坂口安吾のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
難しさを感じつつも面白く読むことができた作品でした。
特に好きだったのは「恋愛論」と「敬語論」です。
■恋愛論
恋愛っていいなあと思わされました。
大人になるにつれ、人を好きになる気持ちを持つことが少なくなってしまったけれど、人生を彩らせて生きていくのに必要なひとつの要素なのだろうと感じます。
また、恋愛を表現する言葉が様々あることに対しての言及も面白く、言い方次第でその恋心がどのようなものなのか簡単にラベルが貼られてしまうのだと思いました。言葉の纏う雰囲気に呑まれず、ただ自分の気持ちを正直に生きたいです。
■敬語論
言葉の面白さをずっと聞かされているようなそんな話でした。
話をしているときに同じものを指していても、育ってきた環境や教養で言い方に違いが生まれることは生活の中で気づかされることであるし、変化し続ける人間の用いる言葉が変化しないなんてそんな話はあるわけないし。普段の生活の中で使っているものだからこそ、理解できる部分が多々ありました。
表現の違い、言葉と内心の関連性、また私たちの言葉に影響を与える媒体など変化はあれどきっと多くの時代の人に共感されるのではないかと思います。
最後に、こちらの小説の中の座談会の様子や太宰治の亡くなった後の話から、太宰治の人間味を感じることができました。
先に太宰治の文学に触れたことで、どこか私達とは違うような人物像を描いていたこともあったので小説内の印象から、徐々にこの人も人間だったんだと思えて嬉しかったです。 -
Posted by ブクログ
『男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです』
桜の森の満開の下 坂口安吾
『誰かが後にいて、じっとその視線を彼女の上に集注しているような心もちである』 影 芥川龍之介
『そこの二階の六畳は、二人にとって唯一の世界であった』 芋虫 江戸川乱歩
『那時あの妓ーは緋の長襦袢を着て居ました。月夜のような群青に、秋草を銀で刺繍して』
浮舟 泉鏡花
『この美しい若衆はもて囃されていた』
身毒丸 折口信夫
『落盤に鎖された真暗な隧道の中で、十四郎は恐怖のために変貌を来たしてしまい』白蟻 小栗虫太郎
『この足こそは、やがて男の生血に肥え太り、男のむくろを蹈みつける足であった』
刺青 谷崎潤一郎
『この美しい、楽しい島はもうスッカリ地獄です』
瓶詰地獄 夢野久作
『あの人は、誰のものでもない。私のものだ』
駆け込み訴え 太宰治
『「何がって、知ってるじゃないか」と子供は嘲けるように答えた』 夢十夜 夏目漱石
美しい日本語に触れたくて読み始めましたが、十作のどれも不思議な世界にどっぷり浸かってしまいました -
Posted by ブクログ
坂口安吾の短編集。
「魔の退屈」「私は海をだきしめていたい」「ジロリの女」「行雲流水」「肝臓先生」の5編を収める。
文庫全体のタイトルは、最終作の「肝臓先生」から採られている(本作、今村昌平監督、柄本明主演で映画になっている(「カンゾー先生」。私は未見なのだが)が、最も長いのは「ジロリの女」で、こちらの方が本書全体の空気を作っているような気もする(本書刊行が1997年、映画公開が1998年。映画制作には角川書店も名を連ねているので、書籍タイトルを「肝臓先生」にしたのは映画とタイアップという意味合いなのかもしれない)。
現行の表紙は「かまわぬ」のようだが、古書で購入したので表紙は画像のもの。何の絵なのか、いまひとつ確信が持てないのだが、手漕ぎボート3艘?だろうか。「ジロリの女」の主人公の名が「ゴロー三船」なので、それを表す3つの舟、なのか。「肝臓先生」でも終盤、先生が舟に乗るので、あるいはそちらと掛けたのかもしれない。不明。
「魔の退屈」は戦時の安吾の私小説的な小編。
「私は海をだきしめていたい」は「戦争と一人の女」の流れを汲む作品。
「行雲流水」は勝手と言えば勝手だが自分に正直な女と、女にかかわる和尚の話。この主人公がソノ子という名で、映画「カンゾー先生」のヒロイン格の女と同じ名のようなので、今村作品は「行雲流水」+「肝臓先生」なのかもしれない。
「肝臓先生」は、何でもかんでも肝臓病と診断する医者の話で、何だかどこか宮沢賢治の書く利他的な主人公が登場するお話を思い出させる。肝臓先生はとにかく患者を救いたい。元々は呼吸器が専門なのだが、診る患者診る患者、肝臓に異常があると気づき、未知の感染症が密かに流行っていると疑う。けれど、ほかの誰もそんなことは言わない。肝臓先生は孤軍奮闘するわけである。それが肝臓先生の妄想なのか、周囲が暗愚なのか、最後まで結局よくわからないのだが、肝臓先生の突き進む先には、悲劇的で英雄的であると同時に、どこか哀しく喜劇的な最期が待っている。
「ジロリの女」。芸人あがりでインチキ会社の社長をやっている男、ゴロー三船。三船は多情な男である。それも気位の高い、自分をジロリと睨みつけてくるような女を落とすことに血道をあげている。何だか「はい、さいですか」としか言いようのない設定で、三船は次々に碌でもないことを言って、裏で暗躍し、女を唆し、挙句、自分のものにし、結果、彼に引っかかった女たちはだいたい不幸になっていくのだが。
かといって、この男、自分も満足したり幸せになったりするわけではないのである。そういえば「桜の森の満開の下」だって、「夜長姫と耳男」だって、女を「手に入れた」ようでも、そうはならなかった、という話だった気もする。このあたり、安吾の女性観が滲んでいるようでもある。
本作、巻末の解説によれば、「不連続殺人事件」と同時期に書かれていたそうである。何だかガチャガチャした雰囲気なのは、どこか両作に共通している印象である。
ガチャガチャ・ごちゃごちゃしているけれど、その向こう側に、どこか虚無が覗くんだよなぁ・・・。