2025!な本だった。各登場人物の視点で描かれる性被害の内容は、どれも納得感があって、そりゃそうだよなと思ってしまった。本当に悪気があってやったこと以外に、本当に100%自分が悪いことなんてないのかもと。自分の言い分が介入することなんて当たり前で、その言い分も、相手がこうしたからこうと少しの言い訳をひっくるめて行動してるんだもの。どの言い分と真っ当に感じて、自分が気持ち悪くなったりも。立場を変えるだけで納得できてしまって、所詮自分も相手も人なんだなと、社会の様相や価値観が少しずつ変わってもそれについていける人といけない人、そしてその価値観が入り混じった状態がずっと続くのだもの、と。なんだか言葉にできないけれど、この圧倒的に言葉で価値観を表してくれるのが小説で、皆が言葉に持つようになったせいでぐちゃぐちゃになった世界が2025だと思う。大変粗雑で複雑だ。でも時代の変化があるときは、こんなふうになるのかもしれない。
p.33 あ、とスマホの通知に反応して溢れた言葉に一哉がうん?と反応する。付き合い始めて七年近くなる彼の、こういう丁寧なところが好きだ。彼は私の感情や意思を取りこぼさない。取りこ
ほされ続けてきた感情と意思が彼によって掬われるたび、私は胸の中でポップコーンのように小さな何かが爆ぜるのを感じてきた。彼が私の小さな変化や態度に気づくたび、私は自分が隅々まで感知され、正確に回収されることに歓喜する。それは私がずっと恋愛で得られなかった種類の喜びだった。
一哉は何か言いたそうだったけれど、私は気づかない振りをした。彼は私の意思を取りこぼさないのに、私はたまにこうして不誠実に彼の意思を無視する。もちろんいつもじゃない。今だけだ。今は都合が悪い。そうやって自分や他人に、嘘ではないからと言い訳をしながら嘘の一歩手前のようなことを言い、自分からも人からも用されない、いや、自分からも人からもどうでもいい存在として認識されていくのかもしれない。漠然と思いながら、「一旦アク取ろっか」と何かを割り切るように提案する。そうだねと丁寧にお玉でアクを掬った一哉は、エビの殻入れがなかったねと言いながらキッチンに立つ。他に何かいるものある?と聞かれ、麻辣のミル持ってきてと答えるとふふっと笑う声がした。
p.59
プライドが傷ついている人は、扱いを間違えると大変なことになる。繊細に、丁重に扱わなければ一転して他罰的になり、こちらに火の粉が降りかかる可能性もある。
p.80 笑えるし、YouTubeもよく見てます」
文化的素養のない人と日常会話をすることはよくある。美容師や、家族や親戚、大学時代からの親友の飛人もそうだ。俺は逆張りでもなんでもなく、こういう人たちを見ると「いいなあ」と思う。反知性主義とすら言えない、知性を嫌悪することすら考えない、ただ何も考えない人、例えばジャンプとかを読んで皆と「まじ泣けるよな!」と騒いだり、イエニスト茂吉の YouTube
を見て「ためになるから見てみ!」と本気で友達に勧めたりできるような人だ。一ミリたりともなりたいとは思わないが、「いいなあ」と思う。憧れとも違う。ただ漠然と「いいなあ」なのだ。
もしかしたらただ単に、他に感想が浮かばないだけかもしれないが。
p.76 いつ何時も、どの時代に於いても、金払いの悪い男は嫌われる。俺よりも収入が多かった昔の彼女は、たいていどこの食事代も進んで出してくれていたのに、別れ話を切り出した途端設しい
罵倒を繰り広げ、「いつも金なさすぎなんだよデートの日はデート代くらい下ろしてこい!毎回会計の時になって金がないとかこすいんだよお前!」と吐き捨て俺をレストランに一人置いていった。まだメインが出ていなかったため、その場にいた全ての客に「こすいやつwww」と思われながら一人食事を終え、ようやくお会計をしようとすると彼女が先に支払ったと知らされた。
あれは、自分が人生で目にした中で最もインパクトの強いアイロニーだった。お連れ様にお支払い頂いてますと言われ、一瞬ぽかんとして事態を飲み込んだ瞬間、すでに充分痛んでいた胸が突如落ちてきた巨大な砲丸に潰されたように染み渡った水っぽい痛みを覚えている。あの時メインが出てきて、しっかり食べ終えるまであの店に居座った自分の図太さとケチさ加減の競演を思うと泣きそうになる。
