町田康のレビュー一覧
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この小説はすごいと思った。今年読んだものの中でぶっちぎりにすごいと思った。(ちなみに2位は小川洋子の猫を抱いて象と泳ぐ。これもすごかったけど、そのうえに飛び抜けたと思う。まあ、小説の良し悪しというか個人的な好みの順位なので、人によって違うのだろうけど)
それにしても、町田康、すごいとは思っていたけれど、これはぶっちぎりですごいと思った。
最初は、え、これ小説として良いのか? こんなのアリなのか? と思った。まあ、町田康だからアリなのか、くらいで半分笑いながら読んでいく。しかし、途中くらいから妙に身につまされる。主人公が、もう今さら頑張っても他のみんなのように百姓はできないと、そんなところで、社会からのドロップアウトじゃないけれど、今さら頑張ってもどうにもならない、その感じは僕には妙に響いた。そこまでずっと積み上げてきた、独特の文章、普通の小説では絶対にやったら駄作と呼ばれるような主人公の思弁、独り言の積み重ねがじわじわ効いてきて心の奥底まで響いてくる。
あくまで個人的な好みだけど、井上ひさしの吉里吉里人と似たような感じが残った。あれもすごい小説だ。
もうね、すげー。
熊太郎、ダメダメなんだけど、愛せるし、同時に本当にダメだし、そこに人間味というか、自分自身の心の奥にある弱さを熊太郎が背負って生きてくれたような、でも、弁護しようにもできないダメさ、あー、すげー、熊太郎すげー、熊太郎をここまで描ききる町田康すげー。この小説はすげー。
ページ数、文字数だけの話ではないけれど、やはりページ数のある小説っていうのは、語れるものの厚みが違う。
そして、その文字数で一本の話を本物の文章のプロが書ききってくると、まあ、すげー。
ありがたかった。
今年はこの小説に出会えただけで、神様に感謝できるとさえ思った。 -
Posted by ブクログ
大学時代に中古文学を選考していたので、今でも短歌を詠んだり歌集を買ったりすることはある。が、俳句、特に自由律俳句の良さはいまひとつ理解出来ず、今まで食わず嫌いしてきた。
町田康が書いているということで、山頭火の良さがよく分からなかったとしても文章は面白いだろうから、と手に取った本書。
結論、自由律俳句の良さが分かったかと聞かれると、正直まだよくわからない。楽しみ方の端が見えたような気もするが、まだ短歌の方が「音の並びが気持ちいいな」とか「情景が浮かんできて、心情が手に取るようにわかってすごいな」とか思える。
でもたぶんそこが結構重要で、他者による「わかる/わからない」引いては「巧い/下手」みたいなのから脱却して、自分の中のどうしようもない欲望、生にしがみつく必死さ、死に救いを求めてしまう遣る瀬無さ、みたいなものをより純度高く言葉にしたものが山頭火の自由律俳句で、その取り繕わなさに魅力があるのかもしれない。などと思った。わからないなりに。
美術館でよく分からない絵画や彫刻を見た時、ついその作者の人生を調べて、なんとなくわかったような気になってまう。それにも少し似ている。
まだよくわからんな〜というのが本音ではありつつ、「こころつかれて山が海がうつくしすぎる」の句には、美しいものの発する眩しさに目を細める山頭火の姿が思い浮かんで、思わず涙がこぼれてしまった。 -
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大傑作。めちゃくちゃ面白かった。 熊太郎は呆れるほどにどうしようもない男であり、熊次郎に金をかすなや!とかせっかく変われるチャンスなんだから真面目に働けや!とかどうせ負けるのに博打すんなや!とか都度思うのだが、それすらも魅力的で読み進めるほどに面白くなっていった。最後「あかんかった」で茫然自失。悪人ではないが小さい頃から思弁的で鈍臭く要領が悪く世間に馴染めない熊太郎の人生について河内弁で書かれており、時折声に出して笑ってしまうほど面白おかしく書かれているのだが、最後は850ページ読み切った達成感よりもやるせなさ、虚しさに胸がずんと重くなる作品だった。
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長年本棚で眠らせ、何度も挑戦しては途中で挫折していた町田康氏の『告白』。もう読める気がしていませんでした。
この度、Audibleでの配信を機に「耳で聴きながら目で字を追う」という方法で、ついに最後まで到達することができました。
結果、本当に読んでよかった。ナレーターの方の河内弁が見事(特に間合いとユーモア!)で、過剰な思弁の渦に飲み込まれそうな読書体験を、笑いとテンポで最後まで力強く引っ張ってくれました。
