中条省平のレビュー一覧
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解説に邦訳に悩むエピソードがあり、もう1つの候補の方が確かに意味合いは近い気がしたが、これは正解。数多の本の中で目を引く強い単語。組み合わせ。
そして本編とはギャップがあって、精神の魔王とでも言おうか。肉体の悪魔にそれが輪をかけていて、さらに強力な大魔王に仕上がっている。
硬く攻撃的で冷たい。恋を凝縮して無機質めいたものにした筆致は、その淡さ弱さは見せず洗練され、もはや爽快である。
若者の恋であるが、大人も愛に至るまでに類似の葛藤や愚かさに弄ばれることが大いにある。
人間の欲望は、高次なものと本能的なものが混在してできているのが面白い。 -
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全くこの作品について前知識がなかったが、思ったよりにんじんに対する周りの扱いは酷かった。
コンビニ人間の著者・村田沙耶香がこの本を読んで幼少期救われたと言っていたので興味を持ったが、確かににんじんも諦めているどうしようもない日々の話に、著書と似たようなものを感じる。
特に母親が、にんじんと他の兄弟との扱い・態度が全く異なることが一番酷く感じる。
そしてあまり干渉しない父親。
訳者のあとがきにて、著者・ルナールの日記を引用した、著者の母親や父親観に関する話があり、とても参考になった。
赤毛のアンなどでも“にんじん!にんじん!“と毛が赤いので馬鹿にする場面があるが、今後そうゆう場面でにんじんが使われる度にこの本を思い出して複雑な気持ちになりそうだ。
あとがきでも解説されているように、文章に余分な描写がなく、淡々としたところもある。それが尚更、にんじんの不遇とそれに対する対応が日常の現実的なものとして感じる。 -
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リュー医師を中心とした複数名の視点から、オラン市でのペストの流行を描いた長編小説。
不条理下での人々の様子や心理が巧みに描かれており、登場人物、ひいてはカミュの抵抗の痕跡も読み取れるが、実際にコロナの病禍を潜った後に読むと物足りなさも感じた。実際に病苦や死の恐怖に日々隣り合わせ、自由を奪われることになったとき、人々の心はこうは平静ではいられなかったのではないか、もっと醜い心理が働いていたのではないかと感じる。そのため「病禍の下での人間心理を描いた秀逸な小説」という評価にはいささか疑問を禁じ得ない。
とはいえそれは実際に病禍を体験した者だからこそ言えることであり、想像のみでここまでを描いたカミュの筆が巧みであることは間違いないだろう。 -
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ネタバレ「ゲゲゲの謎」という映画が流行っている昨今、水木さん入門書として良い、というトゥートを見かけたので購入。
水木さんの漫画・人生に自分の語りたいことをおっかぶせている様子も、後半ちょっと散見されるが、水木さん本人のおおきさが上回って語りきれない感じなので、たしかにかえって入門書としてはよかったと思う。わたしの手元にはいま「総員玉砕せよ!」があって、このあともしかしたら「のんのんばあとオレ」を買うかもしれない。
嫌いだというのに人間中心主義(ヒューマニズム)の夢を見てしまいがちだったのだが、そこに、人間もひとしく生きて死ぬだけという価値観をぽんっと放り込んでもらったので、ちょっと読み返しながら自分の物語を振り返ろうと思う。 -
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リュー医師を中心にペストと闘うオラン市の人々の物語。いきなり降りかかる不幸な天災に、人間の弱さが浮き彫りになる。
ペストは神の天罰と神父は、説いたが、純真無垢の子供が苦しみ死んでいっても、それでも神の天罰と言えるのか。
登場人物それぞれが、愛する者と再び会う為に、終わりの知れぬペストと闘うが、果たして会える事ができるのか。死にゆく者、生き残る者、会える者、会えない者…とても丁寧に描かれている。
コロナ禍を乗り越えた現在と共通する部分が多く、大変、興味深く読む事ができた。
カミュの作品を読むのは異邦人につぎ、本作が2作目。本作では、不条理な運命に翻弄されながらも抗い、仕事を全うし、乗り越えていく人間の強さに希望を感じた。
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ネタバレ新訳のG.バタイユ -2006.10.25記
光文社が今月より文庫版の古典新訳シリーズの出版をはじめた。
そのなかからさしあたりG.バタイユの「マダム.エドワルダ/目玉の話」を読んでみた。
成程、「いま、息をしている言葉で、もう一度古典を」とのキャッチフレーズを裏切らず、咀嚼された平易な翻訳で読みやすいにはちがいない。
「きみがあらゆるものを恐れているのなら、この本を読みたまえ。だが、その前に断わっておきたいことがある。きみが笑うのは、なにかを恐れている証拠だ。一冊の本など、無力なものに見えるだろう。たしかにそうかもしれない。だが、よくあることだが、きみが本の読み方を知らないとしたら? きみはほんとうに恐れる必要があるのか‥‥? きみはひとりぼっちか? 寒気がしているか? きみは知っているか、人間がどこまで「きみ自身」であるか? どこまで愚かであるか? そしてどこまで裸であるか?」
