高野秀行の一覧
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ユーザーレビュー
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沈黙に焦る、ありがとうがないと腹が立つ、体育がだるくて嫌い、など普遍的な悩みに作家7名が趣向を凝らして答えた1冊。
とくにありがとうがない、という悩みに対し、そもそも世界で「ありがとう」をめったに言わない国の人がおり、水くさいと考える人もいるということを初めて知った。自分の考えだけだと決して浮かばな
...続きを読むい考えなので、興味深い。
その他にも「結局悩み解決してないじゃん」といったものもあったが、回答の内容が大喜利のようで面白く、こう考えればいいんだな、自分もこういうところあるなぁと楽しく読めた。
真剣な悩み解決に一役買う本ではないが、小さいコラムを読んでいるようで面白かった。
Posted by ブクログ
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すごく面白かった。語学ってこういう経験をしたら、そりゃ面白くてたまらなくなるよね。語学オタク(すみません。言い方がひどいかも)になるのも分かる。これらの体験が1人の体験っていうのもすごい。一つ一つのエピソードがびっくりする様なものばかり。私が一生かかっても一つも体験することはないだろうな…と思うと人
...続きを読む生って不思議で面白いなあと思う。
Posted by ブクログ
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高野さん、ほんとおもしろい!!
ヤバそうなものを食べまくるはなし。
衝撃だったのは、辺境の食事ではなく、美人の女性編集者と東京で食べたスパゲッティ。異物混入なのに、相手の立場を、考えてそのまま食べてしまう。。。辺境の食べ物の話なのに、このエピソードがすごすぎて、全部吹き飛ぶぐらいだった。
あと、調理
...続きを読む前の食材である虫を、間違えて食べたり、、、とか。料理以外のエピソードが強烈すぎる。
料理は美味しそうな食べ物があり、食べてみたいなーと思うものもあった!辺境に行かなくても食べた気になった!!
Posted by ブクログ
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【感想】
AI翻訳が進化した現代において、「語学学習」はコスパが悪いのか?
確かに、システマティックな学習法によって身に着ける「ビジネス英語」は、いずれ機械に取って代わられてしまうかもしれない。しかし、現地の文化と生活を学び、異国民と親睦を深める「草の根の学習法」は、きっとこれからも残り続けるし、む
...続きを読むしろ、言葉を学ぶ意義は次第にそちら側に収束していく。そう感じさせる要素が、本書には散りばめられていた。
本書の著者である高野秀行さんは、『謎の独立国家ソマリランド』や『アヘン王国潜入記』など、数々の辺境地をテーマにエッセイを書いてきたノンフィクション作家だ。本作では冒険の際に修得した「語学」をテーマにしているのだが、学術書というほど形式ばってはいない。今までの破天荒な辺境紀行の合間に語学のノウハウを詰めたような構成であり、各地の民族や文化を楽しみながら学べるエッセイとなっている。
高野さんは25以上の言語を学んだというが、彼は決して「語学の天才」ではなかった。むしろ勉強は嫌いなほうであり、目標がなくなると、とたんにモチベーションがゼロになり、学んだ言語を忘れてしまうという。
そんな高野さんが語る上達のコツは、「それをやらないと目的が達せられない」状況に身を置き、体当たりで学ぶことである。
具体的には、実際に現地を訪れ、住民に「〇〇ってなんて言うの?」と聞き、それをノートに取る。辞書があれば辞書を引きながら、動詞の活用変化、時制といった大まかな要素を体系化してみる。もし辞書が作られないほどのマイナー言語であれば、原住民の発音を細かく書き記し、自作のテキストを作ってみる。そうしたインプットの後は、とりあえず片言で何か喋ってみて、反応をもらう。
