【感想・ネタバレ】マダム・エドワルダ/目玉の話のレビュー

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極限までのエロスへの追求と死の匂いが常に傍にあることで、物語全体に暗さと狂気を感じるまでの淫欲が漂っている。
神聖な存在である司祭を性で弄び殺すというところに、暗に神は死んだということを示すと同時に、今までの神の拠り所であった場所に、極限まで高めた全く異質なものをぶっ込もうとする意欲を感じる。

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2018年11月26日

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ポスト構造主義が流行った時によく聞かれたバタイユ。思想家だと思っていた本が「古典新訳」で出ているではないか。背表紙には「・・・あからさまな変態行為を描いた・・・」の紹介文。むむむ

・・・これはただのエロ話ではないのは感じるが、しかしどのように読んだらいいのだろう。汗。異様な迫力に圧され完全に消化不良。

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2016年02月07日

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本文より引用
私は「肉の快楽」と呼ばれるものが好きではないのです。だって、味もそっけもないものですから。私が好むのは、人びとが「汚らわしい」と思うものです。
中略
私が知る放蕩とは、私の肉体と思考を汚すだけでなく、放蕩を前にして私が思い描くすべてを汚し、とりわけ、星の散る宇宙を汚すものなのです・・・・・・
引用終わり

この本を読むと勇気が出る。意外と人間てこういう事考えるんだなと感じる。
短い中に衝撃的な内容がギュッとつまってる。特に出だしのミルク皿のシーンはほんとに衝撃だった。おそらく普通の人が考えられる想像の範囲を軽く超えてくる。読んでいるうちにぐいぐいと文章に引き込まれる。
一度は読むべき名作です。

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2012年01月22日

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極端さ、濃さといった点でもまさしく一級品。

ふつうのエロには飽きた、そんなココロのスキマをさらに深くえぐります。

好きか嫌いか、どっちかに分かれると思います。とにかく極端だから。エロスを突き詰めていく話だから苦しいです。

でもちょっと距離をおいて眺めるとかなり面白かったりします。

濃厚すぎるエロはグロだし、快感と恐怖は背中あわせ…瞬間の美を求めつづけていく先になにがあるのか。

くれぐれも
いい大人は真似しないでください。

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2011年02月18日

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こんなにエロスでこんなにぶっ飛んだ本を私は未だ嘗て読んだことがない。終始興奮気味に読んでいました(笑)
エロスと知性は比例関係にあると思う。

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2011年02月04日

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バタイユが精神療法の一環として書いた『目玉の話』。
少年と少女が繰り返す性的遊戯はどこまでいくのか。
バタイユが綴る物語は、低俗に堕さずにエロスへと昇華されます。
大人なら、エロ本読むより、これを読め!

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2010年09月17日

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ネタバレ

新訳のG.バタイユ    -2006.10.25記

光文社が今月より文庫版の古典新訳シリーズの出版をはじめた。
そのなかからさしあたりG.バタイユの「マダム.エドワルダ/目玉の話」を読んでみた。
成程、「いま、息をしている言葉で、もう一度古典を」とのキャッチフレーズを裏切らず、咀嚼された平易な翻訳で読みやすいにはちがいない。

「きみがあらゆるものを恐れているのなら、この本を読みたまえ。だが、その前に断わっておきたいことがある。きみが笑うのは、なにかを恐れている証拠だ。一冊の本など、無力なものに見えるだろう。たしかにそうかもしれない。だが、よくあることだが、きみが本の読み方を知らないとしたら? きみはほんとうに恐れる必要があるのか‥‥? きみはひとりぼっちか? 寒気がしているか? きみは知っているか、人間がどこまで「きみ自身」であるか? どこまで愚かであるか? そしてどこまで裸であるか?」
  -マダム.エドワルダの冒頭序文より-

バタイユといえば出口裕弘の訳で「内的体験-無神学大全」を読んだのはもう遠い記憶の彼方。
近年ではちくま学芸文庫の「エロスの涙」、訳は森本和夫だったが、「私が書いたもののなかで最も良い本であると同時に最も親しみやすい本」とバタイユ自身が語ったという彼の最後の著書。
数多くの図版とともに「宗教的恍惚と死とエロチシズム」を人類の通史のなかで彼独特の論理で概括するといった趣だったが、ともかくエロスとグロティシズムにあふれた図版の豊富さには圧倒されるばかりであった。
この書が本国のフランスで発禁処分にされたのは、終章の「中国の処刑」項で、20世紀の初頭、実際にあった「百刻みの刑」の模様を伝える数枚の見るもおぞましい写真を掲載し、論を展開している所為だろう。
まことエロスとは死とともにきたりなば、サディズムと通底し、グロテスクの極みをもその深淵に宿すものなのだ。