-マダム.エドワルダの冒頭序文より-
バタイユといえば出口裕弘の訳で「内的体験-無神学大全」を読んだのはもう遠い記憶の彼方。
近年ではちくま学芸文庫の「エロスの涙」、訳は森本和夫だったが、「私が書いたもののなかで最も良い本であると同時に最も親しみやすい本」とバタイユ自身が語ったという彼の最後の著書。
数多くの図版とともに「宗教的恍惚と死とエロチシズム」を人類の通史のなかで彼独特の論理で概括するといった趣だったが、ともかくエロスとグロティシズムにあふれた図版の豊富さには圧倒されるばかりであった。
この書が本国のフランスで発禁処分にされたのは、終章の「中国の処刑」項で、20世紀の初頭、実際にあった「百刻みの刑」の模様を伝える数枚の見るもおぞましい写真を掲載し、論を展開している所為だろう。
まことエロスとは死とともにきたりなば、サディズムと通底し、グロテスクの極みをもその深淵に宿すものなのだ。
その彼の小説といえば、これまで私自身接するのは願い下げにしてきたのだが、1970年代前後に生田耕作の翻訳で出された諸作品がかなり流布してきたとみえ、生田訳が定番のごときものとなってきたようである。
このたびの新訳出版の翻訳者.中条省平はあとがきのなかで、「もともと西欧語にとって、哲学的な語彙は日常的な言葉づかいから生まれたものである。それを西欧から輸入し、漢語で翻訳するという二重の外国語を経由して消化した日本語の哲学的語彙とは根本的に違っているのだ。」といい、「エロティシズムと哲学、セックスと形而上学とが荒々しく、直接に接合されている」この特異なバタイユ小説を、生田訳の「漢語を多用する哲学的な語彙と文語調の勢いのよさ」につきまとう難解臭から解き放ち、「日常の言葉と哲学的な表現を無理なく溶けあわせる」べく、訳出の狙いを語っている。
次に引く短編「マダム.エドワルド」終章近くの件りと、先に引いた冒頭序文を併せ読んでみれば、新訳者いうところの事情や狙いがある程度立ち現れてこようと思う。
「エドワルドの悦楽――湧きあがる泉は――彼女の胸がはり裂けるほどに――あふれながら、異様に長く続いていた。その淫蕩の波がたえず彼女の存在を輝きで包み、彼女の裸身をさらに裸にし、猥褻さをさらに恥知らずなものにした。女は、恍惚におぼれる肉体と顔を、形容しがたい鳩のような鳴き声にゆだね、おだやかさのなかで疲れた微笑みをうかべて、乾ききった不毛の底にいる私を見つめた。私は女の喜びの奔流が解き放たれるのを感じた。だが、私の不安が、私の渇望した快楽をさまたげていた。エドワルドの苦しげな快楽は、私にぐったりと消耗を誘う奇跡の感覚をあたえた。私の悲嘆や発熱などなんの価値もないものだが、それらだけが、私が冷たい沈黙機の底で「いとしい女」と呼ぶ者の恍惚に応えうる、唯一の栄光だった。」
いうまでもなく本書所収のもう一篇「目玉の話」は、生田訳では「眼球譚」と題され、バタイユの処女作にしてもっとも人口に膾炙した稀代のグロテスク小説、その新訳版である。 -
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ネタバレフランスのノーベル賞作家アンドレ・ジッドによる小説。愛と信仰の相剋を描く、美しく悲痛なラブストーリー。
愛も信仰も純粋すぎて、混ざり合うことができなかったというべきか。神に至る道は狭き門ゆえに二人では入れないということか。相思相愛なのに結ばれないもどかしさ。身を引いていくアリサの心情がつかめず、最後の日記まで、見えない真相にやきもきする。美しく終わったようにも見えるアリサの人生と信仰をどうとらえるか。アリサが求めた至高の愛とジュリエットがつかんだ現実的な幸福、どちらが正しいのか。。独身を貫くジェロームの姿は美しくも悲痛だ。非常に後を引く、心に残り、かつ考えさせられる名作。 -
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ペスト流行により閉鎖されたオラン市ての群像劇。
主人公であるリュー医師の身近な人がペストに罹らない序盤では淡々と状況が語られるので感情移入しにくいか、中盤以降、予備判事のオトン氏の息子の闘病あたりはかなり緊迫した。リュー医師の周りの人々は大抵残念な結果となる所がなんだかカミュの小説らしいです。
新型コロナ、オミクロン株が蔓延を始めたこの時制において、終盤のペスト収束についてはとても羨ましく思いながら読みました。
人の価値観や宗教感について様々考えさせられます。
オラン市を閉鎖したのは国の機関だと思われるが、その件が全く描かれていないのが不思議です。
未知のウイルスに対抗する上でも精神的な備えとして貴重な古典文学です。 -
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四人の執筆者たちが萩尾望都の作品をとりあげ、その魅力を語っています。また巻末には、「萩尾望都スペシャルインタビュー」が収録されています。
小谷真理が解説しているのは『トーマの心臓』です。小谷が主要なフィールドとしているフェミニズムとSFという二つの観点から考察をおこない、とくに美しい少年たちの物語としてえがかれたこの作品が、女性たちにどのように受け入れられたのかということが論じられています。
