あらすじ
人に勧められて飼い始めた可憐な文鳥が家人のちょっとした不注意からあっけなく死んでしまうまでを淡々とした筆致で描き、著者の孤独な心持をにじませた名作『文鳥』、意識の内部に深くわだかまる恐怖・不安・虚無などの感情を正面から凝視し、〈裏切られた期待〉〈人間的意志の無力感〉を無気味な雰囲気を漂わせつつ描き出した『夢十夜』ほか、『思い出す事など』『永日小品』等全7編。(解説・三好行雄)
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Posted by ブクログ
この一冊がオムニバス。しかも「夢十夜」「永日小品」「思い出す事など」はそれぞれ10、24、33の独立した小品からなる。それゆえ、どこからでも、どれからでも読み出せる代わりに、一品一品を味わいながら読むと、とても数日では済まない(すなわち、時間をかけて楽しめる)。
なかでも「永日小品」には、唸るような小品が多い。たとえば「猫の墓」。飼っていた老猫が死にゆくさま、漱石自身ではどうにもならぬこと、まわりのみなが無関心なさま、しかし亡くなった途端に関心が向き、その死を悼む、それが感動的なまでに書かれている。「クレイグ先生」は、ロンドン時代に個人教授をしてもらった老先生の思い出。そのアパートの様子、先生のしぐさやアイルランド訛りの話し方までが目に浮かぶようだ。終わり方も余韻を残す。
本書の冒頭は「文鳥」。登場するのは鈴木三重吉。三重吉の人間味がよく出ていると思う。
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文章の流れを追うのが難しい短編集ではあるが(夢十夜は読みやすい)漱石先生の豊かな語彙が遺憾無く発揮され読んでて気持ちの良くなる短編集。夢十夜の第一夜、第六夜は高校の時に課題でやったなと懐かしく思った。第六夜の「大自在の妙境に達している」というセリフどんだけ生きてても絞り出せる気がしない。132ページの行列は読んでてニヤニヤしてしまうほど微笑ましい描写で大好き。思い出すことなどでは修善寺の大患での漱石先生の日記のようなもので修善寺の出来事を詳しく知りたかった自分には大変興味深かった。吐血して危篤状態となったことの意味を深く考察した漱石先生の文章がとても切実で身に染みる。特に5章19章が大好き。漱石先生が大病にかかりそれをいかに文学に活かせるか深く考察しており、大変面白い。19章が本当に好き。漱石先生の人間観、社会観が垣間見える。ラストの「願わくは善良な人間になりないと考えた。」の文章を読んだ時は頭が晴れるような快感に襲われた。
漱石先生の文章心がざわついてる時に読むとスッキリする。
Posted by ブクログ
高校以来の再読。夢十夜、文鳥ともに短編だが、凄い充実感。ほんとに読んでよかった。夢十夜はいろんなひとの解釈と自分の解釈を比べるのも楽しい。文鳥は"綺麗で上手い文章"と読みやすさが両立していて本当に好き。
Posted by ブクログ
第一夜で引き込まれて、
第三夜で恐怖し慄き、
第八夜が物凄く面白く好きだった。
オムニバス的で読みやすく、一夜のたびに引き込まれて非常に味わい深い十夜でした。
Posted by ブクログ
庭に植えたわけでもない百合の花が咲いて、夢十夜を読みたくなり読む。
百年待って咲いた百合の花の露滴る白い花弁に接吻。はぁ~とため息。
あらためて読んで気になったのは第十夜。
「豚に舐められますが好う御座んすか」
舐められたくはない。次から次へとやってくる豚の鼻先を杖で打ちつけること七日六晩。とうとう舐められて倒れる。稀有なことではなく、こんな日常を送っているって気がしないでもない。
Posted by ブクログ
思い出すことなどがよかった。一度死にかかったが故の死生観や所感が、漱石の筆致で綴られていて、とても感銘を受けた。ここで生きながらえ、こころが生まれたかと思うと、生き延びてくれてありがとうと思う。
Posted by ブクログ