その彼の小説といえば、これまで私自身接するのは願い下げにしてきたのだが、1970年代前後に生田耕作の翻訳で出された諸作品がかなり流布してきたとみえ、生田訳が定番のごときものとなってきたようである。
このたびの新訳出版の翻訳者.中条省平はあとがきのなかで、「もともと西欧語にとって、哲学的な語彙は日常的な言葉づかいから生まれたものである。それを西欧から輸入し、漢語で翻訳するという二重の外国語を経由して消化した日本語の哲学的語彙とは根本的に違っているのだ。」といい、「エロティシズムと哲学、セックスと形而上学とが荒々しく、直接に接合されている」この特異なバタイユ小説を、生田訳の「漢語を多用する哲学的な語彙と文語調の勢いのよさ」につきまとう難解臭から解き放ち、「日常の言葉と哲学的な表現を無理なく溶けあわせる」べく、訳出の狙いを語っている。
次に引く短編「マダム.エドワルド」終章近くの件りと、先に引いた冒頭序文を併せ読んでみれば、新訳者いうところの事情や狙いがある程度立ち現れてこようと思う。

「エドワルドの悦楽――湧きあがる泉は――彼女の胸がはり裂けるほどに――あふれながら、異様に長く続いていた。その淫蕩の波がたえず彼女の存在を輝きで包み、彼女の裸身をさらに裸にし、猥褻さをさらに恥知らずなものにした。女は、恍惚におぼれる肉体と顔を、形容しがたい鳩のような鳴き声にゆだね、おだやかさのなかで疲れた微笑みをうかべて、乾ききった不毛の底にいる私を見つめた。私は女の喜びの奔流が解き放たれるのを感じた。だが、私の不安が、私の渇望した快楽をさまたげていた。エドワルドの苦しげな快楽は、私にぐったりと消耗を誘う奇跡の感覚をあたえた。私の悲嘆や発熱などなんの価値もないものだが、それらだけが、私が冷たい沈黙機の底で「いとしい女」と呼ぶ者の恍惚に応えうる、唯一の栄光だった。」

いうまでもなく本書所収のもう一篇「目玉の話」は、生田訳では「眼球譚」と題され、バタイユの処女作にしてもっとも人口に膾炙した稀代のグロテスク小説、その新訳版である。

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2022年10月14日

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ネタバレ

初バタイユは『眼球譚』ではなくこちらへ。生田耕作訳はこの次に読もうと思います。・・・・・・しかしまあ、ジョルジュ・バタイユの名前はよく聞くものの、手を出せずにいたわけですが、実際こうして光文社の新訳版を読んでみると、今まで彼に抱いていた印象とは違った感じを受けました。なんだかこう、こんなに不安定な小説だったのか! って。この手の小説って、もっと傲然としているというか、我関せずに言いたい放題やりたい放題ってイメージが強かったので(マルキ・ド・サドの小説的な?)、まったくそれがないわけではありませんが、どこか不安や恐れも滲み出た哲学的な小説でした。

『マダム・エドワルダ』も『目玉の話』も、あまりに有名な作品。自分にはまだその真価は分からない気がしますが、中条省平さんの簡潔な訳のおかげで意外と読めて、ちょっとだけ分かったような、そうじゃなかったような――みたいなのを繰り返している内に読み終えてしまいました(笑)。ただ、死とエロティシズムは隣り合っているという思考は、ものすごく共感しました。

《ほかの人びとにとって、宇宙はまともなものなのでしょう。まともな人にはまともに見える、なぜなら、そういう人びとの目は去勢されているからです。だから人びとは淫らなものを恐れるのです。雄鶏の叫びを聞いても、星の散る空を見ても、なにひとつ不安など覚えない。要するに、味もそっけもない快楽でない限り、彼らは「肉の快楽」を味わうことができないのです。 
しかし、そうだとするならば、疑いの余地はありません。私は「肉の快楽」と呼ばれるものが好きではないのです。だって、味もそっけもないのですから。私が好むのは、人びとが「汚らわしい」と思うものです。私は人とは反対に、普通の放蕩はせいぜい放蕩を汚すだけで、いずれにせよ、真に純粋な気高い本質は、無傷のまま残されるからです。私が知る放蕩とは、私の肉体と思考を汚すだけでなく、放蕩を前にして私が思い描くすべてを汚し、とりわけ、星の散る宇宙を汚すものなのです・・・・・・。》(本文より)

