高橋源一郎のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
高橋さんの、話し言葉による文章が、とても良かった。
読みやすい。
言いたいことが伝わりやすい。
そして私は太宰治の作品が好きだ。
私は『津軽』を読んで太宰治のイメージが変わった。
そして『斜陽』を読んでまたも太宰治のイメージが変わった。
さらに本作を読んで、太宰治という人の印象がまたまた変わってゆくのを感じた。
というか、
ぼんやりとしか現れていなかったものに、次第にピントが合ってゆく感覚。
日本人におそらく年代問わず一番知られた『人間失格』という作品と、
好きな作品である『津軽』や『斜陽』から受ける印象にギャップを感じていたが、
そこを埋めるものとなり得そうな切っ掛けを掴んだ感覚。
何度も繰り返した心中未遂と成し遂げてしまった心中というものが、
『津軽』や『斜陽』を書いた太宰と結び付かなくて、
そこを結ぶ糸を見付けられそうな感覚。
『人間失格』を読み違えているような、
違っていることは分かるのに何が違うか言えなかったのを、
もう少しで言い表せそうな感覚。
地方名士の生まれである自分を恥じていて、古い型から抜け出せぬ"男"という性にのびしろを見出だせず、ひたすら死を求め続けてしまったのだろうか。
もしかしたら太宰は、今後の世の中を変えてゆくのは女性であり、男性はいつまでも古くさい型に捕らわれ続けるものだと幻滅していたのかもしれない。
嫌悪する自分自身や、これからの未来を変えていくであろう女性たちを作品に描きながら、
現実世界ではひたすらに死を求めてきた。
だとすると、心中未遂も心中も、なにか確信犯的なものを感じてしまう。
ほら、こんなにもダメな"男"である自分をご覧なさいと。
こんなにもダメな世の中を作ってきた"男達"をご覧なさいと。
私が死を選ぶ理由は全て、
世の中が如何に絶望的であるかは全て、
作品に書き表してきただろうと。
『斜陽』のヒロインかず子が言う「人間は恋と革命のために生れて来たのだ」は、『斜陽』の原型である太田静子の"斜陽日記"に見付けた言葉なのかもしれない。
もしそうであるなら余計に、
女性を主人公として、この時代にこの台詞を叫ばせたかったのだろうし、
自分の抱え続けてきた内なる思いをここに見出だしもしたのかもしれない。
そして『斜陽』の中で死を選ぶ直治の遺書。
さらには作家として登場する上原。
こちらも男性としての太宰の代弁者のように感じる。
本当は性別なんて関係ないのにな…と、現代に生きる私は思う。
でも単純に言ってしまえば、そんな時代だった。
勿論、この時代を逞しく生き抜いた人々もいる。
でも太宰治という人は、耐えられなかった。
太宰の作品は好きだし、彼のユーモアと表現力に惹かれるし、作品を知りたい理解したいと思わずにいられないが、自ら死を求める生き方に共感は出来ない。
世の中に、こんなに彼の文学に惹かれる読者が居るということが、ダメだと思う"男"という性と共に"生きる"ことを選択する理由にならなかったのだろうか。
これほどまで敏感に世の中が見えていたにも関わらず、自分自身であるが故に分からなかったのか。
(高橋さんも、太宰は敏感で繊細で見えすぎてしまうと述べている。)
なぜ、これからを担うのは女性であると確信しながら、その愛すべき女性を道連れとする方法を選んだのか。
そもそも、死にたい死にたいと思い続けている人間が、小説を書き上げるという生命力にも似たパワーを沸き起こすことが出来たのか。
一度目、死ねなかった。
ならばと、沸き上がる思いを作品にしてみる。
その時に、生きるために作品を生み出していたのなら、何故そのまま書き続け、生き続けなかったのか。
故郷にまで足を運び『津軽』も書いたのに。
2022年7月22日発行の本作で、高橋さんは言っている。
「……今だって"戦時"なのかもしれない。ぼくたちは、いつだって、そういう意味での"戦争"の下にいるのかもしれない。………そういうとき、いちばん困るのは、詩人や作家だ。なにより、ことばを使うのが仕事だからだ。そのことばに、自分の思いを乗せなきゃならないからだ。」
そのあと本書に続く、太宰の"三井君の死"についての『散華』の内容がつらい。
高橋さんの言葉を引用すると、
「"散華"は、その言葉の意味を、戦争によって奪われたのである。」
さらに続く"三田君からの4通目の手紙"。
これを読んで鳥肌が立つ。
戦争の為に死んでゆく三田君。
やはり太宰は確信犯的に、大いなる文学の為に死んだというのか。
分からない。
"100分de名著"の高橋源一郎さんの回、見たかったなぁ。
少なくとも、本作を読んで本当に良かった。
まだ私は何も掴めていないし、何も見えていなかった。
太田静子の『斜陽日記』もいつか読みたい。
太宰の『散華』。
これは必ず読まなければ。
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Posted by ブクログ
海上自衛隊の訪問をきっかけに、積読を解消。高橋源一郎さんが「戦争を語ること」について感じている違和感や勘違い、思い直しを記述したもの。戦争は悪いこととは分かっているが、それとどう向き合うかについては実は全く分かっていない。もちろん、戦争に関する本はたくさん読んだし、8月になればTVなどでみることもある。日本は加害者の国であり、沖縄や鹿児島、東京でも、戦争の爪痕を感じることもある。ウクライナでは今まさに戦争が起こっている。でも、個人としてどう向き合っているか、どう捉えているかと問われると、甚だ心許ない。しかし、こうしている間にも、ひたひたと戦争に向かっているかもしれない。戦争とはっきりとわかる前に、なんとなくそれらしい状態になって、その状態に慣れて、後戻りできない状態になるかもしれない。今、とく耳をすまし、目を見張り、声を上げなければと思った。
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Posted by ブクログ
スポーツうるぐすで,初めて知った高橋源一郎さんは,飄々としてて,誰の悪口も言わない,でもすごく鋭い人,という風に僕には映っていた.それから時々新聞や雑誌のコラムなんかで文章を読む機会があったり,試験問題で出逢ったり,その度ごとに「気になる」存在でありながら,きちんと本を読んだことがなかった.