ヤマザキマリが解説しているのは『半神』と『イグアナの娘』です。おなじマンガ家としての立場から、表現技法などに立ち入った話がなされるのかと思っていたのですが、むしろ作品のテーマを掘り下げる議論が展開されています。
夢枕獏は『ポーの一族』をとりあげていますが、巻末のインタビューで萩尾自身が明かしているように、四十年ぶりに続編の執筆が再開されることになったきっかけを提供した人物ということもあって、この作品に対する愛があふれだしています。
中条省平は『バルバラ異界』をあつかっています。フランス文学の研究者でありマンガの評論・研究も手がけている著者だけに、この複雑なテーマをもつ作品をどのように読み解くのか、個人的にもっとも関心があったのですが、いくつかの解読のための切り口が示されているにとどまっている印象です。本格的な評論を執筆してくれることを待ちたいと感じました。 -
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愛と信仰の間で激しく葛藤する悲劇の物語。
ヒロイン、アリサのジェロームへの愛の深さ故に距離を置くに至る心理は、自分が身を引くほうがジェロームの為になるという考えからだが、かなり曖昧な理由であり、やはり本質は信仰心ゆえの、あえて困難な道「狭き門」を選ぶことがその理由と思われる。それにしても死の床にあったアリサがジェロームに読まれることを承知で手記を残すことはジェロームを深く後悔させることになると考えるのが普通であり、そこはやはり自分のの愛の深さをジェロームにどうしても伝えたい欲求からくるものか。そう考えると愛故に身を引く慎ましさよりも自身の信仰心を貫くヒロインの身勝手さが周りを巻き込む悲劇に発展したとも言えます。時に信仰心はこの上ない狂鬼を産むものなのか、それも含めて人間の業とも言えるものなのかと考えさせられます。
三角関係と死別、死後に披露される真実を語る日記。これはまんま夏目漱石の「こころ」ですね。
本作も解説がかなり充実しており、本作と作者の実生活との関係を考察しており読み応えがあります。
訳者あとがきで題名に拘ったことを記していますが、題名が「狭い戸口」とならなくてよかったです。 -
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ネタバレ初バタイユは『眼球譚』ではなくこちらへ。生田耕作訳はこの次に読もうと思います。・・・・・・しかしまあ、ジョルジュ・バタイユの名前はよく聞くものの、手を出せずにいたわけですが、実際こうして光文社の新訳版を読んでみると、今まで彼に抱いていた印象とは違った感じを受けました。なんだかこう、こんなに不安定な小説だったのか! って。この手の小説って、もっと傲然としているというか、我関せずに言いたい放題やりたい放題ってイメージが強かったので(マルキ・ド・サドの小説的な?)、まったくそれがないわけではありませんが、どこか不安や恐れも滲み出た哲学的な小説でした。
『マダム・エドワルダ』も『目玉の話』も、あまりに有名な作品。自分にはまだその真価は分からない気がしますが、中条省平さんの簡潔な訳のおかげで意外と読めて、ちょっとだけ分かったような、そうじゃなかったような――みたいなのを繰り返している内に読み終えてしまいました(笑)。ただ、死とエロティシズムは隣り合っているという思考は、ものすごく共感しました。
《ほかの人びとにとって、宇宙はまともなものなのでしょう。まともな人にはまともに見える、なぜなら、そういう人びとの目は去勢されているからです。だから人びとは淫らなものを恐れるのです。雄鶏の叫びを聞いても、星の散る空を見ても、なにひとつ不安など覚えない。要するに、味もそっけもない快楽でない限り、彼らは「肉の快楽」を味わうことができないのです。
しかし、そうだとするならば、疑いの余地はありません。私は「肉の快楽」と呼ばれるものが好きではないのです。だって、味もそっけもないのですから。私が好むのは、人びとが「汚らわしい」と思うものです。私は人とは反対に、普通の放蕩はせいぜい放蕩を汚すだけで、いずれにせよ、真に純粋な気高い本質は、無傷のまま残されるからです。私が知る放蕩とは、私の肉体と思考を汚すだけでなく、放蕩を前にして私が思い描くすべてを汚し、とりわけ、星の散る宇宙を汚すものなのです・・・・・・。》(本文より) -
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私にとって,本作は不条理文学でなければ,疫病の文学でもなかった。反抗というよりは不信の文学,といったところか。20世紀以降の傾向として重要な感覚としてメモをする。
本書に文学的価値を見出すとするならば,海水浴のシーンを取り上げれば十分だろう。
複数の証言を仮想的に再現した,群像劇が効果的に誠実さを示していると思う。
評価を-1したのは,現代に求められている像との(自分の中での)乖離感があり,今必読とまではいかなかったことによる。本作は,現代の読者が思うよりも遥かに孤独だ。
最後に翻訳について。それまでの宮崎嶺雄訳 は1969年のもので,さすがに今では読みづらい文章。今回の新訳により,難解さはかなり減り,内容に集中しやすくなっている。これを機に読者層が広まるのはいいことだと思う。