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2021年11月05日

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ネタバレ

まず『マダム・エドワルダ』。娼婦との一夜の話です。娼館からも抜けだしてパリの街中にさまよい出て、快楽と危険の線上を行く物語は続いていく。暗い色味で写実的、でも幻想性を帯びた、エロスがテーマの絵画を何枚も何枚も続けざまに眺めているような読書体験でした。アート作品と呼んだほうがしっくりくるような文学作品だと思います。

そして『目玉の話』。これは厄介です。性欲にまかせた変態行為を重ねる思春期の男女の話なのですが、その精神性には妙なくらいリアリズムを感じます。思春期の、「そのあとどうなるか?」よりも今やってしまいたい衝動の強烈さがまずひとつそこにはあります。序盤の段階で、それが退廃的ではあってもニヒリズムではないのは、まだ若い人たちによる「追求の姿勢」があるからだと思います。もしも社会性が身についてまでこのような性の変態行為の追及を行っている大人がいたら、それは社会へのニヒリズムになるのではないでしょうか(しかし、後半ではエドモンド卿という大人の変態人物もでてきて、彼はニヒリズムとはまた違う印象を持っているのでした)。

物語のタイトルになっている目玉やゆで玉子などの楕円性のたんぱく質でできた白い物体をシモーヌが好み、性的な遊戯に使いたがるのですが、このモチーフについては本書の解説に譲るとして、このレビューでは物語の中で繰り返される性的遊戯の変態行為について考えていきます。

社会性が身につくより先に興味と性欲の底知れぬ高まりを見せるのがたぶん男であり、女でもあるでしょう。その性欲を肯定することで暴走が始まり、そのうちそれが追求の様相も帯びてくる。その変態行為が社会的な規範から逸脱しているものでも、思春期のアンバランスさのなかで、何かの間違いだったり、あるいは何かが噛み合ってしまったりすると(ヒロイン・シモーヌような女の子と仲良くなるという偶然がこの場合そう)、一般の人間であっても主人公たちのようなことにならないとも限らないのかもしれません。

後半部。シモーヌのつてで主人公たちの庇護者として登場するエドモンド卿がでてくるあたりで気付くのは、いつのまにか主人公とシモーヌはかなりの遠い場所まで来てしまっていること。性欲の暴走と追及しか視界になかったので、踏み越えるべきではない一線を越えたことにも気付かなかった、という感じがします(それは読み手も同じかもしれません)。仲間のマルセルが死ぬことになった経緯に大きく自分たちの性向が関係していることに気づくのも、すべて終わってからです。「そのあとどうなるか?」よりも今の衝動を優先して、そうなってしまった。

人生には似たような「一線の越え方」は珍しいものではないと思いますが、その些細ではない大きなひとつが、こうして地上の性的狂騒の「水面下」で越えられていった。考えているより先に、知らず時間が過ぎ去っていくように一線を越えるという感覚です。そしてエドモンド卿というキャラクターは、主人公たちのようにいつしか一線を越え、自分の意思で追求したものに逆にとりこまれてしまったかのような人格形成の道を歩んで、結果その完成をみた人物ではないのか、と読むこともできます。角度を変えてみると、エドモンド卿は退廃的な領域にいる人物ですが、思春期の主人公たちがこのままその道を進んでいくとそうなってしまうはずの人物というポジションと言えるかもしれないです。

本能に忠実に、野生の感覚を第一とするような(それも性欲に対して)在り方が、この物語のベクトルとしてあるように読めます。伝統や常識、世間の目といった既存の社会、その、強固に構築されているがゆえの窮屈さ息苦しさ生きにくさから逃れるための脱線のかたちがこの小説で描かれている性的な変態遊戯という脱線の仕方だと言えるかもしれない。ストレートではない逃避であり、ストレートではない抵抗でもある。それでいてひとつのストレートな地下道あるいは裏道というような感じがします。しかし、終盤、スペインの教会で、若い司祭を性的な冒涜のあげく死に至らしめる流れにまで発展すると、もはやそれは地下道や裏道から這い出て「対決」を始めてしまったことになっていると捉えることができます。