こうした現地調達型の修得方法は、現地民からおおいに喜ばれるという。特に話者一万人程度の超マイナー言語であれば、外国人が話すというのは考えられないから、一気に親近感を持たれる。そうして相手を「こちらのファン」にさせてしまえば、あとは向こうからネイティブが寄って来て、どんどん言葉が身についていく。このテクニックにより、筆者は麻薬王の自宅にまでお呼ばれして言語を学んでいたという。まさに行動力が成し得る学習方法だ。
高野さんいわく、「外国旅行で何か語学を上達させたいと思ったら、決して自分より(少しでも)できる人と一緒に行ってはいけない」。旅行中は現地の人とのやりとりをその人に頼ってしまい、通訳として使ってしまうからだ。また、筆者は徹底的に「使う表現から覚える(目的に特化した学習をする)」ことと、「現地で学んで現地で使うサイクル」の重要性を強調している。これは、面倒くさがりの筆者自身が「楽しみながら勉強すると楽に上達する」と実感していたからだろう。特に興味もなく外国語を聞くのと、何か目的があって主体的に現地の人と話すのでは、上達の幅が違う。好きなものこそ上手なれとはよく言うが、語学学習においてそれは絶対的ということだ。
日本語は、世界最大のマイナー言語である。インド・ヨーロッパ語族と違い、日本語族のメンバーは日本語しかいない。英語を話す人間にはフランス語やドイツ語といった「仲間」がいる。コンゴの奥地に住むボミタバ族の人たちは一見、秘境の民に思えるが、実は周囲を親戚言語で囲まれており、アフリカ大陸の半分が親戚である。一方で、日本語はユーラシアの極東の小さな列島にしか存在しない。
そう考えれば、筆者が様々な「辺境言語」を学んだといっても、日本語のほうがよっぽど辺境言語なのだ。そんな仲間外れな言語圏に住む私たちだからこそ、言葉が通じることを喜ばしく思える。異郷の地でコミュニケーションが取れる喜びをかみしめることができる。高野さんのような志を持っていれば、語学が苦手と言われている日本人にも希望が見える。
「文化的に成熟した辺境民族」である日本人にこそ読んで欲しい一冊。文句なしにオススメだ。
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【まとめ】
0 まえがき
通常、語学というのは入門から始まり、初級・中級・上級と何年もかけて少しずつ階段を上がっていくものと思われているが、筆者は決してそのような手順を踏まない。一つの言語を何年も勉強したこと自体がほとんどない。学習期間は長くてもせいぜい実質1年、短いときは2,3週間、平均すれば数カ月といったところだろうか。現地で出会った言語を即興で習いながら旅をすることもある。
いつの間にか、筆者にとって語学(言語)は「探検の道具」であると同時に「探検の対象」にもなっていた。
1 異国での会話は助け合い
外国語でのコミュニケーションは協働作業である。自分一人で会話するということはない。必ず相手がおり、その相手はたいていの場合、コミュニケーションを成立させるためにこちらに協力してくれる。助けないと会話が成立せず相手も困るのである。下手な車を避けないと他の車が困るように。
筆者はインド旅行の途中で有り金とパスポートを全部スられて一文無しになった。そこで、経緯を全て現地の警察に説明した。この緊急事態が「何としてでも話さなければならない」という状況を作り、英語が磨かれた。
2 語学ビッグバン
コンゴで幻獣ムベンベの調査を予定していた筆者。色々あってリンガラ語の習得に追われるのだが、リンガラ語には文字がない。おまけに話者もほとんどいない。日本に住んでいるザイール人のウィリーに協力を頼み、彼の言葉をローマ字で書き表して習得していった。
1987年、ムベンベ探索の偵察という目的ではじめてアフリカに降り立つ。
