坂口安吾のレビュー一覧
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小林秀雄を痛烈に批判した「教祖の文学」に賛同したので、坂口安吾自身の本を手に取ったが、これまたまっすぐで、解説にあるように「自由な風」が通っている文章だった。
本作に収録されているのは以下:
・堕落論
・続堕落論
・日本文化私観
・恋愛論
・不良少年とキリスト
・FARCEについて
・文学のふるさと
・風博士
・桜の森の満開の下
読んでいて、特に評論に関しては、なんて素直な人なのだろうと驚嘆していた。ここまで実直な心を文章に落としているところに、私も素直に好感を持った。以下いくつかの感想
「堕落論」
・私自身も、数年前に私と極めて親しかった姪の一人が二十一の年に自殺したとき、美しいうちに死んでくれて良かったような気がした。一見清楚な娘であったが、壊れそうな危なさがあり真逆様に地獄へ堕ちる不安を感じさせるところがあって、その一生を正視するに堪えないような気がしていたからであった。
直前にショウペンハウエルの『自殺について』を読み、自殺した人々を思い出すとき、「呼び覚まされてくるものは哀愁と同情とである(p.74)」という文章に同意した私は、この安吾の「美しいうちに死んでくれて良かったような気がした」という文章に、自分でも認識していなかった、そのように思っていた自分を白日の下にさらされたのであって、その衝撃といったらない。そして一見そのように言うのは"不謹慎である"といった自分の枠組みを取っ払い、正直に述べている安吾に心服したのだ。積極的に死んでほしいと思っていたのではもちろんないし、生きていて欲しいという気持ちの方が99.9%である。ただその美しさが若さと共に永遠に残ることに、羨望も込めながらの「美しいうちに…」が0.1%お前の中に存在しているだろう、それを否定できるのか?と突き付けられたのだ。。
・私は天皇制に就ても、極めて日本的な(従って或いは独創的な)政治的作品を見るのである。天皇制は天皇によって生みだされたものではない。…すくなくとも日本の政治家達(貴族や武士)は自己の永遠の隆盛(それは永遠ではなかったが、彼等は永遠を夢みたであろう)を約束する手段として絶対君主の必要を嗅ぎつけていた。平安時代の藤原氏は天皇の擁立を自分勝手にやりながら、自分が天皇の下位であるのを疑りもしなかったし、迷惑にも思っていなかった。天皇の存在によって御家騒動の処理をやり、弟は兄をやりこめ、兄は父をやっつける。彼等は本能的な実質主義者であり、自分の一生が愉しければ良かったし、そのくせ朝儀を盛大にして天皇を拝賀する奇妙な形式が大好きで、満足していた。天皇を拝むことが、自分自身の威厳を示し、又、自ら威厳を感じる手段でもあったのである。
本当に読んでいて痛快笑
・戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。
「続堕落論」
・嘘をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ!我等国民は戦争をやめたくて仕方がなかったのではないか。竹槍をしごいて戦車に立ちむかい、土人形の如くにバタバタ死ぬのが厭でたまらなかったのではないか。戦争の終ることを最も切に欲していた。そのくせ、それが言えないのだ。そして大義名分と云い、又、天皇の命令という。忍びがたきを忍ぶという。何というカラクリだろう。惨めとも又なさけない歴史的大欺瞞ではないか。しかも我等はその欺瞞を知らぬ。天皇の停戦命令がなければ、実際戦車に体当りをし、厭々ながら勇壮に土人形となってバタバタ死んだのだ。最も天皇を冒涜する軍人が天皇を崇拝するが如くに、我々国民はさのみ天皇を崇拝しないが、天皇を利用することには狎なれており、その自らの狡猾さ、大義名分というずるい看板をさとらずに、天皇の尊厳の御利益を謳歌している。何たるカラクリ、又、狡猾さであろうか。我々はこの歴史的カラクリに憑つかれ、そして、人間の、人性の、正しい姿を失ったのである。
坂口安吾が今の時代に生きていても、きっと同じことを言ったのだろう。
・人間の、又人性の正しい姿とは何ぞや。欲するところを素直に欲し、厭な物を厭だと言う、要はただそれだけのことだ。好きなものを好きだという、好きな女を好きだという、大義名分だの、不義は御法度だの、義理人情というニセの着物をぬぎさり、赤裸々な心になろう、この赤裸々な姿を突きとめ見つめることが先ず人間の復活の第一の条件だ。そこから自分と、そして人性の、真実の誕生と、その発足が始められる。
刻みたい、この言葉
・人間の一生ははかないものだが、又、然し、人間というものはベラボーなオプチミストでトンチンカンなわけの分らぬオッチョコチョイの存在で…
・生々流転、無限なる人間の永遠の未来に対して、我々の一生などは露の命であるにすぎず、その我々が絶対不変の制度だの永遠の幸福を云々し未来に対して約束するなどチョコザイ千万なナンセンスにすぎない…
いやまじもう爆笑してた笑
「不良少年とキリスト」