ここで描かれているのは強烈な性欲が中心に回っている物語なのだけれど、著者も読み手もそこでの何に魅せられているのかというと、強い衝動を生み、自動的とでも言うように動かされてしまう、その根源的なエネルギーになのではないか。伝統や制度などが代表的なところですが、そういった抑圧的なものを忌み嫌うからこそ、こういった物語が生まれたのではないか。その時代を下支えしている秩序の重さに耐えかねたのです。

窮屈さや息苦しさなどを先ほど挙げましたが、さらに言えば、それらよりもずっと「つまらなさ」というものを嫌悪すべきものとしてあっただろうし、エネルギーの消耗というか、「(古い伝統や古い制度などの抑圧によって)発揮されずに打ち捨てられる運命におかれるエネルギー」という個人の内に湧き出るエネルギーのその立場に我慢がならなかったのかもしれない。それは、生は大切なものなんだ、との世界観が基盤にあるからだと思います。

というように、性的な変態行為にだって、「生をちゃんとまっとうしたい」「一回だけの生を味わいつくしたい」というような比較的真っ当な気持ちがその底にあるのではないか、というところに落ち着くのでした。

最後の項までいくと、バタイユ自身の幼少時の個人的な体験の反映があるのではないか、と自己分析が語られていて、それはそれでそうかもしれない、と少しすっきりするのです。しかしながら、僕のような角度で解析してみるのも面白いと思い、あえてこうしてレビューにしてみました。多少、陳腐な部分もあるでしょうが、大目にみてください。

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2021年10月08日

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蔦屋に積んであったのを何気なく手に取った。
バタイユ: そのパトスとタナトス 酒井健さんによる本を課題とした読書会 何回かに分けて行われたのに参加している最中だった。

そんなこんなで小説も手に取った。なんだこれは?話の筋が変態的で凄い。バタイユの生い立ちも凄い。父が梅毒で失明しており、まもなく四肢が麻痺する。その父の排泄の手伝いをしていた。目玉の話は悲惨な実話なのだ。玉子と眼球と睾丸は楕円的球体という形態上の類似と音韻上の類似を介して結びつく無意識の連続のドラマだという。シモーヌが司祭にとった行動は、想像だにしなかった。まさか。エドモンド卿と私 語り手?とシモーヌの関係に頭が混乱しました。マルセルが死んだ後、エドモンド卿が現れた。どっちにしろ3人の、愛の形?

マダム・エドワルダも妖艶だった。人気のない通りで夜がはだかになっていた。夜が裸か。バタイユのほかのもよんでみたくなった。
きみがあらゆるものを恐れているのなら、この本を読みたまえ。意味深だなぁ。読みたまえ。読みたまえ。

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2019年04月06日

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「マダム」露出狂というのかな、現実にはすぐ通報され周りは恐怖に包まれるので、こういうのはAV世界でしか起こり得ない哀しさ。

「目玉」十代の男女が成熟し始めた肉体を駆使し、エロスのその先に有るものを突き詰めるために狂ったように奔走する。

なんだっけこれ。。。

ハッ、鮭が産卵のために自分が産まれた川に帰ってくる様子みたいだ!



最後にポロリと作者の幼年期に起こった出来事がトラウマとして書かれ、それが一番衝撃的で心打たれる。辛い葛藤を何とかかろうじてエロスに変換して、正気を保っているのか。せつない。

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2018年07月31日

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ネタバレ

【本の内容】
「ある街角で、不安が私に襲いかかった。

汚らしく、うっとりするような不安だ」極限のエロスの集約。

戦慄に満ちた娼婦との一夜を描く短編「マダム・エドワルダ」に加え、目玉、玉子…球体への異様な嗜好を持つ少年少女のあからさまな変態行為を描いた「目玉の話」を収録。

[ 目次 ]


[ POP ]
子供なんてのは、まあ親から与えられた本なんてだいたい興味無いですよね。

親の価値観なんて古くてダサいっていうか、教養なんてウザいっていうか、自分たちの世代の方がいけてるっていうか。

なので、親としてはやっぱり子供にナメられないような本を与えたいところですよね。

まあなんでもいいんですけど、とりあえずバタイユの「目玉の話」とかいいんじゃないでしょうか。

これを読ませれば、子供も「なんだこいつ、マジ狂ってる」「マジぱねえ」と、今までナメてた親に一目置くようになることは請け合いですよね。

 内容的にも、まあざっくり言えば生命の偉大な力を礼讚してる話という気もしますし、念のため最初に「マネしちゃダメだぞ☆」みたいな感じで注意しておけば問題ないんじゃないですかね。