コンゴではフランス語とリンガラ語を両方話していたのだが、リンガラ語を喋ると現地民に大ウケだった。外国人はみなフランス語でコミュニケーションをとり、誰もリンガラ語を学んだりしないのだ。特に西洋人はアフリカ人と同じレベルに身を置くことを嫌う。だからコンゴの人たちの頭の中には「外国人は決してリンガラ語を喋らない」という常識ができている。それを変な東洋人の若者が打破するから驚かれ、喜ばれたのだ。
筆者でも地元の言語を習って片言を喋るくらいはできる。そしてそれがめっぽうウケる。筆者は旅先のローカル言語を話す醍醐味に完全に目覚めてしまった。
コミュニケーションをとるための言語と仲良くなるための言語。外国へ行って現地の人と交わるとき、この二種類の言語が使えれば最強なのだ。いわば「語学の二刀流」、これを使いこなす快感を知ってしまった。筆者にとって「語学ビッグバン」である。
言語には「うまく話せる人の方が優位に立てる」という理不尽な法則がある。筆者はこれを「言語内序列」と呼ぶ。フランス人はもちろんのこと、アメリカ人や日本人がコンゴに来て、フランス語を話しているかぎりはいい。彼ら(私たち)はもともと政治経済文化的に「優位」に立っているし、コンゴの人たちにとってもフランス語は第二言語であり、それほど自信をもっているわけではない。でも、リンガラ語とくれば話は別だ。コンゴの人にとっては母語同然の言語だから絶対の自信をもっている。かたや外国人は頑張って話しても子供レベルの会話しかできない。すると、言語内序列の法則により、人間関係までもが「大人と子供」になってしまうのだ。
日本に暮らして英語の話せる西洋人や一部のアフリカ人、アジア人が日本語をあえて習おうとしない理由の一つはそこにあると思っている。
3 スペイン語は快適な言語
言語というものは時間が経つうちに、「その方が言いやすい」とか「他の単語と区別するため」とか、あるいはただ単純な言い間違いや、その他はっきりしない歴史的な事情から変化していく。非母語の学習者にとって、このような微妙な変化は「あまりに複雑」で「難しい」ように思える。
スペイン語は、世界中で長い間使われてきたにもかかわらず、話者の便宜を図った微調整もほとんどないし、発音と文字のズレも小さい。世界中で話されているのに方言差も少ない。母音はa・i・u・e・oの五つだが、日本語の母音に近い「ア・イ・ウ・エ・オ」であり、他の読み方はない。男性名詞と女性名詞もはっきりしている。驚くほどに規則的なのだ。
特筆すべきは、スペイン語話者の間では「言語内序列」がないことだ。コロンビアでも、本場スペインでも、「スペイン語が話せるんだね!」と驚いたり喜んだりせず、かといって会話がスムーズに進まなくても見下した態度を取らない。英語ネイティヴは相手が英語を話して喜ぶことはないが、理解しないときには苛つく人が多い。英語は世界普遍の言語だと思っているからだ。フランス語ネイティヴはフランス語に強い誇りをもっていて、外国人がフランス語を話すこと(話せないこと)に多少なりとも喜んだり苛ついたりする。日本語を含む非メジャー言語は、相手が話せると喜び、子どものように扱う。唯一の例外がこのスペイン語なのだ。
コンゴで多言語が渦巻く環境に興奮し、「現地語を話してウケる喜び」を知った筆者だったが、コロンビアでは「現地語を話してスベらない安心感」に浸った。覚束ないスペイン語を話しても、明らかに外国人とわかっても、彼らはまるで同じ国の人間のように接してくれた。
4 独立言語の勉強方法
次に学んだのはタイ語だった。このタイ語が、他の言葉と比べても圧倒的に難しかったと筆者は言う。
言語は、学習するうえで大きく4つの要素に分けられる。①文法、②発音、③語彙、④文字である。
このうち①文法は、進化系統の結果である語族やそのサブグループである語派に大きく左右される。語族や語派が同じであれば文法も似通っている。フランス語とスペイン語、あるいはリンガラ語とボミタバ語とスワヒリ語などがその例だ。