「夏目漱石」は学校の教科書に載ってたかどうか記憶も定かでなはなく、作品を全く読んでないに等しいのですが、とあるきっかけでこの本を手に取って読んでびっくり。読むのが難しいんだろうな…と恐る恐るでしたが全くそんな事はなく、情景や心情の描写が細く映像が目に浮かび、また表現が素晴らしく引き込まれました。時にクスッと笑ってしまうような所もあったり、不思議な…一体どういうことなんだろう…と心にずっと残る事もあり、いろんな感情を引き起こされました。これをきっかけに夏目漱石作品をどんどん読みたいなと思いました。
Posted by ブクログ
短編小説と随想のあいだくらいのものだったり、
日記調のものだったりする小さな作品を小品というそうですが、
夏目漱石のそんな小品を集めた本です。
もともと、昨年の三月に観たのですが、
Eテレ『100分de名著 夏目漱石スペシャル』にて扱われた『夢十夜』に、
理屈を超えたところで、なにか強く惹かれるものがあり、
これを目当てで本書を手に入れて、今回やっと、読んだのでした。
309ページの分量のなか『夢十夜』はたかだか30ページそこそこ。
読み終えてしまうと、
そのあとの200ページ超にまったく期待をしていなかったため、
すこし放っておいたくらいなのですが、
続きを読みだすとすごくおもしろい。
どんな小さな作品でも、夏目漱石をみくびるものではないな、と
恐れ入った次第です。
なんていうか、夏目漱石って人はエリートで文豪というイメージですから、
強い意志で文学をやり抜いた人で、明治ならではの頑固者でもあったのではないか、
なんて勝手に思ってしまうのですが、そうじゃないんですよね。
文学をやり抜いたことはすごいことですけども、
漱石自身もそうであるとしながら、
人間一般っていうものの柔弱な部分を見つめ、
愚かな部分を秘密にせず、露わにすることをよしとしている。
明治時代ならではだなあ、と現代人には受けとめられるような、
男尊女卑の浸透した生活の描写であっても、
出来うる限りのフラットさで女性を描いているふうであるので、
描かれている人間の差別意識だとか階級意識が透けて見えてくる。
「素直に、ストレートに」というような姿勢が
漱石のベースにはあるなあと読み受けました。
イギリス留学時のいっときについての小品もありますし、
猫(吾輩は猫であるのモデルですね)が死んだときの小品もあります。
その他、明治の頃の情緒、生活感などを感じることができます。
そんなところで驚くのが、
当時の思想や哲学に、現代に十分使えそうなものがあることでした。
漱石くらいのエリートですから、
洋書をたくさん読んでいます。
舶来品として、西洋で出版されてからそれほど長いタイムラグもなく
漱石たち文化人や学生たちは吸収していたのかもしれない。
……まあ、わかりませんが。
たとえば、こんなのがあります。
血を吐いて長く静養した43歳前後のころに書きとめた
『思い出す事など』という小品集での23章目にあたるところなんですが、
____
余は好意の干からびた社会に存在する自分を甚だぎこちなく感じた。
____
から始まっていく洞察であり思想であるところが、
僕にとっては非常に共感するものだったのです。
「義務」と「好意」についての話なんです。
____
人が自分に対して相応の義務を尽くしてくれるのは無論有難い。
けれども義務とは仕事に忠実なる意味で、
人間を相手に取った言葉でも何でもない。
従って義務の結果に浴する自分は、
有難いと思いながらも、
義務を果たした先方に向って、感謝の念を起し悪(にく)い
それが好意となると、
相手の所作が一挙一動悉く自分を目的にして働いてくるので、
活物(いきもの)の自分にその一挙一動が悉く応える。
其処に互を繋ぐ暖かい糸があって、
器械的な世を頼もしく思わせる。
電車に乗って一区を瞬く間に走るよりも、
人の脊に負われて浅瀬を越した方が情けが深い。
____
このあとにも続いていくのですが、
仕事でもなんでも義務でやっていたら干からびてくる、
半分でも好意が混じっていたらあたたかい、と漱石は言うんです。
僕もこの事について同じように考えていたことがあって、