タイトルから想像していた内容とは違い、太宰治へのラブレターとでもいうべき内容。最後の安吾の決意が、一人の人間としてなんと勇気をもらえる言葉なのだろう。
・然し、生きていると、疲れるね。かく言う私も、時に、無に帰そうと思う時が、あるですよ。戦いぬく、言うは易く、疲れるね。然し、度胸は、きめている。是が非でも、生きる時間を、生きぬくよ。そして、戦うよ。決して、負けぬ。負けぬとは、戦う、ということです。それ以外に、勝負など、ありやせぬ。戦っていれば、負けないのです。決して、勝てないのです。人間は、決して、勝ちません。たゞ、負けないのだ。
・勝とうなんて、思っちゃ、いけない。勝てる筈が、ないじゃないか。誰に、何者に、勝つつもりなんだ。
・原子バクダンを発見するのは、学問じゃないのです。子供の遊びです。これをコントロールし、適度に利用し、戦争などせず、平和な秩序を考え、そういう限度を発見するのが、学問なんです。
・自殺は、学問じゃないよ。子供の遊びです。はじめから、まず、限度を知っていることが、必要なのだ。…学問は、限度の発見だ。私は、そのために戦う。
「文学のふるさと」
・それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身は、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。私は文学のふるさと、或いは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる――私は、そうも思います。
「桜の森の満開の下」美しい、幻想的な物語。「文学のふるさと」で説明されている、孤独はいつも荒野を迷うだけで、救いがない。救いがないこと自体が救いであるという文章を体現したかのような作品だった。
・彼は女の顔の上の花びらをとってやろうとしました。彼の手が女の顔にとどこうとした時に、何か変ったことが起ったように思われました。すると、彼の手の下には降りつもった花びらばかりで、女の姿は掻き消えてただ幾つかの花びらになっていました。そして、その花びらを掻き分けようとした彼の手も彼の身体も延した時にはもはや消えていました。あとに花びらと、冷めたい虚空がはりつめているばかりでした。 -
Posted by ブクログ
「坂口安吾」のエッセイ『堕落論』を読みました。
古本屋でペラペラとページを捲っていて『天皇小論』や『特攻隊に捧ぐ』、『戦争論』、『ヨーロッパ的性格、ニッポン的性格』等が気になり、読んでみる気になりました。
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単に、人生を描くためなら、地球に表紙をかぶせるのが一番正しい―誰もが無頼派と呼んで怪しまぬ「坂口安吾」は、誰よりも冷徹に時代をねめつけ、誰よりも自由に歴史を嗤い、そして誰よりも言葉について文学について疑い続けた作家だった。
どうしても書かねばならぬことを、ただその必要にのみ応じて書きつくすという強靱な意志の軌跡を、新たな視点と詳細な年譜によって辿る決定版評論集。
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昭和2年から昭和29年にかけて発表された以下の17の作品が収録されています。
■今後の寺院生活に関する私考
■FARCEに就て
■文学のふるさと
■日本文化私観
■芸道地に墜つ
■堕落論
■天皇小論
■続堕落論
■特攻隊に捧ぐ
■教祖の文学
■太宰治情死考
■戦争論
■ヨーロッパ的性格、ニッポン的性格
■飛騨・高山の抹殺
■歴史探偵方法論
■道鏡童子
■安吾下田外史
買うときに興味があった『天皇小論』、『特攻隊に捧ぐ』、『戦争論』、『ヨーロッパ的性格、ニッポン的性格』も、それなりに愉しめたし、『戦争論』の原爆投下以前の戦争については被害よりも利益が大きく、効能が偉大であったという主張も、戦争の側面としては正しいと思うので共感できる部分がありました。
でも、それを文章にして、戦後間もない頃(『戦争論』が発表されたのは昭和23年10月)に発表したというのは凄いなぁ… と感じました。
反発も大きかったでしょうね。
意外と面白かったのが、『飛騨・高山の抹殺』、『歴史探偵方法論』、『道鏡童子』等の日本の歴史に関する考察… これまで常識として考えられてきた、古代史家が過去の記紀を信じて構築してきた日本の古代史を覆すような主張は、とても愉しく読めました。
具体的には、
■『魏志倭人伝』のように、たまたま日本の地を踏んだ外国人が正確であり得ないのは当然。
■飛騨に関して古代史に全く記述がないのは不自然、飛騨の史実を巧妙に隠そうとしたのでは。
等々、読んでいると「坂口安吾」の主張の方が正しい気がしてきましたねぇ。
そして、歴史家は探偵であるべきとの主張も、尤もだと思います。
キチンとした証拠を積み重ねて、当時のことを推定し、理論的に説明する… まさに探偵の仕事ですよね。
もう少し古代史についての知識があれば、もっと愉しめたと思います。
