町田康のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
山好きな著名人が山について書く、というのではなく、山にゆかりのあった著名人という感じだろうか。山に対して良いイメージが持てない人も、山と言っても狩猟をしている人だったり、思い思いの山での暮らしを感じられて良かった。
特にスズキナオさんの高取山の話が良かった。舞台となる山の近くに住んでいながら、恥ずかしながら茶屋文化は知らなかった。
山に登る人たちと、それを受け入れる人たちの出会いがとても良くて、温かい気持ちになれた。
アルプスの山小屋なんかもそうだと思うけど、この話ではさらにお互いの距離が近くて、ちょっと出会ってみたいなぁと思った。
山に魅入られる。
その人の意思でというより、まるで山がその人をコントロールして沼らせているような、受動的でどこか他責的な響き。
でもその感覚はすごく良くわかる。
人を惹きつける(もはや、引きつける?)エネルギーがすごい。
そしてそのエネルギーに取り込まれてしまったら、最後なのだ。 -
Posted by ブクログ
登山はしない(できない)が、山の本は大好物である。
が、山ヤや冒険家で文章を書ける人は稀。というわけでこの本は楽しみにしていた。
が、読み始めて「登山の話ちゃうやんけ」
角幡唯介さん石川直樹さん以外は単なる文筆家や著名人なので、十中八九“高尾山しか登ったことないけど、それすらしんどくて嫌になった”というエピソードが出てくる始末。
考えてみると「山にまつわるエッセイ」なので、過酷な登山の話が出てくるとは限らず(どころかその可能性は極めて低く)、何ならテーマが山というだけなので登る必要すらないのである。
というわけで早とちりもありつつも、エッセイとしては面白かったです。最近読んだ松永K三蔵さん、『我が友スミス』が面白かった石田夏穂さんの文章が読めてよかった。
一方、穂村さん、角幡さん、唯川さんはその話聞いたことあるわ…てなった。
ただ唯川さんは前に読んだ時に私でもエベレストが見えるところまで行ける可能性がある!?と思ったことを思い出して、でも素人がこんな接待登山の環境を用意するのはムリといよいよ諦めました。 -
Posted by ブクログ
町田康の作品を初めて読んだが、喋り言葉や主人公の性格がとてもフランクで入って来やすかった。
登場人物の言動やその描写には必ず意味がある、伏線になっているんじゃないか?という想像をぶち壊すくらいに、意味のない言葉や意味のない動きを登場人物はするが、そこがコントのようで面白い。
え、オチは?で終わる作品もあったので拍子抜けに感じるところはあったけど、
作中の登場人物の行動や思想がおもろい
それでいいじゃんって思いだしてからはそう言う読み物として楽しむことができた。
悪く言えば星新一のオチが弱いバージョンのような。
でも違うところは登場人物の作り込みで、意味のない言動をするやつ、すぐ殺されるやつの背景まで説明されてて、その描写やシーンが脳内で想像しやすく、オチが無くてもその事件を目の当たりにしているような臨場感を味わうことができる。
実際自分が生きてて全部が全部意味あることをしてるいるわけじゃないし、意味のわからない言葉を発してみたり、意味のわからない動作をしてみたり
それを書籍に書くか?ってことを実際の人間は時々するけどそれを文章に書き起こしたらこうなるんだろう。逆にリアリティがあるのかもしれない。
変な設定ばかりでそれを物語として膨らましていくのが上手い先生なのかと思っていたが、最後の短編「自分の群像」は設定が現代っぽくリアルで、職場で自分が感じているようなモヤモヤを的確に表現し言語化されていてとても好きだった。ピカソの有名作はゲルニカなどの抽象画だけど模写もめちゃくちゃ上手いみたいな。
そういう凄さを感じた。他の作品にも期待。 -
Posted by ブクログ
井上荒野、角田光代、町田康、唯川恵、ほか『山なら言いたいことがある』幻冬舎文庫。
17名の作家やエッセイスト、登山家、冒険家による山のエッセイ集。
山が好きで、山にどっぷりハマっている人も居れば、山が肌に合わず、敬遠している人も居るようで、そんな人達の様々なエッセイが味わえる。
