あらすじ
なぜ、それが"物語・歴史"だったのだろうか――。おのれの胸にある磊塊を、全き孤独の奥底で果然と破砕し、みずからがみずから火をおこし、みずからの光を掲げる。人生的・文学的苦闘の中から、凛然として屹立する"大いなる野性"坂口安吾の"物語・歴史小説世界"。
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Posted by ブクログ
坂口安吾を一冊通して読むのは初めて。十月桜が咲いている今日この頃、有名な表題作が気になっていたところ、たまたま書店で面だしされていたので読んでみようかなと。
驚いたのが、著者は歴史小説を書いていたんですね。知らなかったです。
『二流の人』では、大河ドラマの黒田官兵衛のシーンが脳裏に浮かびましたが、小西行長に関しては、日本の会社の駄目な部分の走りを感じました。話しは時間軸が前後しながらも、内容が破綻せずに無理なく読み進められます。『梟雄(きょうゆう)』は、斎藤道三の一代記が書かれており、最後の描写には男気を感じますね。
さて、表題作ですが、女性の残酷な行動が、なんともまあ…。ともあれ、不器用で一途な山賊の心境が、その女性との出会い以後に変化して行く様が読みどころかな。例えば、女性の装身具から物の中にも命を見い出したり、都に出て世の中の世知辛さを知り、そして山へと戻る途中の馴れ初めの会話から、お互いが人間らしさを取り戻した後で印象的な終局を迎えます。このラストの描かれ方が、男と女で違うところが良かった。もし、ここの描かれ方が男女一緒であったなら、ただ残酷なだけの小説に終わってしまったでしょうね。
あと『夜長姫と耳男』も強烈な印象を残すストーリー。途中、村人が次々に亡くなるのを姫が見て言う一言は、地獄少女のセリフ「いっぺん、◯んでみる?」に並ぶ強烈な一言!まるで、姫の恍惚とした表情が目に浮かぶようです。そして、ラストの姫のセリフは「喧嘩するほど仲がいい」に通じることを、一線を越えてしまう選択をしてしまうところが、この小説がこうなるべくしてこうなったのだなと、妙に納得がゆくのでした。
他にも『閑山』や『紫大納言』のような寓意に長けた短篇や、逆道場破りの歴史・剣豪小説『花咲ける石』など、収録されている13篇は貴重な読書体験になりました。
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昭和から平成になる頃は坂口安吾ばかり読んでました。今ではもう、開いて読むことはないけれど、この表紙を見るとあの頃の想いを、心の形として明確に思い浮かべることができます。
この本に若い頃に出逢えて本当に良かったと思います。
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深い群青色の闇夜に淡くぼうっと浮かぶ桜の花。
春夜の冷気が頬を撫でる。一瞬で散っていく花びらに、孤独さと空虚さと。風が生暖かく変わり季節が移ろいでいく様子に、かすかな期待と終わりが無いという絶望を感じる。
眼前に広がる圧倒的な虚無。この空虚な世界を生きていかなければならないという救いようの無い恐怖。そんな孤独の中に存在する美。孤独とは美そのものなのだ。
たぶんそんな感じのお話。
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[桜の森…]桜は本来は畏怖の対象だったというグッとくる書き出し。美しさの中にグロテスクが内包された幻想的な怪奇小説。亭主を殺された美女は、殺した山賊を尻に敷き山賊の女を殺させる。都へ移り山に戻り桜の森で鬼となり桜となる。なんとも身勝手な女と欲のままに生きた山賊。なのにどうして儚い物語になるのか。ただ或る桜の森に対して得体の知れない恐怖と耽美を感じる不朽の名作。
[夜長姫…]「好きな物は呪うか殺すか争うかしなければならないのよ。… いま私を殺したように立派な仕事をして・・・」この一文が全て。恐ろしい小説。
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この世でいちばん好きな本です。
(今のところ…)
満開の桜や、花吹雪の中女を背負って歩いていく男が目に浮かんできます。
桜の頃になると読みたくなって、読み終えるとなんとなく寂しくなって、しばらくボーっとしてしまいます。
Posted by ブクログ
満開の桜を見ると、何故かいつも胸がざわつきます。
音もなく静かに散り、静かに地面を埋めてゆく優しい淡いピンク色には「綺麗」なだけではない、正体不明の怖さがあります。
不安定な気持ちになるのに惹かれてしまう。そんな魅力を桜に感じるのは、この本に書かれている出来事が、かつて本当にあったからではないだろうか、と思ってしまいます。
美しく、怖い、なのに目をそらすことが出来ない。そんなお話です。
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『櫻子さんの足下には死体が埋まっている』という近頃流行りのタイトルを見て、梶井基次郎の『桜の樹の下には』と、この『桜の森の満開の下』がベースになっているのではないかと思い読んでみた。とてもよかった。安吾も『堕落論』だけじゃないんだな。満開の桜の木の下では皆おかしくなってしまう、というか、花も盛りの一瞬には生命を燃やし狂ったようになるというような、生き物のSaGaを感じた。『櫻子さんの…』は多分読まない。このタイトルを書いてみたかっただけだろうから。