②発音は語族・語派という系統だけでなく、地域にも左右される。異なる言語系統でも、近い場所にある言語は互いに影響し合い、発音が似てくることがある。例えば、後にわかったことだが、タイ語とビルマ語と中国語はいずれも系統が大きく異なるのに、みな声調があり、有気音・無気音の区別があるなど、発音に共通性が高い。
③語彙はとても面白い。語族や語派が同じなら「おじさん」とか「頭」とか「食べる」といった基礎的な単語は似通っているケースが多いが、「政府」「学校」「状況」「世界」といった抽象的、科学的な単語は言語系統にあまり関係がない。これらはむしろ「その地域が歴史的にどの文明圏に影響を受けてきたか」による。例えば、日本語と中は全く別の言語統語族だが、文明用語の半分以上を共有している。
最後の④文字は言語系統にいちばん関係が薄く、文明圏による影響がひじょうに強い。これも「漢字」を考えればすぐ納得がいくはずだ。世界の主な文明圏には、「ヨーロッパ文明圏」「中華文明圏」「アラビア(イスラム)文明圏」「インド文明圏」「ペルシア文明圏」などがある。
タイは日本と同様に植民地にされた経験がない国であり、日本語以上にヨーロッパからの借用語が少ない。また、文字はアルファベットではなくタイ文字であり、1から覚えなければならない。
タイでの勉強方法は、語学学校でのマンツーマン・レッスンだった。月謝を払ってプロの語学学校教師にマンツーマン授業を受けるもので、相当にしっかりしている。しかし、逆に言えばあまりに公式すぎるきらいがあり、くだけた日常会話は学べなかった。
くだけた表現を学ぶには、翻訳された漫画がうってつけだった。1990年代の前半、タイでは日本のマンガが異常なほど人気であり、あちこちに貸本屋があった。これは最高の口語表現テキストであり、筆者が現地の学生に日本語を教える際にも重宝した。
その後筆者は、日本語観光ガイドの講座で知り合った人物を介して「麻薬王クンサー」の軍隊とコネを作る。そして麻薬王のアジトでビルマ語を教えてもらうことになる。
ビルマ語は他の言語との相関性が全くわからなかった。まず確認したのは、主語の人称(私・あなた・彼/彼女など)によって動詞が変化するかどうかだった。
ビルマ語を教えてくれた人に訊くと、「ご飯」は「タミン」だという。それから人称代名詞については、「私」は「ジャノー(男性の場合)/ジャマ(女性の場合)」、「あなた」は「ケミャー」、「彼/彼女」は「ドゥー」…と教えてくれる。それらをふまえ、「ご飯を食べる」という例文を作ってもらう。
私はご飯を食べる ジャノー・タミン・サー・デー
あなたはご飯を食べる ケミャー・タミン・サー・デー
彼/彼女はご飯を食べる ドゥー・タミン・サー・デー
私たちはご飯を食べる ジャノロー・タミン・サー・デー
以上のように並べると、ビルマ語の動詞は、主語の人称によって変化しないことがわかる。これを時制にも適用し、動詞が変化するか調べたり、助詞や声調の種類について探っていったりした。
このように常に「暫定的に法則を見つけ、新しいことがわかれば、随時その法則に変更を加える」というのが、筆者が独力で編み出した調査法だ。とはいっても、フィールド言語学の世界ではごく初歩的な手法であると思う。
5 中国で学んだ「言語のノリ」
さまざまな言語を学んでいくと、どの言語にもその言語特有のノリとか癖とか何らかの傾向などがあることがわかる。それが語学で決定的に重要だということに気づかざるをえない。
言語のノリには文法やことばの使い方のほか、発音、口調、話すときの態度、会話の進め方などが含まれると思う。
例えば、タイ語は口を大きく開けて発音することがまず大事だ。それから音程は常に高め。タイ語ネイティブの会話は鳥のさえずりに聞こえる。そして話し方は、ひたすら柔らかく優しい。タイ人はマッチョを嫌い、上品な立ち振る舞いを好むから、女性はもちろん、男性もなよなよっとしている。だから繊細なガラス細工を扱うかのように優しく喋ると、タイ語っぽくなる。
ビルマ語の音程は全体的にもっと低く、もっと舌を口の中にべた〜っとつける感じで発声する。さらに、喋るときはタイ人より堂々とした態度をとり、相手の目をしっかり見ながら、でも明るく優しく喋るとちょうどいい。