井上荒野『どうして私はこんなところにいるのか』。井上荒野の小説は殆んど読んだことが無い。海派だという井上荒野が八ヶ岳の登山口そばの別荘地に暮らし始めた顛末が語られる。人里から離れた風光明媚な場所に暮らす良さは理解出来る。自分も田舎のポツンと一軒家に暮らしているが、近所付き合いや生活音などのストレスが無く、敷地内で何をしても近所の目が無いというのが何とも良い。
角田光代『ただ歩く』。角田光代がこれほどアクティブな作家だとは思わなかった。三十台でドロミテをトレッキングした経験を持つ角田光代はその後、登山にはハマらなかったと言う。しかし、フルマラソンからトレイルランニングにハマり、山に行くことが増えたようだ。何事もハマる切っ掛けというものがある。
穂村弘『山力がなかった』。北海道大学のワンダーフォーゲル部に入ったが、山力が無く、断念した話。山も海も向き不向きがある。自分は登山でも余り息を切らすことも無く、海で波乗りを始めても、時間は掛かったが、人波に波に乗れるようになった。カナヅチを隠して波乗りをしていた知人がボードを流されて、溺れた時には驚いた。
松永K三蔵『義弟を撃つ』。初読み作家。芥川賞受賞作家らしいが、ふざけたペンネームが嫌いだ。最後の義弟を撃つという意味が解らない。
平松洋子『比叡山とか、遠足とか、楢山節考とか』。山で経験した3つの恐怖を描いた欲張りなエッセイ。自分が大学時代に友人と初めて岩手山に登った時、その日は忘れもしない9月27日で、初冠雪の日で余りの寒さと霧に驚かされた。その年の岩手山の初冠雪は例年より10日ほど早かったようだ。
角幡唯介『猟場開拓』。冒険家の角幡唯介が北海道で新たな狩猟を開拓する様子を描いたエッセイと言うよりもノンフィクションのような作品。こういう硬質な話は嫌いではない。
石田夏穂『いざゆけ、接待登山』。初読み作家。学生時代と社会人になってからの二度の接待登山の顛末。接待登山とはなかなか面白い。自分が波乗りを趣味にしていた時代、友人と波待ち中に接待サーフィンという架空の話で盛り上がったことがある。
スズキナオ『高取山の二つの茶屋』。初読み作家。高取山にある二つの茶屋でビールを飲みながら味わった面白おかしい話。山にまで登ってビールを飲む必要があるのかと、酒を止めた自分には理解出来ぬ話。
東出昌大『山の魅力って何だ』。確か一流女優と結婚したのに不倫して離婚して、若いタレント再婚した山男気取りの俳優ではなかったか。そんなゲス俳優が、ジョージ・マロリーの言葉まで引き合いに出し、何をか言わんや。
稲垣えみ子『そこに山があるかぎり』。初読み作家。山に目覚める過程を描いた話。
小野寺史宜『箱根も山でした』。箱根をナメて痛い目を見た話。自分も一度だけ箱根に行ったことがある。その時は車で箱根路を走り、昼に焼肉を食べたという記憶がある。
長瀬ほのか『私は山で何も見つけられない』。初読み作家。何度か山と触れ合う機会があったのに山の面白さを知ることが出来なかったという話。
服部文祥『山の獲物の神様』。サバイバル登山家の服部文祥が犬と共に晩秋の山に入り、諦めていた鹿を撃ち、何とか食糧を手にするという話。角幡唯介のエッセイ同様、ノンフィクションのような作品。
古賀及子『実家の裏山』。初読み作家。ふかふかの肉まん四つを持って登山に行く話。
石川直樹『最初の山へ』。やたらと自己の登山の実績をひけらかしている感が強いエッセイ。家庭や学校から自由になるために不良仲間と山に登り、酒やタバコを楽しんだという話。
町田康『ワンダーフォーゲル部の辻褄』。お笑い芸人のようなギャグを突っ込んで、無理矢理、面白おかしくしているようなエッセイ。町田康って、こんな作家だったっけ。
唯川恵『標高4910メートルの餅バター』。ロブチェで高山病に苦しむ中、コックが作ってくれた餅バターの話。、餅バターは餅にバターを絡めた料理で、餅にバターを練り込んだ、何時までも固くならない不思議なバター餅は秋田の郷土料理である。
本体価格720円
★★★ -
Posted by ブクログ
☆3.5 狂乱エナジー
あぱぱ。やっぱりとんでもなさすぎである。
「鶴の壺」と「ふくみ笑い」は良いが、あとは愚作。
といふのは、たぶん町田康は適当に書いてゐるのであり、つぎつぎ湧きいでる想念に抗へず、これを紡ぐ化け物だからである。
さようで、川端康成文学賞を獲った表題作も、なんで獲ったのか不明だが、まあ他短篇の候補作よりおもしろかったから獲ったのであらうが、それよりも羽目を外してゐるのが「ふくみ笑い」で、正直『ホサナ』の原型はここにある。