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坂口安吾が好きすぎて、冷静に判断できないのだけど
この短編集はとにかくすべてが美しい。
安吾らしい冷徹さと温かみの混在した、
謎めいた、それでいてとことんリアルな世界観。
表題作はとにかく一読の価値ありです。
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安吾は怪談から恋愛もの、人間ドラマにドタバタとオール・ジャンルの作品を書いた器用な作家。太宰や漱石の作品に出てくる悩んで自殺するような弱々しい人物ではなく、血の通った逞しく生きる人間を描いている。それにしても、表題作のグロさは桁違いの凄さ。
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桜の花の満開はあまりに美しい。そして、あまりに美しいものには、不気味がある。ふとした瞬間に冷静では居られなくなりそうな何かが。
「花の下は涯がないからだよ」
何度も読み返す、大好きな作品。
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表題作目当て。表題作が本当に素晴らしかった。溜め息が出るくらい素晴らしい。この小説の良さをうまく伝えられない自分がもどかしい。紫大納言と夜長姫と耳男も良かった。寓話が好きみたい。歴史小説は苦手なので読むのが辛かったけど…。岩波文庫の方も読んでみようかな。2011/410
Posted by ブクログ
>桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分りません。あるいは「孤独」というものであったかも知れません。
桜の下に人の姿がなければ、桜は怖しい。なぜなら あの下を通る時、果てしない孤独を感じるから。
そういえば、「花見」文化の始まりは、豊作祈願の神事ですよね。桜の木に、神様が降りてくるからだとされています。桜の木の下の怖しさに、一種の神々しさみたいなものを感じて、神事を始めたのでしょうか。それとも、神様がいるから神々しくて怖しい?
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桜の森の満開の下
妖術的な魅力をもつ女性に取り憑かれてしまった山賊の話。文体が綺麗な上に内容が狂気じみていて凄い。大人になってから桜を好きになるのは、儚い死を桜を通して感じることで生きることを噛み締めているからだと思ったりした。
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欲望を満たすため、居場所を探すため生きていく。怖いものは避けて通るが、好奇心には勝てず踏み込んでしまう。そこで待っているものは何か。
歴史を振り返って見た時、世の中というものは、大きな意思で動いているのではないかと思わせられます。
今、がどんな意思で動いているのか、考えさせられました。
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花といえば奈良時代は梅だが、平安以降は桜がクローズアップされる。「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」在原業平は不安に駆られるほどの桜の美しさと恋心を重ねて、あんなもんなければのどかな心でいられるのに、と詠んだ。桜は狂気を呼び込む。坂口安吾の「桜の森の満開の下」は美しく残酷な女に翻弄される山賊の話だ。金品同様攫った女を自分のものにするしかない山賊の暮らし。山賊が魅せられた女は人間の生首を集めて並べたがる。満開の時に通ると気が狂うと言われる桜の森で、男は鬼女になったその女を斬り殺す。すると女は花びらと共に風に飛ばされ消えて行ったという狂気と幻想の話だ。花吹雪の中、立ち尽くす男に残されたのは永遠の孤独と狂いそうなまでの虚無。
子供の頃はお彼岸の墓参りついでに墓地で親戚と一緒にお花見したものだ。墓地には必ず桜が咲いている。柳田國男がどこかで書いていたが、桜は人が大勢亡くなった跡に植えられるもので、地名に桜がつく土地は元々死体捨て場だった、と。さくら染は地中にある死体の血を吸い上げてほんのりピンクに染まるという話もある。梶井基次郎は「桜の樹の下には死体が埋まっている」と書いた。そう考えないと不安になると言った。かつての日本人にとってこの感覚は自然だったのだと思う。きれいな薔薇に棘があるように、きれいな桜は死と狂気を招く。死の国と繋がり美しく舞い散る花びらに狂気を感じる。
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読書会きっかけで読んでいたものの、読書会過ぎて漸く読み終わりました。
面白かったです。
時代物・歴史物のお話たちでした。
課題本だった表題作が好きです。
狂い咲く桜と、血を求める女とそれを叶える男…狂気的ですが幻想的です。「彼自らが孤独自体でありました」全て桜の花弁になるラストシーンの凄絶な美しさも素敵でした。
「夜長姫と耳男」も好きです。「好きなものは呪うか殺すか争うかしなければならないのよ」