それ以来、ほとんどの店で俺は女性に奢り続けている。この間出してもらったから今度は私が、と付き合っている彼女に言われても、心の奥底では俺をこすいと思っているのではないか、本当は俺が「いいよいいよ」と財布を出すことを期待しているのでは、と考え、「いいよいいよ」と財布を出してしまう。そしてそうすれば女性たちは必ず「え、いいの?」と引き下がるのだ。まあ平均ではあるものの生年収は男の方が高いし、大手出版社勤務だし、と自分を納得させてはいるが、結局のところ俺は「こすいんだよお前!」の呪いにかかってしまったのだ。
正直、自分は個人主義の立場をとっていて、基本的には全てのお金を折半したいし、自分が興味ないことやりたくないこと、例えばバーベキューだったり遊園地だったりナイトプールだったりにお金を払いたくはない。行くことになればお金は出すが、本当は全く割りきれない思いでいる。正直にこの愚痴を言ったら、担当作家の長岡さんに「五松さんが付き合えば付き合うほど不幸な女性が増えるだけだから、恋愛やめたほうがいいと思いますよ。まあ五松さんには女を不幸にさせる程の魅力もないから大丈夫かもですけど」と笑われた。あまりにサラッと軽い口調で言われ、周囲がドッとウケていたから苦笑いで流したけど、時間が経てば経つほど思い出した時の怒りが増していく。男だったら分かってくれるだろうと、担当作家の七村さんに同じことを言ったら、「五松くんは誰かにお金や愛情を分け与えられるほど満たされてないんだろうね。まあ、どれだけ満たされてても与える器がない奴もいるけどね」と同情された。確かにそうなのかもしれなかった。自分は昔から、自分のものは自分のもの。で、お菓子もおもちゃも分け与えることができなかった。僕の!僕の!というのが口癖だったと、親に今も笑われる。お母さんお父さん、僕はいまだに僕のお金を女性に使うことにモヤモヤしてしまいます。それでもこすい奴と思われるのは嫌だから、いつもお金を払っています。課金もしています。でもどこかで「払ってやってる」という意識が働いてしまい、彼女達が自分に優しさや体で接待するのが当然だという思いを捨てきれません。自分が現代に於けるマッチョ的害悪であるという自覚はしています。でも自覚以上の境地にはまだ立てていません。
「牡蠣、三種食べ比べにしましょうか。五松さんは食べたいものは?」「最近野菜が足りてないから、この十五品目サラダ頼もうかな」
九八〇円也を選択する。十五品目で九八〇ということは、一品目あたり約六五円。ひよこ豆や…
p.85 ネトフリは趣味のない引きこもり予備軍が家に閉じこもるもっともらしい免罪符を与えてしまった気がしてならない。昔は「休みの日は家でネトフリ観てます」と言うとちょっと意識高い系の印象を持ったが、今は同じことを言う奴がただの趣味のない陰キャに見える。木戸さんみたいになりたくない、そう思いながらLINEをぐるぐるしてみるけれど、いつも誘われる側の自分が誘ったらなんか変な意味が生じてしまうかもと考える自分が面倒臭くなって、結局スマホをしまって、なんとなく手持ち無沙汰でコンビニで氷結を買い、飲みながら電車に乗った。
p.129 も彼もまた、私に搾取されていたと感じていたのかもしれません。自分はお金をかけた、時間をかけた、労力をかけた、と。ですが人は好意を持つ相手との関係には、その三つを自然にかけるものです。かけたものを「かけた」と相手に発言するかどうかで、その人の人としての器が測られるのだと思います。ですが、私が彼との関係にかけたのは、肉体であり若さです。お金、時間、労力と、肉体や若さはそもそもの性質が違うのではないかと思います。しかも私のそれらは、無自覚に搾取されたものです。愚かな若い女、と笑う人がたくさんいるであろうことは重々承知です。ですが、私はあの時、誰かに馬鹿にされるようなことを、笑われるようなことをしたとは、どうしても思えません。彼は私の窮状に、敢えてつけ込んできたとしか思えないのです。