いや本当に子供には、豊かな感受性と柔軟でしなやかな価値観、そして強い情熱を育んでほしいですよね。

[ おすすめ度 ]

☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)

[ 関連図書 ]


[ 参考となる書評 ]

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2014年10月31日

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え、目玉の話って、と最初邦題に戸惑った(不安を感じた)ものの、読んでみると最高でした。
内容、周りの狼狽を描いていないあたりに突っ切った感が出てるというか。何故たまごなのかと思うが(だって玉子じゃ、ね)性的に描けばなんだって性的になるのだなと。だからシモーヌの性癖は先天的なものよりも後天的なものと思って読んでいたが、最後「私」(バタイユなのか?)視点で語られる分析によってすとんと腑に落ちた。

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2014年09月10日

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大変読みやすい翻訳。
マダム・エドワルダと目玉の話の差異が面白い。
今年(2014)のセンター試験の小説がマジキチ、と評されていたが、これらの作品が出たら受験生はどのような顔をするのかと想像するだけでニヤリとした。
球体とは、完璧な立体で、心惹かれる美しさを持つのもわからなくもない(そこに性的魅力を持つかは別にして)
いやしかし、睾丸も乳房もある意味球体なので、エロシズムを携えた立体なのかもしれない。
訳者があとがきに書いているように、谷崎潤一郎の卍と、痴人の愛と共通があるのか、次はその二作品を、読みたい。

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2014年01月24日

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「目玉の話」はすごい。最初から最後まで、変態性欲と悪徳の所業が息つく間もなく展開し、最後のクライマックスの場面に到達する。すごいなと思う。でもどう論評したらいいかわからない。

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2012年11月14日

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バタイユの作品を初めて読んだけど、とにかくぶっ飛んでる。この作品内ではエロスは種の存続のためには機能しない。連続性の無い行為こそが美しいとされるこの作品の世界はまさに「非日常」であり、それこそが芸術に求められるものではないかと思いました。

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2010年12月09日

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ネタバレ

多分求めてるものがまず違った。パウロ・コエーリョの「11分間」に感じたものを求めながら読んでしまったのがまず違った。

尿や糞に全くエロティックさを感じないのでひたすら汚かったし、解説の言葉を借りれば「ヘミングウェイ的な」文体もそこまで好きではなかった。ラディゲとかコクトーの方が個人的に好きだし、こういう「エロティック」な (尿とか糞ではなく)な題材でラディゲとかコクトーが書いたらどうなるんだろう、そっちの方が読みたくなった。

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2023年09月21日

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「眼球譚」として読んだ際は、これが村上龍の「限りなく透明に近いブルー」の親玉かと感慨深かった。
新訳でもバタイユのエロティシズムは地獄絵図だった。限界、禁忌を突き破って堕ちる。汚物、血に塗れる。耽美なんてのは甘いとでも言わんばかり。本書はバタイユの作家論的な側面にも触れつつ作品の成り立ちを解説しているが、生の欠落部を埋めるには余りにも作品が強烈では‥。

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2023年05月01日

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たかだか140頁くらいのお話なのに、読み始めて読み終えるまで16日も掛かってしまうくらい、食傷気味。。

バタイユさんの最高傑作らしい「マダム•エドワルダ」よりも、「目玉の話」のインパクトが凄すぎた。

冒頭の、猫用のミルク皿にシモーヌがお尻を浸す、という場面が有名らしいが、その後も、ひたすら変態的場面が続く。

闘牛場で、シモーヌの要望により、仕留められたばかりの闘牛の睾丸がふたつ生のまま銀の皿で供され、シモーヌは、闘牛の(文字通り目玉が飛び出る)死亡事故を観ながら、ひとつは食べ、ひとつは隠部に入れる、という意味不明の倒錯の世界へ。。

最後の方のセビリアの教会での出来事は、キリスト教会がどういう反応をしたのか気になるくらい、非キリスト教徒から見ても冒涜的に映った。(初稿は地下出版だそう。)

