中条省平のレビュー一覧
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ネタバレ20世紀前半から中ごろに活躍したフランスの作家・バタイユの代表小説二作品の新訳版です。どちらも性描写が多く、内容としても中心に性がある作品で、とくに『目玉の話』においては、ある種の極まで到達した性の感覚を扱っていて強烈な読書体験になる作品でした。分量は短いのですが、読んでは考えまた読んでは考えしながら、少しずつ嘴でつつくような読み方をして自分なりに消化してみた次第です(全消化とまではいってないでしょうけれども)。
まず『マダム・エドワルダ』。娼婦との一夜の話です。娼館からも抜けだしてパリの街中にさまよい出て、快楽と危険の線上を行く物語は続いていく。暗い色味で写実的、でも幻想性を帯びた、エロスがテーマの絵画を何枚も何枚も続けざまに眺めているような読書体験でした。アート作品と呼んだほうがしっくりくるような文学作品だと思います。
そして『目玉の話』。これは厄介です。性欲にまかせた変態行為を重ねる思春期の男女の話なのですが、その精神性には妙なくらいリアリズムを感じます。思春期の、「そのあとどうなるか?」よりも今やってしまいたい衝動の強烈さがまずひとつそこにはあります。序盤の段階で、それが退廃的ではあってもニヒリズムではないのは、まだ若い人たちによる「追求の姿勢」があるからだと思います。もしも社会性が身についてまでこのような性の変態行為の追及を行っている大人がいたら、それは社会へのニヒリズムになるのではないでしょうか(しかし、後半ではエドモンド卿という大人の変態人物もでてきて、彼はニヒリズムとはまた違う印象を持っているのでした)。
物語のタイトルになっている目玉やゆで玉子などの楕円性のたんぱく質でできた白い物体をシモーヌが好み、性的な遊戯に使いたがるのですが、このモチーフについては本書の解説に譲るとして、このレビューでは物語の中で繰り返される性的遊戯の変態行為について考えていきます。
社会性が身につくより先に興味と性欲の底知れぬ高まりを見せるのがたぶん男であり、女でもあるでしょう。その性欲を肯定することで暴走が始まり、そのうちそれが追求の様相も帯びてくる。その変態行為が社会的な規範から逸脱しているものでも、思春期のアンバランスさのなかで、何かの間違いだったり、あるいは何かが噛み合ってしまったりすると(ヒロイン・シモーヌような女の子と仲良くなるという偶然がこの場合そう)、一般の人間であっても主人公たちのようなことにならないとも限らないのかもしれません。
後半部。シモーヌのつてで主人公たちの庇護者として登場するエドモンド卿がでてくるあたりで気付くのは、いつのまにか主人公とシモーヌはかなりの遠い場所まで来てしまっていること。性欲の暴走と追及しか視界になかったので、踏み越えるべきではない一線を越えたことにも気付かなかった、という感じがします(それは読み手も同じかもしれません)。仲間のマルセルが死ぬことになった経緯に大きく自分たちの性向が関係していることに気づくのも、すべて終わってからです。「そのあとどうなるか?」よりも今の衝動を優先して、そうなってしまった。
人生には似たような「一線の越え方」は珍しいものではないと思いますが、その些細ではない大きなひとつが、こうして地上の性的狂騒の「水面下」で越えられていった。考えているより先に、知らず時間が過ぎ去っていくように一線を越えるという感覚です。そしてエドモンド卿というキャラクターは、主人公たちのようにいつしか一線を越え、自分の意思で追求したものに逆にとりこまれてしまったかのような人格形成の道を歩んで、結果その完成をみた人物ではないのか、と読むこともできます。角度を変えてみると、エドモンド卿は退廃的な領域にいる人物ですが、思春期の主人公たちがこのままその道を進んでいくとそうなってしまうはずの人物というポジションと言えるかもしれないです。