で、「鶴の壺」のほうは夏目漱石ばりの靜謐さで、これはこれで意外感があっていい。「ふくみ笑い」は狂氣が乱舞してゐる。『宿屋めぐり』の短縮版成功作だ。
が、それ以外になるとてんで駄目で、狂氣、を狙って破滅的なことになってをり、どうにもつけがたいオチ、みたいになってゐて醒めた感情しか湧いてこない。「逆水戸」は『パンク侍斬られて候』とかの原型になるが、まあなんだらうね。かなしき不条理である。
ってなわけで原型集みたいになってをり、ほとんどの町田康要素はこれを読めばわかる。うん。 -
Posted by ブクログ
爆笑できるところもあるし、さすがやな、町田康!て思うところもあるんやけど、、
最初から感じてた、なーんか乗り切れない感じが結局最後まで続いて。グイグイ読みたくなるいつもの町田康作品を期待してただけに、少々物足りなさを感じる読書やったかも。
充分面白いんやけどね。これだけ面白くて現代にも通じる太平記をかけるのはこの人しかおらんわ、やっぱ、とは思ったけれど。
結局太平記の時代も今も、人間のやること考えることは全くかわっておらず、電気やガス、それこそ携帯が無いとかいうだけのレベルで、その時その時の流行やアホなこと言うて嫌な事も乗り切っていこ、てのはいつの時代も同じなんやなと。
その辺りをよー分かって書いてはるからやっぱオモロいのかもな。 -
Posted by ブクログ
森見登美彦さんが竹取物語、宇治拾遺物語を町田康さんが担当しているのがキャラクターを表していて面白い。そして作家さんが各々「俺が書きそう」「編集部から割り当てられただけだけどお笑い担当なんだな」と言っているのが笑えた。
今の若い人の言葉と昔のかしこまった言葉の混ざり具合がおもしろかったです。
→言葉は純粋にやっていくと滅びるんですよね。やっぱり混ぜていかんとね。ただ、混ぜるのもコツがありますね。バンドをやってるとき、よくあったんですよ。各パートでレコーディングした音を最終的にミックスダウンで一つに混ぜるわけですけど、みんな目立ちたいから自分の音量を上げたがる。それでムチャクチャになって全体のバランスを見始めるんです。
ええバランスじゃないとね、なんぼ音上げても聞こえへん。よっしゃあ関西弁でいったろかいと思っても、全部が全部、関西弁やったらうるさくて聞こえへんかもしれん。ミックスするときはバランスをとらなあかんということです。何でも一緒ですよね。
町田さんは『宇治拾遺物語』という原曲を忠実に再現するんじゃなくて、カバー曲を新しくつくって聞かせているんだなって。
→ 仰るとおり、カバーですね。でもメロディーは絶対に変えてません。メロディーとは話の筋です。展開や結末を変えるようなことはしてないです。ムードも変えてません。暗い曲を明るい調子でやったりはしてなくて、もとのムードがより活きるようにやってます。弾き語りの曲にいろんなオケをつけたみたいな感じですね。原文にないことは書かない。原文から聞こえてくる音以外はつけない。だから原文を潰してやろうとか、原文と闘ってやろうとか、そういう意識はまったくなかったです。
このやりとりが心に響いた -
Posted by ブクログ
ネタバレ漂流して朝鮮半島に漂着した薩摩藩士と船人たちの帰国までを描く長編。
実際にある漢文の記録を口訳したもののようです。
当時の朝鮮の法律では、漂着した外国人を上陸させてはいけないらしく、ひたすら船上で過ごさなければならないのが過酷そうでした。
3人の役人のうち2人の体調がずっと優れず、1人筆談で朝鮮人とやりとりしなければならない安田氏の心労たるや⋯。
主薄のように薄汚い心の韓人もいたものの、太守をはじめ書のやり取りを通じて心が通うようになるさまには、心温まりました。
それにしても、安田氏がうんざりしているのに詩の達人と間違われて、詩を読んでもらいたい人が押し寄せるのには笑いました。
薩摩藩士としての武士の心を忘れず、礼儀を欠かないよう、また国の代表として下に見られることのないよう、本心を律したり、毅然とした態度を崩さないようにしたりする安田氏の振る舞いが清々しかったです。
日本の文化に興味津々な太守以下韓官人の振る舞いも、なんだかほほえましかったです。
『ギケイキ』や口訳古事記のようにめちゃくちゃな意訳ではなく(そちらはそれで面白いのですが)、割と真面目な口訳ながらときどき「あっ、あっみたいな顔」などの町田節があるのがよかったです。