その気持ちに踏ん切りをつけたのは麻布十番の焼き鳥屋さんでの志村けんさんとのエピソードを読んだ時.
あのエッセイの凄まじさ.これは読まなくてはいけない!と思った.…だのに,中々手に取る勇気が湧かなかった,何となく読むのが怖い…そんな作者だった.
で,この一冊.
とても丁寧だ.言葉も考察も.そして決して結論めいた方が書かれていないのも何だか新鮮だった.そして,とても「怖い人」だと思った.怒る人とか,危ない人とか,ヤバい思想を持った人とか,そういうことではなくて,今まで触れずにいたこと,気づかずなのか,あえて見なかったのか,深めれば痛い思いをすると思っていたからなのか…そう言った後ろめたさややましさみたいなものを全部見透かされてしまったような気がした.あーやっと,白日の元に晒せた,という妙な安堵感と相俟って,「これってヤバい納得,だよね?」みたいな変な感じにさせられてしまった.
あーこれは…明日から見る世界が変わるやつだ…参りました,ありがとうございます. -
Posted by ブクログ
強く強く心を揺さぶるものがありました。
それは必ずしも本書で語られた内容によるものではなく(だってたぶん僕はこの本で語られたことの1/3も分かっていないと思いますから)、高橋源一郎という人が、背伸びをせずに、かといって自身を矮小化することもないまま、できるだけ等身大で、それはつまり戦争体験者でもなく、かといって戦争に無責任にあるわけにもいかず、ただ戦争というあまりにも巨大な(少なくとも巨大だと思われてしまう)課題についてどうしたらよいか分からないという立場に立って、戦争を考えるためにはどうしたらよいかということを実演してみせてくれた、その正直なありように、心が、あるいは偉そうに言えば僕の知性と呼びうるものが反応した、そんな気がします。
本書は太宰治の「私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬」という『津軽』の言葉で締め括られていますが、これは本書にかけた高橋源一郎さん自身の自負であるように僕には感じられました。
「戦争についてできるだけ誠実に向き合ってみた。そしてその過程で見たもの、感じたもの、考えたことを、できるだけ正直に書いてみた。さあ、君は僕の言葉をどのように聞いてくれたのだろうか。いつか、君の意見も聞いてみたいね。(タモリさんが言うところの「新しい戦前」というこの時代を)しっかり生きよう。考えることをやめるな。では、また次の本で」
本書のなかで「日常」について語られる箇所がありました。
「日常」を忘れず、「日常」を保持し続けるためには、「日常」を経験するだけでなく、その日常の中で「日常とはなにか」を問うという行為が必要でしょう。
思考停止だけはしてはいけない。
そんなメッセージを感じて、心は揺さぶられたのではなかったと思います。
2023年一番最初に読み終えた本になりました。
今年もできるだけたくさん本を読みたい。映画を見たい。
そんな気持ちになりました。
今年最初の出会いがこの本でよかった。 -
Posted by ブクログ
作品紹介・あらすじ
「文章」の書き方は、自分の好きな「文章」が教えてくれる。
だからまずは自分の好きな「文章」を見つけよう。
タカハシさんが好きなのは、明治生まれの貧しい農夫木村センの文章や、免疫学者・多田富雄、スティーブ・ジョブズの驚異のプレゼンなど。
タカハシさんはそれらの、どこが好きなのか?
どうすれば、こんな「名文以上の名文」が書けるようになるのか?
これは、専門家やエライ人以外のみんなのための文章教室。
文庫化に際して「補講 二〇一八年の秋に学生たちが『吉里吉里国憲法』を書く」を増補。
(『ぼくらの文章教室』改題。)
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読み始めて直ぐに「何か読んだことあるな」と思ったら文庫化に際して「ぼくらの文章教室」を改題したとのこと。そうか「ぼくらの文章教室」を読んでいたんだ。でもあれは何年も前に読んだもの。何故直ぐに「何か読んだことあるな」と思ったのか。それは冒頭で紹介されている木村センさんの文章が強烈だから。「老人の美しい死について」という書籍からの引用なのだけれど、多分僕の何十年にも渡る読書歴の中でも、トップに位置するくらいに強烈で悲しい文章だった。ちっとも上手い文章じゃないし、漢字も殆ど使われていない。文字が読めなかったおばあさんが、どうしても「最後に」家族に伝えたいことがあったので、お孫さんと一緒に文字を習い始めて、書かれた文章とのこと。多分生まれて初めて書いた、唯一の文章なのだと思う。同じようなことを書いてしまうけれど、僕はこんなに強烈で心にいつまでも残る文章を他に知らない。だから読み始めて直ぐに思い出した。
この本には文章を上手く書く秘訣とか、小説の書き方とか、そういうハウツー的なことは一切書かれていない。その代わり、「文章」とは何か?という根源的なことが書かれているように思う。上記の木村センさんの文章と同じく、色々な人々の文章が引用されているけれど、どれも心にずっしりと重たいものを残してくれる。それらはそんじょそこらの小説などからは絶対に感じ取ることが出来ない。