それはモース『贈与論』を解説する本に触発されたものでした。
そのあたりは、本ブログの記事としてもいくつか残っています。
『贈与論』は漱石の死後8,9年後の出版ですし、
その後いつ邦訳されたかはわからないですが、
「干からびた社会」という気付きに繋がる時代の空気みたいなものが、
たぶん1900年前後の何十年間かに世界的にあったのかもしれない。
日本では平成の終わり頃から、
同時多発的にこれが再発生してきているように、僕には見受けられる。
僕はたとえばトレーサビリティにも人の温かみ、
つまりその人の体温や影を受け手が感じるようになればいいのに、
と考えていたのだけれど、
実はそれって比較的近い年代である近代からの温故知新的なのですね。
この、「人を想う」的生活って、
コモディティ化(一般化)したらいいのにと思っています。
なんでそんな「人を想う」ようなライフスタイルがいいの? と問われれば、
そのほうがみんな生きやすくなるから、と答えます。
「一般」だとか、「ふつう」だとか、そういった人たちの生きやすさ。
なので基本的に、
抜き身の刀を手に世界に出て「えいやぁ!」と戦うような人のための思想ではありません。
また、27章目でも、おもしろい思想が出てきます。
オイッケンという学者の説を紹介しながら、漱石なりの解説をするところです。
そこで扱われるのが、精神生活という言葉であり概念です。
_____
(略)オイッケンの所謂自由な精神生活とは、こんなものではなかろうか。
―――我々は普通衣食の為に働いている。衣食のための仕事は消極的である。
換言すると、自分の好悪選択を許さない強制的の苦しみを含んでいる。
そういう風に外から圧し付けられた仕事では精神生活とは名付けられない。
苟しくも精神的に生活しようと思うなら、
義務なき所に向かって自ら進む積極のものでなければならない。
束縛によらずして、己れ一個の意志で自由に営む生活でなければならない。
_____
これを漱石はこのあと、実際は、精神生活の割合は、6:4だとか7:3だとか、
そうやってみんな折り合いをつけているんじゃないのか、
と現実の所に着地させています。
先ほどと同じように、この思想に関しても、
僕は他律性、自律性という言葉から連想していろいろ思索し、
本ブログにもその形跡が多数、記事として残っていますし、
6:4だとか7:3のところは、
2000年くらいから流行った「自分探し」というものの
ひとつの形があるのではと考えていました。
つまり、自分探しとは、自分と社会の綱引きをやって、
「どうやら6:4のポジションが自分には一番ストレスがない」
と見つけることでもあったんじゃないか、というものです。
(そういう種類の自分探しもあったのでは、という話です。)
ともあれ、「いや~、漱石と同じことを考えていた」と驚くのですが、
僕の頭が明治のころの時代の思想にしっくりきているあたりがちょっと可笑しい……。
それも、僕の何年もかけた思索が、
この小品集『思い出す事など』のなかにすっぽりはいる程度だというのには
泣き笑いしてしまうなあという感じですね。
漱石はいろいろと作品を残したので、それらに点在しているならまだ好いですが、
ひとつところに収まっているのが、まあ、偶然の重なりみたいでもあって、
不思議な感じもします。
というように、
いつも通りですけども、
僕自身に寄せて読んで考えて、読後のその感想を書いてみました。
まだいろいろ感じる部分、考える部分はありましたが、
ちょっと絞って書いていくと、そこに頭が集中してしまって、
書かなかったことが雲のように散ってしまい残らないものです。
世間的にこの作品がどれくらいの評価なのかはわかりませんが、
僕にはとてもおもしろく、好きな作品でした。
Posted by ブクログ
こんな夢を見た。