本能に忠実に、野生の感覚を第一とするような(それも性欲に対して)在り方が、この物語のベクトルとしてあるように読めます。伝統や常識、世間の目といった既存の社会、その、強固に構築されているがゆえの窮屈さ息苦しさ生きにくさから逃れるための脱線のかたちがこの小説で描かれている性的な変態遊戯という脱線の仕方だと言えるかもしれない。ストレートではない逃避であり、ストレートではない抵抗でもある。それでいてひとつのストレートな地下道あるいは裏道というような感じがします。しかし、終盤、スペインの教会で、若い司祭を性的な冒涜のあげく死に至らしめる流れにまで発展すると、もはやそれは地下道や裏道から這い出て「対決」を始めてしまったことになっていると捉えることができます。
ここで描かれているのは強烈な性欲が中心に回っている物語なのだけれど、著者も読み手もそこでの何に魅せられているのかというと、強い衝動を生み、自動的とでも言うように動かされてしまう、その根源的なエネルギーになのではないか。伝統や制度などが代表的なところですが、そういった抑圧的なものを忌み嫌うからこそ、こういった物語が生まれたのではないか。その時代を下支えしている秩序の重さに耐えかねたのです。
窮屈さや息苦しさなどを先ほど挙げましたが、さらに言えば、それらよりもずっと「つまらなさ」というものを嫌悪すべきものとしてあっただろうし、エネルギーの消耗というか、「(古い伝統や古い制度などの抑圧によって)発揮されずに打ち捨てられる運命におかれるエネルギー」という個人の内に湧き出るエネルギーのその立場に我慢がならなかったのかもしれない。それは、生は大切なものなんだ、との世界観が基盤にあるからだと思います。
というように、性的な変態行為にだって、「生をちゃんとまっとうしたい」「一回だけの生を味わいつくしたい」というような比較的真っ当な気持ちがその底にあるのではないか、というところに落ち着くのでした。
最後の項までいくと、バタイユ自身の幼少時の個人的な体験の反映があるのではないか、と自己分析が語られていて、それはそれでそうかもしれない、と少しすっきりするのです。しかしながら、僕のような角度で解析してみるのも面白いと思い、あえてこうしてレビューにしてみました。多少、陳腐な部分もあるでしょうが、大目にみてください。 -
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大学生の時、よく読んだカミュ。当時はサルトルに敗北した形をとったとは知らなかった。カミュ=サルトル論争を読んだときには、サルトルの言っていることのほうが良く分からなかった(個人的にサルトルの著作は読もうと思っても解読できない)。そう、当時は共産主義という政治へのコミットが重要な位置づけとなっていたからで、資本主義しか残っていない現代ではカミュは普遍的に見える。カミュはまた地中海世界におけるキリスト教からの脱却を図っている。大学生のとき読みふけったのも、キリスト教的世界観からの脱却を図っていたという点で一致していたのだな、と。読み直したくなった
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番組を見損なった。萩尾望都大ファンの番組プロデューサー(秋満吉彦)が満を持して放つ100分de名著。番組よりも論者は更に加筆したようだし、論者たちをア然とさせたらしい萩尾望都ロングインタビューも完全版で載っている。番組観なくても、こういうムックで読む方がよっぽど役に立つ。
【内容】
『トーマの心臓』をよむ――小谷真理
『半神』『イグアナの娘』をよむ――ヤマザキマリ
『バルバラ異界』をよむ――中条省平
『ポーの一族』をよむ――夢枕獏
萩尾望都インタビュー
ここで新たに提示されている萩尾望都論は、それなりに新しい視点ではあるけれども、驚くようなことは書かれてはいない。かつて80年代の初めに漫画評論誌「ぱふ」に於いて橋本治が「花咲く乙女たちのキンピラゴボウ」で指摘した時から、萩尾望都は文学評論の水準で語られてきた。まだまだ汲めども尽きぬ視点が出てくるだろう。
ここの論者たちが繰り返し指摘している視点がある。
「異端者」としての主人公=作者が、どうやって世間と折り合いをつけてゆくか。
「ここではないどこかへ」というのは、21世紀から出てきた萩尾望都短篇のテーマではあるが、それはそのまま萩尾望都の生涯のテーマであるというのである。
それはその通りだと思う。
じゃ、それは単なる「世間」なのか?