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映画を1本見終えた時の様に柔らかく余韻が身体を暖めてくれます、一文字一文字がビジュアライズされ、読み終えた時に何故だか「目が覚めた!」と感じた。
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安吾の言葉から、血の力がプツプツと泡立ちながら吹きだしている。凄まじい叙情性の記録映画の中に、入り込んでしまったような錯覚。
表題作「桜の森の満開の下」に至っては、活字が次第に文字言語でさえなくなってしまうような耽美性、危険な力が充満していた。眠る前に読んだ時、桜の舞い散る嵐の中で死を夢想しながら佇んでいる、現実と夢との境界が崩壊したような生々しい夢を見た。
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一本の桜がひらひらと花びらを舞い散らせる光景は綺麗だ。
しかし数え切れないほどの桜の森で花びらが降り注ぐ光景というのは、音の無い、しんとした寒々しい世界を想像してしまう。
この話が何の寓意なのかはわからない。寂しさとか、そういうものなのかもしれない。
美しいけどもじっとその場でうずくまっていると、狂ってしまうような場所が、「桜の森の満開の下」だった。
表題作含め13作が収録されている。
持統~孝謙・称徳までの女帝時代の歴史小説、「道教」がおもしろかった。
悪人かと思ってたけどちょっと道教好きになった。孝謙・称徳女帝も好きだ。可愛い人だったんだな。
「梟雄」も好きだ。斎藤道三かっこいい!ってなる。
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恐ろしさと美しさが交錯していて、情景がありありと浮かんで、頭の中で花びらが舞っているような気がした。
何に対してもだけれど、人間が想像力故に未知の物に対して恐怖を覚える事は、いつの時代も変わらず傲慢であると思う。
Posted by ブクログ
ゼミで扱われる関係で表題作「桜の森の満開の下」を読んだのと、たまたまその流れで「土の中からの話」、解説で紹介されていた「夜長姫と耳男」の計三遍を読んだ。
語り手は冒頭、桜の花の下について、次のように語っている。
(前略)近頃は桜の花の下といえば人間がより集って酒をのんで喧嘩していますから陽気でにぎやかだと思いこんでいますが、桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になりますので、能にも、さる母親が愛児を人さらいにさらわれて子供を探して発狂して桜の花の満開の林の下へ来かかり見渡す花びらの陰に子供の幻を描いて狂い死して花びらに埋まってしまう(このところ小生の蛇足)という話もあり、桜の林の花の下に人の姿がなければ怖しいばかりです。(p99)
これに続いて、物語の舞台となる鈴鹿峠の街道が、桜の森の話の下を通らなければならないがために、旅人の気が狂ってしまい、しだいに「人の子一人通らない山の静寂にとり残されて」しまったと言い(p100)、鈴鹿峠のある山に住む山賊の話が語られる。山賊は、人の命を絶つことも気にしない「ずいぶんむごたらしい男(p100)」だったが、そんな男でさえも、鈴鹿峠の桜の森の花の下は怖ろしく、気が変になったという。
男は、追い剥ぎを続けるうちに、鬼である女と暮らすことになる。物語の最後、女が鬼であることに気がついた男は、自らの手で締め殺してしまうが、そのときそれまで怖ろしくて坐っていられるような場所ではなかった桜の下に、坐っていることができたのだった。
この物語は、桜の森の下を怖れていた山賊が、一人の女(正体は鬼)を得て都での生活を経験したことで、桜を怖れなくなった物語だとひとまずまとめることができる。語り手は、一貫して桜の森の下が恐ろしい場所であることを語ろうとするわけだが、なぜ桜の花の下に、そのように人の気を狂わせる力があるのかは、結局分からない。
男は始めて女を得た日のことを思いだしました。その日も彼は女を背負って峠のあちら側の山径を登ったのでした。その日も幸せ一ぱいでしたが、今日の幸せはさらに豊かなものでした。
(中略)
男は桜の森の花ざかりを忘れてはいませんでした。然し、この幸福な日に、あの森の花ざかりの下が何ほどのものでしょうか。彼は怖れていませんでした。(p128〜129)
(前略)彼は始めて桜の森の満開の下に坐っていました。いつまでもそこに坐っていることができます。彼はもう帰るところがないのですから。
桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分かりません。あるいは「孤独」というものであったかも知れません。なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独自体でありました。(p129〜130)
語り手は、桜の森の下の恐怖の正体を、そこに満ちている「孤独」に求める。山賊の男は、女を得たことで「孤独」でなくなり、女を殺したことで「孤独自体」になってしまった。だから、桜の下に満ちている「孤独」を怖れなくて済むようになったというのである。
それにしても、ここで言う「孤独」とは一体何なのか? 山賊の男は、これまでにもたくさんの女を得てきたのにも関わらず、彼の「孤独」を癒すのに、この女=鬼でなくてはならなかったのは、なぜなのだろうか?