自分はとあるサーカスで働く道化の少年である。白と黒の化粧をし、同じ色の白黒の道化服を着て、毎日客の前に立っている。年齢は幼く、サーカスのヒエラルキヰでいえば底辺に属するような位置である。賃金も大変に少ないが、しかし、自分はさして悲しんではいなかった。自分の隣には、道化の相棒がいるからである。相棒もまた、白黒の紛争をしているが、少しだけ赤色の混じった服を着ている。身長は自分よりわずかに高いが、自分より痩せていた。
自分と相棒はサーカスの部屋でいつも同室であり、二人で共有している錆の浮いた焼き菓子の缶箱がある。
古びたその中には、菓子は入っていない。入っているのは、僅かばかりの金銭である。自分達の賃金から生活費を引いた時に残った、些少の蓄えである。
いつか、ここを出て、二人で成功しよう、と相棒と話している。
缶箱の中では、手垢で汚れた硬貨がわずかに散らばるばかりである。けれど、自分も相棒も、夢が叶う事を疑ってはいなかった。
客の前に立って芸をするうち、相棒のほうが芸に優れている事が分かってきた。ジャグリング、綱渡り、宙返り。相棒はなんでも器用にこなすが、一つ弱点があった。相棒は人付き合いが苦手であった。異様な程に引っ込み思案で、他の団員ともあまり口をきかない。客に対しても同様である。練習ではあれ程見事に芸をこなすのに、客の前に立つと不思議なくらいに何も出来なくなる。そもそも、道化が人前に立つのが苦手、というのが無茶な話なのだ。
そこで、自分は相棒と他の人間との緩衝材になる事に決めた。自分はさして芸も上手くはなかった。しかし、相棒が唯一打ち解けて話せる相手であったし、それなりに人あしらいも上手いと自負していた。
団員と相棒の仲を取り持ち、客の前では相棒の助手を勤める。相棒の代わりに口上を述べ、相棒にリラックスするように心がけさせた。
その甲斐あってか、歳を経る毎に自分と相棒の二人は有名になる事が出来た。二人で共有していた焼き菓子の缶は大きな宝石箱へと変わっていて、その中に入っているのは、真新しい紙幣がぎっしりと詰まっていた。
自分は鼻高々であった。相棒のおかげ、という事も勿論承知していたが、心の何処かで、この成功は自分の功あっての事である、と思っている。相棒の事は信頼していたが、心の何処かで、自分がいなければならないのだ、と思っていて、自然と相棒への言葉も居丈高になっている。
相棒といえば、相変わらずに芸は見事であるが、自分に対してはいつも眉根を下げた困ったような笑みで喋るようになっていた。人あしらいは上手くはないように見え、些か卑屈にさえ感じていた。
自分は他の団員にも、相棒は自分がいなければ駄目だ、と語っている。他の団員は自分の傲慢に辟易したような顔をしているが、自分が気付かない。
ある時、とうとう痺れを切らした団員が、自分に、相棒はお前がいうような人間ではない、と言った。
自分がむっとしているのが分かると、団員は自分をある場所に連れていった。そこはサーカスの練習場であったが、そこに相棒が黙々と練習していた。驚いたのは、その周囲に、何人も団員が集まって談笑していた事である。相棒が何かを言うたび、周囲はどっと湧く。その口上は相棒に気づかれぬ位置で聞いている自分よりも、余程人あしらいの上手いものであった。
自分はそれを聞いて、さっと赤くなった。ひどい羞恥の感情である。相棒が、芸だけでなく、人との付き合いやあしらいも、自分などより上手くなっていた事に気づいた自分は、己の傲慢さに顔が上げられなくなる程に苛まれた。
自分は走ると、相棒との相部屋に駆け込んで顔を覆った。誰にも会いたくはなかった。
その羞恥の感情といたたまれなさは、相棒と二人で貯めた宝石箱を見て、余計に高まった。
これを、何処か自分一人の手柄だと考えていた自分にほとほと嫌気がさしている。その上自分は、相棒を見下してさえいたのだ。相棒のあの困ったような笑みは、自分の傲慢に呆れ、哀れまれていたのではないかと考えて、一層に恥ずかしくなった。
此処にはもういられない、と自分は考える。恥ずかしかった。本当に恥ずかしかった。
自分は宝石箱の中身に一切手をつけず、サーカスから飛び出した。もう帰るつもりはなかった。それ程までに恥ずかしかった。
相棒ならば、一人でも上手くやるだろう。むしろ押さえ付け、遠慮を強いる自分がいないほうが、上手くやれるのではないかとすら思った。
