてしまう.
漱石の自筆原稿の細かい神経質な字が何度も目に浮かんだ
Posted by ブクログ
二百十日…圭さん碌さんのユーモアのあるかけ合いがとても楽しい作品。野分…漱石の小説にはしばしばあることだけれど、過去の自分(享楽)、現在の自分(悲壮)、こうなりたい未来の自分(泰然)の像が現われる。この作品にはその三像全てが現われていたのが印象的でした。