というのが私の問題意識である。
それはもっと手強い「世界」ではないのか?
言葉にできない「世界」に対する不安。
それは同時に私たちの問題意識でもある。
萩尾望都が何度も読み返されるのには、理由がある。
小説では描けないものを描いているから、萩尾望都はマンガを描いているのである。と、インタビューで萩尾望都は明確にしていた。ネームの作り方は、最初は登場人物の心理状態も全て書くらしい。そのあと絵で還元できるものは全て削って、最後にうまく絵にならない部分が、あの夢のように流れる「モノローグ」として残るらしい。曲のない歌詞が歌ではないように、絵のない言葉はマンガではない。「悲しみの天使」という映画とヘルマン・ヘッセの小説に刺激されて「トーマの心臓」が出来たようだが、一度その両方を見て、私にも「トーマ」がつくれるか試してみたい(笑)。
論者たちの討論では、「イグアナの娘」のラストシーンに出てくる小さなトカゲの正体について、議論があったそうだが、インタビューではあっさり「それはお母さんです」と明かしている。ヤマザキマリは放送された番組を観てズッコケたらしい。この場合、娘とお母さんの和解は成立していたようだ。
その他、新「ポーの一族」で「アランは復活させます」とあっさり語っていたり、とっても重要なことをさらっと言っている。
萩尾望都を読んでいくために、新たに重要な本がまた誕生した。 -
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青い麦と違い、あまりにも自堕落なストーリー。こちらは16歳の少年と19歳の人妻の物語だけど、なかなか16歳少年が狂っている。まさにフランス文学!あまりにも面白くいつもや読まない巻末の解説を読んでしまった。
少年だけではなく、周りの家族もおかしくそんな馬鹿な!って思ったが、この物語、ほぼほぼラディゲの体験談そのものと知り二度びっくり。
人妻との禁断の恋というのは何もフランス文学だけでなく、日本でも甘美な色物としてよくある話なんだけども、主人公のへその曲がった性格がこの物語の主軸となり関係するすべての人間関係を狂った方向へ導いてしまった。エンタメ要素は少ないながら結末をワクワクしながら読めた。やっぱりたまには海外純文学を読まないとだめだなぁと思う。 -
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70年代ノワール小説の最高峰マンシェット新訳だ。精神病院を退院したジュリーは企業家で慈善家のアルトグに雇われて彼の幼い甥っ子ペテールの世話を始める。屋敷のまわりではアルトグの昔の共同経営者で凶暴なフェンテスがうろついていた。ある日散歩中の2人は凶悪な4人の殺し屋に誘拐されてしまう。ジュリーは1人を殺してペテールと共に脱出。殺し屋は容赦なく追いかけてくる。銃撃、破壊、殺人、流血の逃走劇。殺し屋の背後に誰がいるのか?誰が味方で誰が敵なのか。実は登場人物全員がイカれている。善悪の話ではない。生きるか死ぬかの本能の話だ。そしてハッピーでもバッドでもないサバサバしたラストが印象的だ。
昔はノワール小説というとペーパーパックの三文ハードボイルドばりにワイルドに訳そうとしたりイカれぶりを強調しすぎて白々しかったが、この翻訳は現代風で気負いがなくて読みやすい。 -
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引用。
僕はマルトにキスをした自分の大胆さに呆然としていたが、本当は、僕が彼女に顔を寄せたとき、僕の頭を抱いて唇にひき寄せたのはマルトのほうだった。彼女の両手が僕の首に絡みついていた。遭難者の手だってこれほど激しく絡みつくことはないだろう。彼女は僕に救助してもらいたいのか、それとも一緒に溺れてほしいのか、僕には分からなかった。
平静に死を直視できるのは、ひとりで死と向かいあったときだけだ。二人で死ぬことはもはや死ではない。疑り深い人だってそう思うだろう。悲しいのは、命に別れを告げることではない。命に意味をあたえてくれるものと別れることだ。愛こそが命なら、一緒に生きることと一緒に死ぬことのあいだに、どんな違いがあるというのだろう?