自分は夜半の街を駆けた。駆けて駆けて、走って、どれくらいになるのか。不意に、自分を呼び止める声がした。振り向くと、自分の後ろに相棒が立っていた。奇妙な顔である。
相棒は何事かを叫んでいるのだが、自分はその言葉がどうしても聞こえない。
そうして、そこで目が覚めた。
だから、相棒がその時言った言葉が、傲慢であり逃げ出した自分に対する罵倒だったのか、それとも心優しい相棒の同情の言葉だったのか、自分にはわからない。
多分一生分からないだろうと思っている。
Posted by ブクログ
娯楽というよりは勉強だった。
これは夏目漱石の「小品(しょうひん)」が七編入っていて、そもそも小品って何?ってところから私は分からなかった。
最初は小品の意味も分からず読んでいて、これは何?小説?それとも漱石のセッセイ?とどんどん分からなくなったので、解説を一旦読んでみると、何となく分かった。
小品は日本特有とも言えるジャンルで、小説でもなく、感想でもなく、短編小説と随筆の間のような、曖昧な領域なのだとか。
面白い。
でもそれで少しこの文体とかになっとく。
最後まで読んだけど、ちょっと難しい(不慣れな)ところもあって、全部を全部堪能できた訳ではいけど、最初の「文鳥」はとんでもなく良かった!!
家で飼っていたセキセイインコのてれちゃんが懐かしくなり、涙してしまった。
これは鳥飼った人にしか分からない事なのか、そうでなくても感動するものなのか。
とにかく私には強いインパクトを残して、とても短い小品なのに、すごい!さすが文豪!と感激。
その次は、「夢十夜」内の「第一夜」がものすごく綺麗だった。美しかった。
あとは「永日小品」内の「モナリザ」の雰囲気も独特で好きだったし、
「思い出すこと」の中のドストエフスキーの生死と漱石自身の生死を比べるところも面白かった。
最後の小品の「手紙」は比較的読みやすく、楽しめた。最後どうなったのかすごく気になる!!
ちょっと読むのが大変だったときもあるけど、とりあえず1番は、「文鳥」を読めたことだけでも嬉しい!てれちゃん、うちに来てくれてありがとう〜!!いつも精一杯可愛がってるあげられなくてごめんね〜(涙)
Posted by ブクログ
『夢十夜』のみ読んだ。
夏目漱石の作品は全然読んでないけど、この十編を読むだけで彼の凄さが分かった。語彙こそ難しいものの、非常に簡潔で分かりやすい文章。そして「夢」の再現として優れている。「高熱のときにみる夢」とかいう安直な喩えが心底嫌いなのだけど(喩えられているそれは多くの場合単に混沌としているだけ、そして俺はそんな夢見たことがない)、そういった紛い物の「夢らしさ」とは違い、微細な異常や潜在的な恐怖が的確に表現されており、それでいて引力が強い。勿論多少の作者の恣意は否定できないけど、かなり再現性の高い「夢」だと思った。
お気に入りは第一夜と第七夜。死を前者は甘美なものとして、後者は恐怖として描いているように読める。ちょっと危なかっしい。
Posted by ブクログ
初めて漱石の小品を読んだ。『夢十夜』は妖しく、『永日小品』は可笑しく読んだ。『思い出す事など』は、生死をさまよった体験が克明に記されていた。
漱石の事がよく分かる作品集で実に興味深かった。
Posted by ブクログ
夏目漱石の小品集ですね。
7篇の作品集です。
朝日新聞社の依頼で執筆されたそうです。
文鳥
夢十夜
永日小品
思い出す事など
ケーベル先生
変な音
手紙
小品と書きましたけど、私は随筆と思って読んでいました。
解説の三好行雄さんは『日本の近代文学には〈小品〉と呼び慣わされた独自のジャンルがある。小説ともつかず、感想ともつかず、いわば短編小説と随筆との中間にひろがる曖昧な領域なのだ。』と位置付けされています。
漱石もモーパッサンの短編小説『二十五日間』を〈小品〉と呼んでいるそうです。
また、この小品集を三好行雄さんは、「漱石の〈私小説〉と呼んでよいかもしれない」とも語られています。