日本語の発音は口の先の方で行う。唇は最小限しか動かさない。「口を開けずにぼそぼそ喋る」のは日本語全体に当てはまる。外国人(日本語が母語でない人)が日本語を発音すると、口調がはっきりしすぎていて違和感を覚えるのはそのせいだ。声の音量は小さめで、「じゃ、そんな感じで……」とか「よくわからなくて……」など、センテンスを最後まで言い切らないことが多いから、ますますもやもやした印象を外国人に与える。
筆者が中国で出会った莫先生も、まさにこの「ノリ」を体得した人物だった。無愛想で剛直な先生が、日本語を喋るときだけ体を小さくし、部下が上司にへりくだるような口調になる。声を細め、口先で軽くぼそぼそと喋る。筆者は彼から生きた中国語を学んでいった。
中国語は日本語と同様に漢字を使っているため学びやすいし、文法も難しくない。厄介なのは発音だ。発音を覚えるため、日本語と中国語の音の対応を片っ端から調べ、一覧にしていった。
中国人の世界観は今でも「中華思想」なのだろうと当時よく思った。中華とは国家ではなく、文化圏である。中国の文化やシステムを受け入れると、その土地は中華世界に入り、人も中国人となる。中華グローバリズムと言っていい。そして中華思想の中核をなすのが中国語なのではないかと思う。要は中国語を話し、中国式に振る舞えば、どの民族だろうがあまり関係ないのだ。筆者にしても、中国語を話して中国のご飯を普通に食べているかぎり、「中国の日本族」みたいな扱いになっていた。
6 語学学習という「魔法の剣」
筆者の行った言語学習のスタイルをまとめると、次のとおりだ。
・誰でもいいからネイティブに習う
・使う表現から覚える(目的に特化した学習)
・実際に現地で使ってウケる
・目的を果たすと、学習を終え、速やかに忘れる
筆者は20代のころ、この方法で世界各地の言語を習得し、旅をしていた。
では、機械翻訳・通訳が進化した現代において、果たして語学をやる意味はあるのか?
「やはり、語学の必要性が完全になくなることはないのではないか」。筆者はそう答える。言語には「情報を伝えるための言語」と「親しくなるための言語」の二つがある。ITでまかなえるのはもっぱら「情報を伝えるための言語」なのである。いっぽう、「親しくなるための言語」はそもそも情報伝達には必要のないものなのだ。フランス語で話して通じるなら、リンガラ語を使う必要はないはずだ。でも、リンガラ語で話すと「共感」が得られる。仲良くなれる。そういう語学は、なくならないはずだ。
翻訳や通訳は、ガラス越しでの会話みたいなものだ。興味を抱いた他人と、ガラス越しではなくじかに触れたいと思うことは、人間の本能に根ざしているのかもしれない。互いの心臓の鼓動を聞くような語学は生き続けると確信している。
従来、学校教育で行われているのはエンジニアリング的語学教育である。基礎から始まり、初級、中級、上級とシステマティックに進み、最終的には完成に至るとされる。あたかも超高層ビルや大阪城を建設するような壮大な語学なので、完成までに相当な時間と労力がかかる。
かたや筆者の語学(ブリコラージュ的学習法)は、辺境の民の仮小屋みたいなものだ。そのときの役に立てばよく、明日はもう使わないかもしれないし、一週間後には朽ち果てているかもしれない。そういう語学があってもいいのではないか。
あるいは、ブリコラージュとエンジニアリングを組み合わせることも、ときには有効なのではないか。ブリコラージュは身の回りにあるもののいいとこどりだから、伝統的な語学と部分的に組み合わさること自体が、広い意味でのブリコラージュとも言える。その人の目的、学習期間、年齢によって、臨機応変に変えられる。ブリコラージュは、時代の変化にも強い学習法なのではないか。
Posted by ブクログ
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Posted by ブクログ
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