こういう倒錯的な感覚に至る原因らしきものとして、梅毒で四肢が不自由なバタイユの実父がお漏らししながら白目を剥いていたときの目玉の映像、が最後に分析的に語られる。

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2022年05月02日

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エロスを感じたくて読書している訳じゃないし、それを目的として書かれたものでもないんだろうけど、どうしても下世話な目線で見てしまうし、そうなってくると自分が好きな内容じゃない。ここに文学的価値を見出すためには、エロスの成り立ちや歴史だったりとか、表現の自由が制限されている社会への想像力だったりとかが必要なんだろうか。

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2018年04月23日

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新訳で再読。フロイトは「欲動とは、生命のある有機体に内在する強迫である」と述べ、その強迫とは生命以前の姿へ―死へと回帰するタナトスの欲動を提唱していたが、ここにあるのは正にそうした死へと同一線上にあるエロスの放出だ。全身から漏れ出るエクスタシーと体液は禁忌を破壊する潤滑油となり、そのベクトルは生の彼岸を飛び越える。生田耕作訳より肉々しく描かれる目玉の話はより下劣さが強調されながら、翻って一筆書きで描かれたようなマダム・エドワルダの静的さや思弁性が対照的に浮かび上がるようになっている。形而上学的変態小説。

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2015年06月20日

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わたしたちの安定的でリジットな生が、こんなにグロテスクに崩壊できるものだろうか。
迷いなく破滅へと突き進む3人、「この人たちと私は違う!」と叫びたい自分。生の消尽を拒絶したい気持ち。

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2014年12月10日

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ネタバレ

変態? 天才? バタイユの力を知れ!

「マダム・エドワルダ」はそんなに背徳な感じがしませんでしたが、「目玉の話」はちょっとびびった。これを出版してよいのだろうか、いや、よいけど。今でこそ、変態程度で収まるけれど、最初にこれを思いついたんだったら、バタイユは天才だよな、としみじみしたり。卵はエロいね。あと、ミルクと自転車な。

「目玉の話」の方が衝撃的なのは、語りの文体だからかもしれない。まあ、この話を音声で聴く機会はめったにないだろうけど(笑)

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2014年08月23日

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ネタバレ

これは強烈な本だな、と感じました。
とてもじゃないですが、普通の人だと
思いっきりこの本はきつく感じると思います。

何でもござれ!なひとには
割と性に合うことでしょう。
でも、扱われている性描写も
かなりハードでフェティシズムあふれるものです。
これも耐性がなければ大変なことに。

でも、それだからってえげつない、
という感じではないのです。
何というか、非日常、
人が壊れゆく、一種の美しさを
見た感じがするのです。

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2014年02月11日

Posted by ブクログ

 まだ、一歩踏み込んで感想を述べるにいたっていませんが、


 バタイユさんをもっといろんな角度から読んでみたくなりました。

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2012年10月30日

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玉砕。話がよりわかりやすいのは目玉の方かと思いましたが、理解は出来かねます…
てかよくそんなことおもいついたよね!の連続。

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2012年08月29日

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「マダム・エドワルダ」の方はそうでもなかったですが、「目玉の話」の方はなんだか文体がしっくりきませんでした。解説のところにタイトルを「目玉の話」とした理由が説明されていますが、「確かにそうかもしれないけど…」という感じがしてあまり納得できませんでした。好みかもしれませんが。

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2012年03月29日

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谷崎や乱歩の変態ワールドは好きなんだけど、「目玉の話」の「イッちゃってる感」には仰天。教室に堂々とは置けないけど、片隅に落としといて誰かが持っていくのをドキドキしながら待ってみたい、そんな本。

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2010年08月07日

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繰り返される変態行為から一体何を読み取ったらいいのかわからない。自分はまだまだ未熟ってことなのか。でも理解したいとも思えない。「エロ」ってなんなんだろうなあ。

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2011年12月01日

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ーーー…きみはひとりぼっちか?寒けがしているか? きみは知っているか、人間がどこまで「きみ自身」であるか? どこまで愚かであるか?そしてどこまで裸であるか?

いやあ最初は予想をはるかに上回るえろさにひいいとなったんですけど、こんな汚らしい光景をこれでもかというほど詰め込んでいるのにそこまで汚らしくないのは確固たる精神性がきっちり含まれてるため、ですよね。すさまじくえろいからってのもあるんだけど小説のあらゆる場面が鮮明に記憶に残る、離れられない。好きかどうかは置いといてこれは間違いなくすごいと思います。

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2010年04月04日

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