そして唾液を飲ませることに性的快楽を抱けなくなった途端、雑な扱いをしてポイ捨てした。人を使い捨てにする社会と同じです。
p.165 彼女が煙草を吸いに外に出た時、課長がさっきはごめんねと謝ってきて、君の彼女は何か体の問題を抱えてるのかと聞いた。すぐに真意を察して「いや、彼女はただ、共感能力が僕の百倍くらい高いんです」と言うと、なるほど大変だね、とまるで病人を介護する人に言葉をかけるテンションで言った。いつの時代も、正しさや現代らしさは、病的なものと捉えられるのかもしれない。SDGS、環境保護、動物愛護、LGBTQ+、あらゆる運動の最先端にいる人たちが病的に見えるという意見も分からなくはない。それでも、気づいてしまった人、見えている人は、もう前に進むしかないのだろう。でも彼女は、共感しながら俯瞰していて、実際はどこにも本気で所属してはいないのだけど。そう思いながら、俺は課長の子供がピアノ教室に通い始めたというアルマジロの生態くらい興味のない話に一定間隔でへえ、と声を上げ続けた。
彼女がそうして周囲の人を凍りつかせた場面を、俺は他に何度も目撃してきた。「女なら一度は出産するべき」「あなたたちは顔が綺麗だからたくさん子供を作ったほうがいい」「ゲイには敷居を跨がせない」などなどの発言をした人に対する人格批判だ。彼女の言っていることはまともで、誰よりもまともで、誰も反論の余地はないだろう。でもその無自覚な相手を徹底的に論破しゴミクズに鋭く唾を吐き捨てるかの如き冷酷さは、見る者を不安にさせる。彼女は差別主義者、セクハラパワハラをする人、固定観念に捕われている人々を許さない。俺であっても伽耶ちゃんであっても誰であっても、そのような発言をしたら徹底的に、生まれてきたことを後悔させるほど強烈に叩きのめすだろう。もう脳震盪を起こして伸び切ったゴム人形みたいになった相手をいつまでも左右から殴り続けているかのような、そんなボコボコ感が、俺には耐えられないのだ。
もういいんだ殴らなくていいんだと、彼女を抱きしめたくなる。人がボコボコにされるのは、言葉によってでも、肉体によってでも見ていて辛い。でもきっと彼女は言うだろう。ボコボコにされたのは私の方だ。傷ついているのも私の方だ。あいつらは何一つ傷ついてない。でもそうじゃないと俺は思う。彼らもまた、彼女の思うような形でなくとも、それなりには傷ついているはずなのだ。そしてこれは口にはしないけど、俺もまた彼女が誰かをけちょんけちょんに魅めている時、ガラスの破片を踏みつけたような痛みを感じる。彼女の痛みに共鳴しているのか、それとも彼女にけちょんけちょんにされている人の痛みに共鳴しているのか、それとも二人がぶつかって
飛び散ったガラスを答んでいるだけなのか分からない。それでも誰にも露呈しない痛みではあるけど、俺の痛みもまた本物で、その痛みが彼女にとって取るに足らない痛みであると言う事実のまた、俺にとっては小さな苦痛だった。
p.188 ハラスメント講習会は、正直これがハラスメントになるということを教わらないとわからない人たちがいるのかという絶望の勉強にはなったなという内容で、紹介された参考にするべきサイトや相談窓口もその後見てみたけど、正直だから何って感じのサイトばっかりで、だから何って感じの感想しかなかった。
ハラスメント被害者の講演会は、途中で苦しくなって見るのを止めた。落ち着いてから見ようと思っていたけど、気がついたらアーカイブも期限を過ぎてしまっていた。私の弱さはこういうところなんだろうか。でも誰だって人の苦しかった話、誰かを強烈に恨んだ、憎んだ話なんて聞きたくないんじゃないだろうか。知るべき、考えるべき、学ぶべき、こうするべき、こうしない
べき、お母さんはいつもそういうことを言っていて、その「べき」の重さに、私はずっと不感を持ってきた。人が生きる上で、「べき」なんて一つもないはずだ。そんなのは、彼らの個人的な、あるいは組織的な美意識でしかない。私は全ての「べき」から自由でありたい。もし「ベき」を設けるのであればそれは自分にとってのみの「べき」、自分以外の人には一切当てはめない「べき」にしたい。お母さんは「べき」があまりに重すぎ、強すぎることを知らないし、「ベき」を使わない人間は念のない風見鶏だとでも言いたげに批判する。私の念は、そういう言
