坂口安吾のレビュー一覧
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ネタバレずっと読みたいと思いつつ、読めていなかった作品。
登場人物が多い上に色恋沙汰が複雑ではじめはかなり読みにくさを感じた
(巻頭の登場人物表は、情報が薄すぎてほとんど役に立たない・・・)が、
各キャラクターの特徴が分かってくると、面白く読めるようになってきた。
本格推理物として普通に楽しめるが、やはり「読者への挑戦状」の部分が”推し”。
個人的に、坂口安吾の不遜・傲慢な物言いがたまらなく好き(笑
同時代に生きて、謎にチャレンジしてみたかったな。
99.999%解けなかったと思うけれど。
こういった試みの推理小説を、また誰かが書いてくれないかなぁ、と期待。 -
Posted by ブクログ
乙女の本棚シリーズから、坂口安吾さんとしきみさんのコラボ作品「桜の森の満開の下」です。前に読んだ「夜長姫と耳男」が怖いお話だったので、また怖いお話かも…ドキドキしながら手にしました。
鈴鹿峠に住みついた山賊の男は、桜の満開の時期になると胸騒ぎを覚え落ち着きをなくす性分であった…。ある日、いつものように金品を強奪しようと狙ったのは夫婦だったが、妻が美しすぎたこともあり夫を殺して妻を浚い男との8番目の女房としたのだが…この妻がわがままで男を意のままに操り、残虐で冷徹な一面を持つ狂気に満ちた女だった…。6人の女房を男に殺害させ1人は自分の侍女(女房の中でも一番容姿の劣るもの)とし、山での生活に嫌気がさすと都に出ることを強要する…。都に出た妻は、男に次々に生首を所望し、あろうことかその生首でおままごとをはじめるのだった…。男はそんな生活にあき、山に戻ることを決意…妻にそのことを伝えると、妻も男のいない生活は考えられないと…男はそんな妻と一緒に都を離れ、妻とともに桜の森の満開の下にたどり着く…。そこから、驚きのラストに…。
妻の生首遊びの描写が怖すぎです…。桜はきれいだけれど、そのはかなさと美しさから魔性を秘めている…ラストは、なんとも言えないきれいな余韻を感じました。しきみさんのイラストもこの作品の良さを引き立てています。 -
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ネタバレ乙女の本棚シリーズから、坂口安吾さんと夜汽車さんのコラボ作品「夜長姫と耳男」です。少女マンガのように可愛くて鮮やかな着物を纏う姫が印象的なんだけど、よく見ると骸骨とか蛇も描けれているし(;・∀・)
師匠からの推薦を受けヒダから夜長姫のもとを訪れた耳男…。依頼された仏像の制作には3年間を要し、夜長姫の無邪気な笑顔の裏にある残虐性に対抗すべく、耳男は蛇の生き血を飲み残りは制作した仏像に浴びさせ、亡骸を天井から吊るす…狂気じみた期間を過ごす。その後も、夜長姫の仏像制作の依頼を受けこの地に逗留していたが、村に疫病が流行り村人が次々と命を落とす…。その様子を高楼から見ては楽しむ夜長姫…耳男は夜長姫の狂気を目の当たりにし、夜長姫を刺す…。夜長姫は最期に「好きなものは呪うか殺すか、争うかしなければならないのよ…」と言い残す…。
怖い怖いお話でした!なんとも表紙からはここまでは想像もできてませんでした…。ある意味、怪談?オカルト??でも、文字だけの原作なら読み切れなかったかな…とても、きれいなイラストなんです。夜長姫の纏う着物の鮮やかさ、でも妖しさを秘めてる…。逆に最後のイラストは真っ白な装いなのが印象的…狂気から解放されての清々しさを感じさせてくれました。 -
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この季節にぴったりな一冊。
私はとにかく昔から桜が大好きで、高校生のときの図書委員会便りでも「桜の小説」特集を組み、この作品を紹介していた覚えがある。
桜の美しさはほんとうに不可解といっても過言ではなく、このような恐ろしい逸話の上に咲いているのだと言われたらつい納得してしまいそう。
見目麗しければ人妻でも平気で連れ去る野蛮な山賊が此度捕らえてきたのは、わがままで、生首をおままごとに使って遊ぶような狂った女。
暴君な彼女に振り回され都会に引っ越したものの、ますます疲弊するばかりの男は取り憑かれるように桜の森の満開の下を訪れるが……。
ラストの描写の美しさは圧巻。散り積もった桜の花びらを目にしたら、つい思い出してしまいそうです。 -
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犬も猫も好きだけどちょっとだけ犬に軍配が上がるかつて犬と暮らしていた私ですので、どのエッセイも愉しく、胸に沁みました。
好きな作家さんも多く、以前に読んだことがある文にまた出会えて嬉しい。
