「くっすん大黒」と「河原のアパラ」の2編の小説を収録。
文体がなんとも面白くて。とにかく長いのだ。文が始まると句点「。」かなかなか出てこない。それでも文章はわかりやすいのだ。あっぱれ。そして巻末の解説の中で、影響を受けて(わざとだろうが)すごく長い文章が現れた。
「くっすん大黒」冒頭にはコテコテの大阪弁が出てきて、「ひゃー!参った」
わたしも大阪生まれ、関東も含めあちこちに動いたものの、基本は大阪というか北摂育ち。でも「あんけらそ」って何?聴いたこと無いんやけど。調べたら著者は堺市生まれ。そうなんや。私の友人に岸和田の男がいたけど、見事な大阪弁やったな。上方落語に近いような。しかし、登場人物の話し方から、舞台はやっぱり東京なんだろうと想像した。
著者は大阪弁や(べらんめえに近いような)東京弁だけではなく、加えて著者のボキャブラリーが豊富で、普段文語としてしか使わないような単語が、けっこう散りばめられている。私が無知なので、多く感じるのだろうが、それでも、並みの読者だっていくつかは知らない単語があるんじゃなかろうか。
ちょっと古臭い単語を使っていても、いろんなテクノロジーが進歩したことを除けば、本書の二作はいたって現在(私の現在の周り)を感じさせて古くささはない。
でも、「河原のアパラ」の乞食のくだりは、今の時代の自分の現実世界との乖離を感じて、どう受け取ればいいのかとまどってしまった。ホームレスのおじさん・おばさんまでなら受け止められるが、「少女」はダメだ。想像できない。
「くっすん大黒」の主人公は現金とともに妻に逃げられたうだうだのダメ男タイプ。貧乏でありながら切迫感も悲壮感もほとんどない。日本の高度成長期あたりに書かれたからかもしれない。
どちらの小説も、貧乏な主人公と相棒、そしてすさまじい天敵の「おばはん」が登場する。主人公はおばはんに対する毒づき方もすさまじいのだが、おばはんのそれ以上のあまりの悪行のすさまじさに読み進むうちに寒気を感じる。すさまじいのだが、こんなおばはん、もしかすると実際にいるんじゃないかと思えるのだ。私も若いころは傍若無人なおばはんを敵視していたけど、最近はそういうおばはんは減った気がする。主婦も社会に出て働くようになり、大人のモラルを身につけた人が増えたのではないだろうか。おばはんが減っておばさんが増えた、と。
主人公は、毒づき方がかなりえぐいし、グータラ具合が私とはかけはなれているので、さすがに100%の感情移入はできない。しかし、この毒には関西人的ユーモアが滲んでいる。そのため毒舌も気分が悪くなるようなものにならない。そして主人公のおばはんへの怒りは至極まともで、第三者としてではあるが、大いに味方としての気分で読む。このあたりの、読者の私と主人公との距離感が読者としてとても快いのでしょうね。私と作者の世代はあまり違わないし、関西人だし。
後半の「河原のアパラ」では、唐突な始まりに仰天する。なんやかやと理屈が述べられるのだが、やはり「そんなあほな」でしかないので、安心して軽く笑えるのだった。ユーモアという点では、私としては「河原のアパラ」のほうが200%面白かった。何度も実際に公衆の中で小さい声を出して笑ってしまった。
「河原のアパラ」では、暴力沙汰、さらに警察沙汰にはなってしまったのは、さすがにやり過ぎだと思ったけど、最後には思わぬ展開により読後感として、なんだか安心することができた(でも現実だとやっぱり安心できないな)。
上述した乞食の話もそうだが、もうひとつ理解に苦しむのは、ただの石を綺麗に洗う子供。主人公は「やれん」と一言を発するのだが。この「やれん」は独特で作者の意図するニュアンスが今一つ分かりにくいが、まあ、「やりきれん」と読み換えた。大阪弁、関西弁ではないと思う。
ボキャブラリーといえば、本作の出だしにある「フォーク並び」って言葉は知らなかった。ググると見つかった。なるほどフォークなんだ、とネーミングに感心した。
しかし、最後まで分からないのがタイトルの「アパラ」。「河原」ということで、最後の河原のシーンを見直すが不明。「オペラ」を訛って言いかえたのかなあ。「ア」を強く早口気味に「アパラ」と言えば、ネイティブのアメリカ人に絶対通じる。
もう一つ本作者の文体の特徴に、短い会話が改行なしに延々と連なる点が挙げられる。これがとてもリアル。そしてまさに漫才の掛け合い、あるいは大阪人のノリ突っ込み会話のようなのだ。このテンポのよさにユーモア、というより関西人の「お笑い」の血を感じる。
ただ、二人の会話のどちらがどちらなのか、途中で分からなくなってしまうことが何度か発生した。実際の漫才だと、声の違いやテレビの画像からも話し手がどちらか直ちにわかる。私の読み方が、さして理解せずに次々に先を読んでしまうことが原因かな。
オノマトペ(?)満載のエンディングは、私は筒井康隆のようなスラプスティックを感じた。舞台のフィナーレよろしくにぎやかにフェードアウトして終わる。シュールで、ありえなさそうで、いいんじゃない?
解説を読んで、私の知らなかった事実が分かった。実は本作はかなりのところ、太宰治や坂口安吾、小田作之助、梶井基次郎といった(私が名前しか知らない...)無頼派作家(と呼ぶらしい)の影響が濃いようなのである。すると、1930年代のボキャブラリーも(おそらくごく自然に)作品に現れるのに違いない。改めて私の無知がわかってしまった。この解説を書く文芸評論家の三浦雅士の文章も面白い。作者の町田康との年齢差が16歳と言っているが、ユーモア精神にあふれた文章のノリが町田にも、私にも近いものを感じた。もしかして関西人?
もう一つ解説に指摘されている「何でも整理したい強迫神経症」。解説では病名になってしまっているが、これは私の周りにもたくさん見かける。私の母も多数の友人たち。私は「血液型A型」と呼んでいて、そう言えば通じる。病気とは言い過ぎかと思うが、度を越した人もいるのだろう。フォーク並びしない行列を不快に感じる程度では病気ではないと思うけど。私もその気持ちはわからないでもない。ただ、そのあとの「おおブレネリ」はおかしいだろ。
...と思ったら、私も、トラウマになりそうな大失敗をやらかしたことを思い出すと、叫びたくなるのを思い出した。なんなら何十年も前の恥ずかしい失敗を突然思い出したりすると、そういう衝動があらわれる。そういえば、最近、NHK女性アナウンサーもそういうことがあると言っていた。なんなら「おおブレネリ」を歌いたい気持ちにさえなる。そう思うと「河原のアパラ」って、するどい心の真実を突いているのではないか? それとも、これひょっとして異常?