実在の「河内十人斬り」をモチーフにした本作の主人公・城戸熊太郎は、プライドが高く、働くのも、人付き合いもダメ。社会生活から「はみご」にされています。「あかんではないか」。
しかし彼は決して何も考えていない愚か者ではありません。脳内では恐ろしいほどの密度で思考を巡らせるのです。それなのに過剰な思弁が邪魔をして言いたいことの千分の一も口に出せず、馬鹿にされることを恐れて虚勢を張り続けてしまいます。
「田が耕った」と、能動的な営みを自動詞のように捉えてしまう独特のロジック。本人は至極真剣に思考を重ねているのに、その過剰な思弁こそが現実とのズレを生み、自分自身を追い詰めていく。その哀れで痛々しい姿に胸が苦しくなる一方で、彼が抱える「自分の脆さを見抜かれたくないプライド」は、私たちが誰しも心の中に飼っている「人間の弱さ」そのものだと感じます。
谷弥五郎という弟分を得て、将来の展望を失った二人が破滅へとまっしぐらに転がり落ちていく過程は、どこまでも悲しく、圧倒的です。
血の海を潜り抜け、極限の殺戮を果たした熊太郎が最後に行き着いた、「なんの意味もなく、ただぐるっと一周回って元の世界に戻ってきた」という静かな一言。
大層な意味など最初からどこにもなかったという圧倒的な虚無感と、ようやく重い呪縛から解き放たれたような脱力感。読後に残るその哀しくも深い余韻は、一生忘れられそうにありません。
文中のキレッキレな「ひとりノリツッコミ」に爆笑しつつ、人間の業の深さに打ちのめされる最高の長編小説。
挫折したことがある人に、ぜひ「音と文字」で再挑戦してほしい一冊です。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ
この作品について語るのはとても難しいし、そもそも語る必要すらないのかもしれない。馬鹿馬鹿しさに加え、残酷描写も含みかなり人を選ぶ作品なので読む際は注意が必要。ただ個人的には独特な世界観に冒頭からグッと引き込まれ、とても面白いと思った作品。
宗教団体腹ふり党により混乱した世の中を超人的剣客、掛十乃進が鎮圧する(自作自演)というストーリー。
括りとしては時代小説になるが、言葉遣いも現代語が普通に出てきたり、人語を話す猿や超能力を使うキャラも出てくるなど、とにかくめちゃくちゃでカオス。それでいてスラスラ読めて面白いのは、支離滅裂にならないギリギリのラインを攻めている作者の文章力の高さであると感じた。
小説はこんなにも自由でいいんだという事を教えてくれた一冊。 -
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バキ童チャンネルで紹介されていて読んでみた本。
思いの外時間がかかり、読み終わるまでに1カ月以上かかりました。
なぜそれほど時間がかかったのか。自分のメンタルが弱っていた時期だったことも一因ですが、なにより熊太郎の言動にどこか自分自身を感じるところがあり、「ウッ!」と胸を締め付けられて、気持ちを整理してからでないと読み進められなかったからだと思います。
6割を過ぎたあたりからは一気に読めたのですが、前半の「心に違和感を抱いているものの、自分自身の言語化能力が足りないために不快感を解消できず、それゆえコミュニケーションがうまくいかない」あたりは、かなり来るものがありました。
具体的に自分自身にそういうエピソードがあるかと言えば、子どもの頃に勘違いで叱責されても言い返せなかったもどかしい思い出くらいかな、と思っていたのですが、よくよく思い返してみると、私も子どもの頃、色々と違和感を覚えてはそこから疎外感を抱いていたかもな、とか、今でもそれなりの割合で「話が通じていないな」「なんか話してるけど上滑りしてんな」と感じて絶望したり、はたまた焦ってしまったりという経験をすることがありました。
だからこそ、熊太郎が何かを一生謙命に説明しようとしてスベッているところは、自分を見ているようで結構辛かったです。まぁ、このあたりは、相手が何を求めているのかのシミュレーションが上手くできないことと、仮にシミュレーションできたとて、それを自分の喋る内容に反映できないという、いわゆるコミュニケーションスキルが私に足りていないからかな、と思ったりします。
学生時代から社会人になって転勤するまでの約10年ほど大阪に住んでいたことがあるので、大阪については住んだことがない人よりは詳しいつもりです。ただ、住んでいたのは北摂なので、河内と言えば「水ナスおいしいですよね」くらいの知識しかありませんでした。それゆえ、ほぼ前提知識なしにこの本を読んだのですが、熊太郎目線で物語を見ていると、どうしても「あかんではないか」と一刀両断に言い切れない自分がいるわけです。
確かに熊やんのしたことは「あかん」ことです。あかんけれども、それってほんまに熊やんだけのせいですか? なんか少しでも要素が変われば、ちょっと足りない農夫として幸せに暮らせたんちゃいますか?