このシリーズは他にも猫、珈琲、酒、おやつ…とまだまだあるようなので少しずつ読みたいな。
以下好きなエッセイ覚え書き。(一部です)
犬の生まれ変わりに違いないと熱烈に思っている押井守氏、ノラの犬猫を見かけたら放ってはおけない愛情深い米原万里氏、手塚治虫氏による犬が人間のそばにいる理由を描いた漫画、坂口安吾氏がわがまま檀一雄氏のために秋田犬を無心するお手紙、椎名誠氏の犬の系譜と怒りと悲しみの別れ、深沢七郎氏と中上健次氏による対談、辻まこと氏のタヌキとイヌの合いの子イヌキ?の話、種田山頭火のどうしようもない日記、クラフトエヴィング商會による可愛い垂れ耳の犬のイラスト!梨木香歩氏が愛犬と一緒にボルゾイ2匹と闘う話、鴨居洋子と鼻吉一号、二号、寺山修司氏とジル、川端康成氏のちょっと時代錯誤なでも面白い愛犬家心得。 -
Posted by ブクログ
坂口安吾(1906-1955)の代表的な評論を収録したもの。安吾は「生きる」ということに対して常に誠実であろうとした、という強い印象を受ける。「生きる」ことの根底にある人間の絶対的な孤独や哀しみから眼を逸らそうとする欺瞞的態度に徹底的に抗おうとする、安吾の精力の甚だしさを感じさせる。
□ 無意味
意味には、それを意味として成立させるために、ある特定の方向、傾斜、偏り、限定、則ち文脈が、前提されている。そこには、身体によって条件づけられた存在である人間の下部構造が、反映されているのだろう。この文脈によって、ある特定の目的や効用が方向づけられる。この目的や効用によって、一切は評価され位階化される。金、性、虚栄、道徳といった指標は、こうして意味化された空間における座標の役割を果たす。
無意味とは、こうした一切の文脈、目的、効用、評価、位階化から解放された状態ではないかと思う。つまり、無意味とは一切の肯定のこと。と同時に、無意味は、意味の陰画として実体化=意味化され得ない、意味以前として位相化することもできない、外部にあるとも内部にあるともいえない、そういった如何とも規定し得ない境位であろう。
人間には、ある特定の意味秩序を人間よりも上位においてそれを特権化、普遍化してしまっては決して捕捉しきれない、そういう一切の意味秩序から切断されてもなお残る過剰さがある。安吾のいう「文学のふるさと」というのは、それを指しているのではないかと思う。
「私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、然し、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか」(p92「文学のふるさと」)。
「この三つの物語が私達に伝えてくれる宝石の冷めたさのようなものは、なにか、絶対の孤独――生存それ自体が孕んでいる絶対の孤独、そのようなものではないでしょうか」(p99同上)。
ここで安吾が言う「ふるさと」とは、逆説的に「ふるさとの不在」のことではないかと思う。家に帰るときほど、自分という存在の所在なさを痛切に思い知らされることはない。通常ならば、家は最も安心できる場所、自分が自分自身に戻れる場所であるかのように思われがちだが、その家こそ自分にとって余所余所しく場違いなところであると知ってしまったら、家だと思っていたところが実は家ではないと気づいてしまったら。孤独であるということ、帰るべき場所などないということ、世界のどこにも根を下ろせないということ、それは人間が決して逃れることのできない存在論的な前提条件であろう。
「「帰る」ということは、不思議な魔物だ。「帰ら」なければ、悔いも悲しみもないのである。「帰る」以上、女房も子供も、母もなくとも、どうしても、悔いと悲しさから逃げることが出来ないのだ。帰るということの中には、必ず、ふりかえる魔物がいる」(p130「日本文化私観」)。
□ 小林秀雄批判
無意味を、一切の接続から解放された単独者として現実の煩わしい意味からの逃走として夢想する私にとって、安吾による小林秀雄批判は耳に痛い。自分が好む文学や芸術も、古典をはじめその作者が既に死んでいる作品がほとんどだ。
「生きている人間なんて仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言いだすのやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ、他人事にせよ、解った例しがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。其処に行くと死んでしまった人間というものは大したものだ。何故ああはっきりとしっかりとしてくるんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」(p342「教祖の文学」)。
