大好きな本。
・p13 弟と太宰は仲が悪かったが、ふたりで故郷を離れて暮らすとお互いの気性が分かってきた。弟は修治の吹き出物を心配して薬を買いにも行ってくれた
→私自身の兄弟関係にも重なるところがあると感じた。遠く離れた場所へ来ると、お互いようやく向き合う覚悟ができる。みたいなものかな。この弟は2、3年後に亡くなったとあるけど、何でも打ち明けて話せる相手がいるというのは自分で思っているより遥かに心を強くする気がする。
・p23 弘前で暮らすうちに「め組の喧嘩」の鳶の者の格好をしようとして、股引を求めて呉服屋に聞き歩いて、結局消防士用の赤線の引かれた代物を提示されて消沈して諦める
・p59 蟹田のN君は人望も厚い若い町会議員だが、太宰は酔った勢いで出しゃばって町政の質問を仕掛ける。憫笑され、クレマンソーに政治談を仕掛けたドガの逸話を思い出す
・p62 観瀾山でビールを飲んでいるうちに、芭蕉翁の教えに背いて、太宰の気に入らない作家(志賀直哉?笑)の悪口を興奮して言ってしまう。面々は微笑をもって聞いてくれているから止まれずに「その10分の1くらいは僕の仕事を認めてくれてもいいじゃないか」と情けない台詞を吐く
・p67 Sさんに「私の子は貴方(太宰)に似て頭のハチが開いている」と言われて完全に参ってしまい、Sさんの家に誘われても不安になってしまって頼りにしているT君の顔色を伺う(結局行く)
・p101 太宰の気に入らない作家を愛読するMさんの家でその作家の本を見たので、思わず「何か粗探ししてやろう」と読み始めたけれど、なかなか隙のない文章だったから投げ出してしまって、Mさんに負け惜しみを言う
・p161 小学校の頃に初めて海を見た遠足で、服装に拘って色々着込んで行ったのに、あまり進まないうちにへたばってしまって身につけたものをどんどん取り上げられてしまった
→こういう黒歴史のようなエピソードを事細かく、自らの愚行に照れるというより呆れながら、もちろん自虐を込めて切々と書き連ねることができるのが太宰治の強みでしかない。普通の人間には、日記にだってこんなに書くことはできない。恥ずかしいし、情けなくてペンを置いてしまう。そう思うと、太宰治という人間は、自分を卑下してでも相手を楽しませたい人なのだろうと思う。
そして、周囲の人達がこうした諧謔染みた話を笑って受け入れているように、太宰の「相手を喜ばせたい」「自分の情けない話で笑ってほしい」という人間愛のような性質は十分すぎるほど周囲に伝わっている。換言すれば、彼はとてつもなく愛嬌があるのだと思う。実際、出会う人達が、わざわざ駅まで迎えに来たり、次の街まで着いて行ったり、酒や料理で張り切っておもてなししてくれたり、旅の途中だからとお土産を持たせない代わりに後日東京の家に郵送してくれたり(太宰自身は、配給も同等に受けているはずの東京の人間が、地方に行ってひもじい振りして食べ物をねだることに軽蔑を感じていた。直接渡されないことに安心したような記述があったけれど、それでも届いた小包を前に旅先で会った人たちの優しさを実感したようである)、地元の温かい歓迎を受けている。読者はこのことに救われる。太宰の涙ぐましい、いじらしい努力は、周囲の人々にしっかりと伝わっているのだと思える。
・p69 招かれたSさんの家で、Sさんは張り切ってしまって、奥さんに対して、りんご酒だの干鱈だの醤油だの酒だの言いつけたり、子供を連れてこいと言ったり、汚い子を連れてくるなんて失敬じゃないかと追い返したり、砂糖をご近所さんにあげろと言ったり、やっぱりお客さん(太宰)にあげろと言ったり、レコードを流せと言ったり、バッハはうるさいから静かにしろと言ったり、最後には「卵味噌だ」を連呼したり
→これを太宰治は「津軽人の愚直可憐、見るべしである」「友あり遠方より来た場合には、どうしたらいいかわからなくなってしまう」「その日の接待こそ、津軽人の愛情表現なのである」と記述している。太宰自身も、同じ状況で部屋の中で右往左往して電燈に頭をぶつけて割ったことがあると。
面白すぎるし、それが本当なら愛しすぎる。
普段ははにかみやで人見知りな人がそうなってしまうことに、太宰は「都会人よりもはるかにこまかい思いやりを持っている」「その抑制が、どっと堰を破って奔騰する時、どうしたらいいかわからなくなって、」「軽薄の都会人に顰蹙せられるくやしい結果になる」と書いている。