確かに読んでいて、随筆とはおもむきが異なるようです。筋書きがしっかりしていて、物語性を感じますね。それだけ読むのが楽と言うか、読み進め易さがあります。もともと、漱石の文章は、私には親しみ易さを感じてもいましたが、漱石自身の〈私小説〉ならば余計に親近感が湧くのは当然の事でしょう。
ともあれ、この『小品集』は面白かったです。何回読んでも味が有ります。出版社も様々出ていますので、それぞれで読み直せるのも醍醐味ですね。
Posted by ブクログ
随筆のような感じの作品が多い。主に夢十夜を読んだ。夢のような非理屈的で曖昧な話のなかに文学的なテーマも含まれているのだと思う。いろんな解説本を読むとまた面白くなるような作品だと思う。
Posted by ブクログ
こちらも『標本作家』の参考文献で名前が挙がっていたので気になっていた一冊。久しぶりの漱石。あまり漱石は読んだことがなく、漱石の文章に対して感じている感覚が久しぶりに想起され、あー漱石っぽい…となってました笑
とはいえ小説のようなエッセイのような小品たちは面白かったです。
特に「思い出す事など」が良かった。漱石もある意味一人の人間なのだなというのが、そう思うだろうな~~という共感もあって親近感。
七の宇宙の大きさと自分を見つめるところ、一番共感してしまった。「限りなき星霜を経て固まり掛った地球の皮熱を得て溶解し、なお膨張して瓦斯に変容すると同時に、他の天体もまたこれに等しき革命を受けて、今日まで分離して運航した軌道と軌道の間が隙間なく充たされた時、今の秩序ある太陽系は日月星辰の区別を失って、欄たる一大火雲のごとくに盤旋するだろう。…吾等人間の運命は、吾等が生くべく条件の備わる間の一瞬時ー永劫に展開すべき宇宙歴史の長きより身たる一瞬時ーを貪るにすぎないのだから、はかないと云わんよりも、ほんの偶然の命と評した方が当っているかも知れない。」(p185-186)
「…自然は経済的に非常な濫費者であり、徳義上には恐るべく残酷な父母である。人間の生死も人間を本位とする吾等から云えば大事件に相違ないが、しばらく立場を易えて、自己が自然になり済ました気分で観察したら、ただ至当の成行で、そこに喜びそこい悲しむ理窟は毫も存在していないだろう。こう考えた時、余は甚だ心細くなった。又甚だつまらくなった。…有る程の菊抛げ入れよ棺の中」(p.187-188)
この最後に自作の句やら詩やらを付けてしまうところ含めて身近に感じてしまう笑
お目当てだった「夢十夜」は漱石もこんなロマンティックなものを書いたんだという驚きと、一方で漱石が書いたという点は面白いが作品自体が傑作かといわれると、特に第一夜はてんこ盛りで逆に少々残念な感じがした笑
「こんな夢を見た。」で始まる10の物語、という建付けは好きでしたし、結局一番好きな物語は「第一夜」なのですが…。
「死んだら、埋めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の破片を墓標に置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下さい。又逢いに来ますから」…「真白な百合が鼻の先で骨に徹えるほど匂った。そこへ遥の上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。」
あまりにロマンチックなのですが、やはり一番好きでした。
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高校生のとき夢十夜の話を国語の先生がしてて、どんな話だったか思い出したくて読んでみた。でも夢十夜より今の自分は文鳥のほうが好きかな。鳥って寒さに弱いのだよ…。
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「文鳥」目当てで読んでみた。「思い出すことなど」「手紙」も好み。小説というよりエッセイとか日記とかみたいな文章。当時の雰囲気を感じられておもしろい。「手紙」のその後が気になる。