と「無常といふこと」で書く小林に対して、安吾は次のように書く。
「生きている人間というものは、(実は死んだ人間でも、だから、つまり)人間というものは、自分でも何をしでかすかわからない、自分とは何物だか、それもてんで知りやしない、人間はせつないものだ、然し、ともかく生きようとする、何とか手探りででも何かましな物を探し縋りついて生きようという、せっぱつまれば全く何をやらかすか、自分ながらたよりない。疑りもする、信じもする、信じようとし思いこもうとし、体当り、遁走、まったく悪戦苦闘である。こんなにして、なぜ生きるんだ。文学とか哲学とか宗教とか、諸々の思想というものがそこから生れて育ってきたのだ。それはすべて生きるためのものなのだ。生きることにはあらゆる矛盾があり、不可欠、不可解、てんで先が知れないからの悪戦苦闘の武器だかオモチャだか、ともかくそこでフリ廻さずにいられなくなった棒キレみたいなものの一つが文学だ」(p345ー346同上)。
安吾は人間の背後に虚無をはっきり自覚しながらそれでもなお現実のほうを向き、私は現実に背を向けるために虚無に隠棲しているだけなのか。
□ 天皇制という欺瞞
天皇制および天皇制を一貫して保持し続けてしまっている日本の歴史の欺瞞的な実相が、実も蓋もなく描き出されている。
「[略]、天皇制自体は、真理ではなく、また、自然でもないが、そこに至る歴史的な発見や洞察に於いて軽々しく否定しがたい深刻な意味を含んでおり、[略]」(p222「堕落論」)。
「天皇制というものは日本歴史を貫く一つの制度ではあったけれども、天皇の尊厳というものは常に利用者の道具にすぎず、真に実在したためしはなかった。/藤原氏や将軍家にとって何がために天皇制が必要であったか。何が故に彼等自身が最高の主権を握らなかったか。それは彼等が自ら主権を握るよりも、天皇制が都合がよかったからで、彼らは自分自身が天下に号令するよりも、天皇に号令させ、自分がまっさきにその号令に服従してみせることによって号令が更によく行きわたることを心得ていた。その天皇の号令とは天皇自身の意志ではなく、実は彼等の号令であり、彼等は自分の欲するところを天皇の名に於て行い、自分がまっさきにその号令に服してみせる、自分が天皇に服す範を人民に押しつけることによって、自分の号令を押しつけるのである」(p235「堕落論〔続堕落論〕」)。 -
Posted by ブクログ
文庫は、ナンセンス文学である「風博士」から始まる。
どこかドグラ・マグラ的な匂いを感じなくもない。
幾度も同じ単語を並べ立て、強調に強調を重ねた「僕」の語り口に、だから何なの?と言いたくなる。
演説のような「僕」の熱弁ぶりと反比例して、読者は段々とバカバカしい思いに捕らわれていく。
それでも何か意味があるに違いないと私達はページを繰る。
しかし坂口安吾は、深読みしたがる読者を煙に巻くのだ。
さて、読みたかった「桜の森の満開の下」。
昔話のような語り方で、美しい桜の木のもと、人の業が描かれていた。
青空のもと見上げる満開の桜は春の喜びを感じるのに、
ハラハラと散る桜は儚げで美しいのに、
月明かりに照されて闇夜に滲む桜は、何故妖しさを纏うのだろう。
美しく小さきものは可愛らしいのに、何故満開の大木は恐ろしいのだろう。
あの花の下でゴウゴウという風の音を聞いた時、花びらが散るように魂が衰えてゆくと感じた時から、山賊は自分の中の「恐怖」を実感する。
美しくも残忍な、あの女は何者だったのか。
山賊は女との出会いを切っ掛けに、女が着飾る「美」を知ってゆく。
人其々の「価値観」も知っていったのかもしれない。
そうして山賊は、「知」が増すことで逆に「知らない」ことへの羞恥と不安も湧いてくる。
物語は、美しすぎるものには恐怖すら感じてしまうという人間の不思議な感覚を、
桜の妖艶な美しさを効果的に使いながら展開していた。
「知」を得たからこその「未知への恐怖」
物では満たされぬ「欲求」
それ故に「狂気」にも陥りかねない「際限のない欲求」と「退屈」
それらに飲み込まれ自分を見失ってしまった者に訪れる「孤独」と「空虚」
失って気付く「悲しみ」
山賊は、もはや自分自身が「孤独そのもの」であることを知り、自分の胸に生まれた「悲しみにさえ温かさを感じる」のだ。
そして消えてゆく。
全ては桜の花が魅せた幻影だったのか。
それは桜の花だけが預かり知るところ。
残るはハラハラと散る桜と、冷たい空虚のみだ。
しかし読者は、その恐ろしいラストシーンにさえ美しさを感じてしまう。
何度も読み返したい、坂口安吾の傑作だ。
他に収められている物語も「女性」を絡めつつ「欲求」や「エゴ」を描いている。
表現方法は実に巧みで、読み返すほどに味わいの増す1冊。