それは、女の欲しがるものを満たしてやれるのが、自分だけだと思い込んだからである。
「でも俺は山でなきゃ住んでいられないのだぜ」
「だから、お前が山へ帰るなら、私も一緒に山へ帰るよ。私はたとえ一日でもお前と離れて生きていられないのだもの」
女の目は涙にぬれていました。男の胸に顔を押しあてて熱い涙をながしました。涙の熱さは男の胸にしみました。
たしかに、女は男なしでは生きられなくなっていました。新しい首は女のいのちでしt。そしてその首を女のためにもたらす者は彼の外になかったからです。彼は女の一部でした。女はそれを放すわけにいきません。男のノスタルジィがみたされたとき、再び都へつれもどす確信が女にはあるのでした。(p125〜126)
女は、強かに都で暮らしたいという自分の願いを果たそうと生きている。とはいえ、ここには、結局のところ、男に従うしかない女という構造がある。その意味で、いかにも家父長制的とも言えるような気がする。
しかし、皮肉なことに、そんな自分自身を必要としてくれる女というのは、鬼なのである。ここに男の「孤独」を満たしてくれる女というものが、どのようなものかという批判性があるような気がする。
まったく関係がないが、以前にこの「桜の森の満開の下」を読んだことがあると思っていたのだが、実際に読んでみたら、まったく覚えがなかった。梶井基次郎の「桜の樹の下には」と間違えていたことに、巻末の「作者案内」を見て気がついた(p442)。それと、どうでもいいことなのだが、何回見ても、「桜の森の満開 下」と読み違えてしまう。なんだか、「桜の森の満開 上」があって、上下巻なのだという想像が、付きまとってくる。
なんだか、紛らわしいテクストだなと思う。それだけ、自分の中で坂口安吾が、確固たる作家性の領域を作っていないのだと思う。なんだか、坂口安吾が好きで、今回このテクストを選んだ発表者に、申し訳ない気がする。
Posted by ブクログ
恐ろしいものは美しいし、美しいものは恐ろしい。
坂口安吾の作品2個目だけど、恐ろしいものを描写するときの生々しさが凄まじいな。体の芯が冷えるほど恐ろしくて、でも美しくて、儚くて。
桜の樹の下には死体が埋まってるなんて話は聞いたことあるけど、桜をこんな風な見方をするのは初めてかも、、!
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寓話物なら表題作の「桜の森の満開の下」よりも「夜長姫と耳男」の方が断然良かった。設定もセリフも気迫が満ちていて読んでいて心地よい。
「好きなものは咒うか殺すか争うかしなければならないのよ。お前のミロクがダメなのもそのせいだし、お前のバケモノがすばらしいのもそのためなのよ。いつも天井に蛇を吊して、いま私を殺したように立派な仕事をして・・・」
歴史物なら「二流の人」という黒田如水の話が良かった。上杉謙信→直江兼続→真田幸村の系統が「横からとびだしてピンタをくらわせてやろう」という「風流人で、通人で、その上戦争狂」という分類がなるほど。これも主題とは関係ないが、豊臣秀吉が甥の秀次を殺して自分も死ぬまでの狂って堕ちていく描き方が迫力があった。
Posted by ブクログ
独特の世界を持つ短編集。
桜の花に思うことは、人によっても、時によってもさまざま。寓話のような、ホラーのような表題作は、この季節になると思い出す幻想的なおはなし。