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おおいに文章を愉しんだ。文章は文字の羅列に過ぎないけれど、それを読んだ僕らは、様々な垣根や境界や、世界の屋根を軽々と飛び越え、海溝へと果てしなく落ち、時の流れを遡りつつ、また果てしなく下ってゆくかと思えば、星雲すらをも行き来し、その時々で辿り着いた場所で何物かを得る。もしくは失う。見知らぬ誰かの胸の内を知って勇気付けられたり、信じ難い所業のために失望の縁に立たされたり。つくづく実感として、読書は時空を超越する。
文豪の心のうちを、堂々覗き見た気分。
Posted by ブクログ
★★★☆☆夢十夜は、夏目漱石の夢の話です。夢の内容から夏目漱石にどんな不安やストレスがあるとこんな夢を見るのかと思いながら読み進めました。最後の「手紙」は読みやすい内容で面白かったです。
Posted by ブクログ
いくつか読んできた漱石の作品とはまた違った趣のある作品でした。
淡々とながれていく日常の中を綴った随筆のような作品集でしたが漱石らしい雰囲気がかなり感じられて作品の世界に引き込まれました。
Posted by ブクログ
「エッセイ的なものが多く含まれる短編集。漱石はこんな文も書くんだなぁ、と驚いたのが「夢十夜」です。ほっこりさせたり、もやっとさせたり、イヤーな気持ちにさせたりと、短い話の中で様々な作風を感じます。面白かったです。
「思い出すことなど」は、胃潰瘍で吐血し、生死の境をさまよったときの話をかいています。そういう事実があったのは知っていたのですが、こうして文章で読むことができて、その状況を知ることができたのは良かったです。
1章や1編がとても短いので、隙間時間にぽつぽつと読んでいきましたが、漱石のプライベートな部粉を知ることができて、とても楽しい時間を過ごすことができました。
Posted by ブクログ
夢十夜は、筋が荒唐無稽なのに語り口が整った小品なので不思議に惹かれ読み進んでしまう。
夏目漱石は、どの作品も物語世界の描写が分かりやすくて楽に没入できるし、周囲へのちょっとした違和感気分が多めな気がして親しみを感じる。僕のほぼ100歳年上だけど、人間の気持ちの営みって今とそんなには変らないんだなぁとも読むたびに思う。
Posted by ブクログ
『夢十夜』
つかみどころのない、ふわふわした世界を思わせる感じで好きだった
『思い出す事など』
夏目漱石の修善寺での闘病生活を綴ったもの。
生死を彷徨った経験の記述が印象的だった。
漱石は、自分が寝返りを打とうとした時と、金だらいに鮮血を認めた時は少しの隙もなく連続していると思ったが、実際は30分ほど死んだらしい。
死って意外とこういうものなのか…と発見した
小説と随筆の狭間である〈小品〉なるものを初めて読んだので興味深かった。
Posted by ブクログ
『文鳥』
「次の朝は又怠けた」p18とあるように毎日のように忘れられる文鳥が不憫でならなかった。解説には「生きることのはかなさと、その裏返しとしての残酷さを彷彿する」p325とあった。淡々と語られる文鳥の死は悲しみとも違う胸がきゅっとなる感覚になった。
『夢十夜』
どれも不思議な夢だった。第一夜が特に気に入った。第七夜も好き。第三夜は怖かったけどどこかで読んだことがある気がした。
『思い出す事など』
序盤は面白かったけど、途中からは所々つまらないところもあって内容が入ってこないこともあった。
『変な音』
夏目漱石は生と死についてよく考えていたんだろうなと改めて感じた。
Posted by ブクログ
夢十夜
映像が残りやすい作品。
第二夜の僧の話
第六夜の運慶の話
第九夜の母が子を縛り付けながら百度石を参る話
が特に印象に残った。
第一夜以外、なんか悪夢でうなされそうな内容だった。
ケーベル先生
私とケーベル先生のたわいもない話をする情景が素敵だった。レモンをしぼって水に入れるシーン。
ケーベル先生の、自己顕示欲のないただただ自分のために音楽をするところ、学生のために生きる殊勝なところが素敵。
変な音
短編らしい短編。
気になって一気に読んでしまった。