そこがちょっと残念でしたね。 -
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ネタバレ思っていたよりアツい人でした。
安吾作品で最初に触れたのは桜の森の満開の下で、ちょっと怖くて儚い小説に思ったので、もっとセンサイな人かと。文学に対する姿勢が本気で真摯で、生き生きとしている。
当時の人にしては働き方に対する意識がだいぶ令和寄りなところがスゴい。使えるものは使って、労働時間削減しろとか。
「罰当たりが血を吐きながら作る作品」に、生きている人間の文学の凄みを熱弁している。もがきながら生み出すモノが愛しいのかなと思う。(教祖の文学)
歯が痛いという生活の中から、太宰の急逝に触れていて、悲しみがじわじわと伝わってきた。死ぬのはいつでも出来る、いつでも出来るんだからそんな事はするな、生きていくのは辛いけど、それでも生きていかなくては、と繰り返している。メディアがした「実は太宰は生きていて安吾が匿っている」というカンチガイに、そうであれば良いのに、と書くのが悲しい。(不良少年とキリスト) -
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古今東西、多くの文豪たちがミステリ仕立ての小説を書いている。物語の多くが何らかの謎をはらんだものであるからそれは当然のことであり、また当人たちもミステリを書いたつもりは毛頭ないだろう。
しかし、中にはミステリを愛し、正面から四つに取り組んだ文豪もいる。その代表的な作家といえば、福永武彦(加田怜太郎)と坂口安吾だろう。
「不連続殺人事件」は、日本ミステリのアンソロジーが組まれる際には、十中八九、収載される名作である。複雑怪奇な人間関係、やたらと多い登場人物(しかもそれぞれにあだ名がある)にたじろぐが、最後まで読み通せば、ミステリにかけた安吾の思いを感じることができるだろう。すなわち、ミステリは論理的で、かつ読者が答えを導き出せる知的ゲームということである。トリックのためのミステリは否定されるし、トリックが論理的であったとしても心理描写が矛盾していれば、それもまた否定される。かくて、安吾は幕間に挑発的な「読者への挑戦状」を挟むのだ。
私が初めて「不連続殺人事件」を読んだのは大学生のころ、その時も犯人はわからなかったが、今回もまるで分からなかった(要するに忘れていた)。学生時代にはあまり感じなかったが、再読して、かなり露骨な女性蔑視、差別表現があることに驚いた。時代の流れを感じる。
この新潮文庫版は創元推理文庫版を底本としており、その編集にあたった東京創元社の名編集者・戸川安宣さんと北村薫さんの対談も収められている。それだけでも手にする価値はある。 -
Posted by ブクログ
『堕落論』『続堕落論』を含む9つのエッセイや小説からなる本。
坂口安吾を読んだのは初めてだが、著者についての感想は「戦前・戦中・戦後を生きたビート(北野)武」。
皮肉・批判・ユーモア・耽美など、作品ごとに異なる多彩な才能を感じた。
本への掲載順は時系列ではないので、以下では時系列で記載する。
1.風博士
1931年、25歳で発表した短編小説(?)。ミステリ調でありつつ、ユーモラスな文体。
2.FARSEについて
1932年発表。文学や芸術の在り方を論じたエッセイ。
3.文学のふるさと
1941年に発表したエッセイ。
4.日本文化私観
1942年発表。「高尚な文化」のみを文化と捉えず日本文化を語ったエッセイ。
5・6.堕落論、続堕落論
1946年発表。
ここでの「堕落」とは「欲しがりません勝つまでは」的な「戦時中の異常な精神状態」から「人間としての当たり前」へと戻ることを指す。
現代では一般的な戦争への考え方を、敗戦直後のGHQ占領下で既に喝破していることに驚かされる。
『続堕落論』では筆のノリがよく「作家としての語り」よりも本音が強く出ている。
7.恋愛論
1947年発表。本来は日本になかった「愛」という言葉について「好き」「大切」といった日本語などと比較しながら考察するエッセイ。
8.桜の森の満開の下
1947年発表。耽美的な短編小説。山に生きる山賊と都会の娘の物語。
9.不良少年とキリスト
1948年に発表。自殺した太宰治へのメッセージ。 -
Posted by ブクログ
ネタバレエッセイが読みたくなったので。終戦後、立ち直ろうとしている日本の気運に乗った作品だからか、「既成概念に反抗していくぞ!」感を強く感じた。確かに何にでも歯向かいたい当時の若者にはウケるだろうなぁという感じ。
各エッセイで表現が重複するところが多いように感じたが、筆者の意見が一貫しているところに好感を持てた。
有名なだけあって「青春論」と「堕落論」、「恋愛論」が面白かった
『私たちの小説が、ギリシャの昔から性懲りもなく恋愛を堂々めぐりしているのも、個性が個性自身の解決をする以外に手がないからで、何か、万人に適した規則が有って恋愛を割り切ることができるなら、小説などは書く要もなく、また、小説の存する意味もないのである。』(「恋愛論」より)
たしかに。