念じゃないんだ。あなたには念に見えないような脆弱なそれこそが、私の言念なんだ。それだけなのに、私の念が脆弱すぎるせいか伝わらない。
p.235 てよかった。
「お母さんて、どんな人?」
「うーん、理詰めの人。それで自分自身が理にがんじがらめになって、どうしようもなくなってる人。私も人のこと言えないけど、なんであんな面倒臭い人生を送ってるんだろうって思う。私は無性愛者だから、そもそも有性愛者の人たち皆ちょっと面倒くさそうって思ってる節もあるんだけどね」
「それは、無性有性関係ないんじゃない?性がないから単純でいられるってことでもないでし
よ?」
「まあ、確かに。でもなんか、猫って毛玉吐くの大変そうだなーとか思う感じ。本人にとっては普通のことなんだろうけど、私はそもそも毛繕い文化共有してないから、なんでそんなことするんだろ、絶対もっと合理的なやり方あるよね?って思っちゃうんだけどみたいな。まあ越山くんのいう通り、逆にそっちから見たら何でそんな生き方すんのめんどくさそー、って思われるんだろうけどね」
p.260 だ。それでも二年の引きこもりの後遺症は多少なりともあって、疲れやすいのに自分の疲れに無自覚だから、五コマや六コマ立て続けに授業を受けるとどっと倒れて半日くらい何もできなくなってしまったり、人と長時間話していると酸素が足りなくなってしまうのか、楽しくてもっと話したいのに息切れして目眩がしてきたり、あと笑えたのは二年間足の裏がふわふわだったのが外に出始めた瞬間からどっと硬くなったことだ。あのふわふわな足は多分、歩き始める前の赤ちゃんと引きこもりにしか手に入らないものなのだ、というトリビアをツイートしたら久しぶりにちょっとバズってなんかウケた。
p.270 あの子のお母さんが私のお母さんだったらという想像をしてみる。なかなかうまく想像できなくて、じゃあ私がレイプされて自殺したらという想像をしてみる。お母さんは発狂するだろう。お母さんは、不当なものが許せない人だからだ。え、それおかしくない?みたいなことが発生すると真っ先に声を上げ、おかしいことが是正されなければ所構わず相手を糾弾する。相手がおかしい主張や制度を撤回するまで、延々爛れた肌に容赦なく鞭を振るうように糾弾するのだ。それこそ、鞭を振るう彼女自身が壊れてしまうのではないかというほどに。撤回されるまで、彼女はまともな生活を送れない。結論を先延ばしにされようものなら、夜も眠れず「おかしい」で頭をいっぱいにさせ、犬が自分の尻尾を追いかけ回すようなループに入る。休学期間が二年までと決まっているところを、大学側に責任があるのだからと休学期間を延ばすよう要求した時もそうだった。私の娘の心はこの大学の教授に壊されたんです。うちの娘だけではありません。あらゆる子供達の夢が、幸福であったはずの大学生活が、安全が、大学が雇った教授によって奪われたんですよ。それで心を病んだ子供を休学二年までだからこれ以上休むなら退学処分、なんておかしいですよね?お母さんはそう主張し続け、すぐに弁護士に依頼して認められなければ訴訟を視野に入れると書面を提出、あっけなく休学期間延長の許可をもらった。今改めて思う。お母さんは、自分の思い通りにならない世界が息苦しくてつらすぎるから、小説を書いているんじゃないか。自分の思い通りになるフィクションを求めているんじゃないか。だとしたら、お母さんの主戦場はフィクションで、彼女にとっての現実は、余興的なものでしかないのかもしれない。だからこそ、あんな風に何にも忖度せず、自分の正しさに突き進めるのではないだろうか。そこで生きていく以外の選択肢がない人があんな風に戦えるとは、到底思えない。憂鬱と憂鬱をかけて、憂鬱と言う答えを出すような思考を繰り広げてしまった、そう思いながら、私はを大学の最寄り駅に到着した。電車から足を踏み出した。