精神的な類似は身体にまで及ぶことがある。目つきに、歩き方。しばしば知らない人がマルトと僕を姉弟だと思いこんだ。僕たちのなかにあった類似の芽を愛が育んだのだ。 -
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フランス語は、学生時代、テレビ講座を見たくらいで、きちんと学習したことはない。
フランス語と言えば、文法が難しい。
そんなイメージを一掃しようとした本だと思う。
綴りと発音、名詞・冠詞・形容詞と性、動詞の活用、否定・命令の形、人称代名詞、前置詞、そして時制。
書きだすとこれでも結構な学習事項だと思う。
しっかり身に着くまで、と思えば、やはりそれなりの時間は必要だろう。
でも、この言語がどういう仕組みなのかをまず概観するには大変優れた本だと思う。
まず、初学者がくじける発音。
振り仮名はダメ、という語学の先生方のおっしゃることはよくわかるが、これをあえてやってのける。
この割り切りっぷりがすばらしい。
そして説明の繰り返しをいとわない。
忘れてしまった人のために、戻るべきページ数を記す。
こういうところが素晴らしいと思う。 -
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なにかよからぬことが起こるのでは、と家族目線ではらはらしながら読み進める。多感な子供はささやかな事でもそれを経験として取り込み成長する。子どもに愛情をそそくことなく、虐待する親が育てた場合、その経験が卑屈な人間に育てられるような、反面教師的な側面がある。昔は子どもにお酒を飲ませたり、銃を扱わせたりしたのか。
読み手に家族目線とにんじん目線と代わる代わる視点が変わるところも面白い。
とてもシンプルな文体で子供向けの本とはじめは思ったがそうではないらしいです。時折支離滅裂な文章があるところも不安にさせられる。
古典にはこんな斬新なものもあるんですね。色々発掘してみたくなります。 -
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蔦屋に積んであったのを何気なく手に取った。
バタイユ: そのパトスとタナトス 酒井健さんによる本を課題とした読書会 何回かに分けて行われたのに参加している最中だった。
そんなこんなで小説も手に取った。なんだこれは?話の筋が変態的で凄い。バタイユの生い立ちも凄い。父が梅毒で失明しており、まもなく四肢が麻痺する。その父の排泄の手伝いをしていた。目玉の話は悲惨な実話なのだ。玉子と眼球と睾丸は楕円的球体という形態上の類似と音韻上の類似を介して結びつく無意識の連続のドラマだという。シモーヌが司祭にとった行動は、想像だにしなかった。まさか。エドモンド卿と私 語り手?とシモーヌの関係に頭が混乱しました。マルセルが死んだ後、エドモンド卿が現れた。どっちにしろ3人の、愛の形?
マダム・エドワルダも妖艶だった。人気のない通りで夜がはだかになっていた。夜が裸か。バタイユのほかのもよんでみたくなった。
きみがあらゆるものを恐れているのなら、この本を読みたまえ。意味深だなぁ。読みたまえ。読みたまえ。 -
Posted by ブクログ
青く若い恋。
この主人公からは知的さと自己観察・分析力の高さを感じる。
そして、ずるさと短絡さも。
マルトへの恋ゆえ、未来の生活など考えていない刹那的な行動を積み重ねる。
欲望と妄想にひたる日々。
なんて地盤の弱い、綱渡りのような恋愛なのだろう。
青い。
しかし、青いからこそ傾けることができた情熱だったのだ。
その心理的な流れを読むのが面白かった。
2019.1.2
フランス文学は読みにくくわかりにくい、という偏見がありました。
コクトーとか、ちょっと苦手で。
でも、この本はすごく読みやすく、共感もでき、面白かった。
若いな、と。
向こう見ずで、刹那的で、疑い方も愛し方もまっすぐで。
おなかに子供ができたと知って、男は逃げ出すのかと思った。
そうでないところに真剣さを感じた。
時をおいて、もう一度よみかえしてみたい。
★人妻との不倫の話。人妻は最後亡くなる。
子供は主人公の名前をつけられ、夫が育てる。なんてこった。