かつて数年だけでも青森の地に住んだ人間として少しでも想像してみるなら、これは、あの環境に暮らす人々の感情として至極真っ当なものだと思う。現代でも、東京駅から新青森駅まで新幹線で4時間近くかかるし、1年の半分近くは雪に覆われる土地である。訪れたり観光したりするハードルが高いと自他ともに認める地域に、時間もお金もかけて、遠路はるばる友人が来てくれるのはとてつもなく嬉しいことだ。今も昔も、その感覚は変わらないと思える。
・p95 外ヶ浜の昔話。津軽の人達は安寿姫と厨子王が津軽の子供であることを信じ、安寿姫が丹後の山椒大夫に苦しめられたことから、今でも丹後の人達を忌み嫌っているらしい。
→三才図会も自信ありげに書き出しながら、最後には太宰に「いはき」と「いはしろ」がごっちゃになっているのではないかと言われてしまっていて、思わず笑ってしまった。川の水や魚の鱗が赤いとか、そんな出鱈目な言い伝えがこんなに色々あるのは知らなかった。やっぱり東北は広い。
・p109 有名な三厩の宿での鯛の逸話。太宰が道端で買った鯛を、宿の女中にそのまま塩焼きにして、と伝えたら、N君が「三等分の必要は無いんですよ」と余計な(?)一言を付け加えたせいで、切り身が5欠片出てきた。
→これで泣きそうになっている太宰と、おおらかなN君との対比が面白い。それでも一晩寝たらサッパリして姉娘式でいちどにどっとやってしまおう、なんて語っているところにこの人の人間性を感じる。
・p116 龍飛の宿にN君と歩いて向かう道中、風景について語る箇所。名所にはすべて、人間の表情が感じられるものだが、2人の歩く海岸にはそうした人の匂いが感じられない。どんな文学的な形容詞も思い浮かばない。
・p195 中里から小泊までのバスの中で外の風景を眺める。十三湖は「人に捨てられた孤独の水たまり」
→記述が分かりやすくてなるほどと思った。確かに、青森県内でも弘前の桜や八甲田山の雪、奥入瀬の新緑などはいくらでも形容のしようがあるけれど、まだ寒さの残る津軽半島の近海を記述しようと思うと、それはただ、岩と海、飛沫と風、そして曇天という言葉にしかならない気がする。人の介在する余地がない環境、人が意味を付与する前の剥き出しの世界も、まだ其処彼処にあるのだということかなと思う。ついでに、龍飛の集落に行きあたった時に「鶏小屋に似た不思議な世界」なんて形容しているのも色々と凄い(こんな表現、現代では許されないのではという思いがある)。
・p121 龍飛の宿で、N君が気を大きくして蛮声を響かせてしまう。そのせいで宿のお婆さんがお膳を下げ、さっさと布団を敷いてしまう。
→また太宰は泣き寝入りすることになる。この小説、前半の道程はずっと飲みすぎである。
・p128 津軽氏や津軽為信、津軽平野についてあれこれと詳説されている。その中で、太宰は「私たちの教科書で『津軽』という名前は阿倍比羅夫ただ1箇所でしか見つけることができないのは誠に心細い」「その間、津軽では、ただ裾をはたいて坐り直し、また裾をはたいて坐り直し、二千六百年間、一歩も外へ出ないで、目をぱちくりさせていただけの事なのか」とめそめそした上で、結局津軽の歴史ははっきりしないけれども、「服従の観念に全く欠けていた」「他国の武将もこれには呆れて、見て見ぬ振りをして勝手に振る舞わせていたらしい」「昭和文壇に於ける誰かと似ている」と綴っている。
・p174 深浦について、旅人に慣れて全く無関心な「成長してしまった大人の表情」「透明に煮えきった野菜」と称し、対比的に、津軽は「生煮えの野菜」「歴史の自信がまるきりないから、矢鱈に肩をいからせて、反骨となり、強情となり、」と言いながら、「この津軽の大きい未完成がどれだけ希望になっているか」「人からおだてられて得た自信なんてなんにもならない」と鼓舞し始める。
→津軽という地域と自身の性質を重ね合わせる当たり、どう読んでも、太宰は故郷を愛しすぎている。深浦や鯵ヶ沢は津軽特有の「要領の悪さ」を持たないらしい。大人とは裏切られた青年の姿である、というp41の記載も踏まえると、自分自身の青い性質を恨みつつ、愛しつつ、津軽の人の性質なのだと地元を巻き込んで、恐る恐るこの辺りの記述をしている姿が思い浮かんで面白い。
・p206 小泊の国民学校の運動会会場で育ての親・たけと再会する。最初、たけは何も言わずに隣で演目を見ている。それからふと立ち上がって二人で八重桜を見に行く。そして、堰を切ったように矢継ぎ早に質問を発する。太宰は自分が兄弟の誰とも似ていないと思っていた。私はたけに似ているのだ。
→ 書くまでもないけれど、やっぱりこの場面は胸が熱くなる。ここまで津軽地方をうろうろと旅して地域を見ながら自らの生き様を探して回っていたように見える太宰治が、最後に自分の本質に辿り着く。太宰治、たけに出会えて、自分のルーツと再び巡り会えて、安心しただろうなぁ。