メリトクラシーにまみれた現代人から見れば、熊やんのあかんの根底には「能力不足」があると解釈できるんやけど、能力がないことはホンマにあかんことですか? 構造化の能力が低くて、他人の気持ちをシミュレーションする能力が弱くて、自己分析能力が低くて、自制心が低く、言語化能力が低いのはあかんのですか? 足りないことが多いのはあかんのですか?
「いやいや、能力が無いとて多くの人はその上で自分の責任と意志で頑張って、足りない分を補ったり、出来ることを伸ばしてどうにか暮らしているではないか。熊やんが能力が足りないからといって無頼になって犯罪を犯したことは、他の人がやっている『義務とも言えるべき努力』を熊やんがサボったからではないか?」
そう思われる方もいるとは思いますし、仰る通りだとも思います。ただ、一概に「あかん」と切って捨てられないじゃないですか。確かに熊やんは「あかん」ことをしてるし、「どうしようもない」状態ではあります。ただ、言うても生きること・思考することをサボってるわけじゃないじゃないですか。思考することに関しては、多くの村人よりも多くやってたんとちゃいますか?(しらんけど)
外から見たら「みんなが出来ることをやってない・サボったからこそ、あかんことになっている」ように見えますけど、内から見たら何もサボってないやないですか。みんなが出来ることは出来てないですが、サボっていない。サボってないのに差が出るなら、それは「才能」の差なんとちゃいますか?
そう考えると、熊やんのことを大手を振って「あかんではないか」と言い切れないんとちゃいますか? という気持ちになる本。 -
Posted by ブクログ
『太平記 ラブ&ピース』から、町田康作品2冊目。
発明ともいうべき独特の文体と軽妙な河内弁のリズムに乗って進んでゆくのが心地よく、割とさくさく読んでいたのだが、残り200ページという辺りから暗雲が立ち込め、そして最後はすべてのツケを払うかのように崩壊してゆく。特に何も解決せず、誰かが救われるということもない。
「他人には自分のことを理解できるはずもない」という思いと、「誰かに理解されて救われたい」という思いを同時に抱きながら、拗れに拗れた結果、最期の最期は「なんらの言葉もなかった。なんらの思いもなかった。」である熊太郎の孤独。
読後のなんとも言えない寂しさ、遣る瀬無さ。
もしかしたら自分は傷ついたのかもしれなかった。私自身も小さい頃から鈍臭く、要領が悪く、誰かと素直な気持ちをぶつけあうことより空想の世界に浸っていることの方がずっと多かった。熊太郎に少しも自分を重ねなかったといえば嘘になる。思弁過剰の熊太郎でも、どこかで誰かと分かり合い、救われ、己を生かす道を見つけられるのではないか、とどこかで微かに信じながら読み進めていたのかもしれない。
そして、物語の中でそうであることで、こんな鈍臭い自分でも、救われる道があるかもしれないと希望を託していたのかもしれない。
でも熊太郎は人を殺し、仲間を殺し、そして自分を殺した。何にもならずに死んでいった。人は最後まで孤独だと思う。べつにそれは寂しいことではない。でも最後まで「自分だけが孤独だった」と孤独の恐怖に勝てないまんまで死んでいくのは、いかにも寂しいことだ。
自分とはなんだったのか。他の人も同じように思うことがあるのか。自分だけなのか。まるで自分だけが孤独であるように思う、その虚しさ。そして実際熊太郎の魂はひとり、人間の長く短い命のうねりをそこから外れたところで眺めている。
人生の孤独はその人生を生きる者だけの特権だが、本人がそこから目を逸らし続ける様を描くと、かくも悲劇的になるのかと呆然とする。
熊太郎の人生は何だったのだろうか。