坂口安吾のレビュー一覧
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坂口安吾の短編が14作収録されています。
特に氏の代表作として一般的に著名な"風博士"、"白痴"、"桜の森の満開の下"が抑えられていて、他にも有名作、傑作が複数収録されているため氏を知るためには十全な短編集と思います。
坂口安吾作品は時期によって、ファルスだったり、痴情作家と揶揄されたり、戦争の影響が出たり、推理小説を書き始めたりするなど、大きく移り変わります。
"ファルスに就て"や"堕落論"、"文学のふるさと"、"余はベンメイす"などなどの評論を読んでいると、執筆時に何を思っていたのかがリンクして、より興味深く読めると思います。
作品数が多いので、各作品で感想を書かず、ある程度まとめて感想を書きます。
各作品の感想は以下です。
・風博士 ...
坂口安吾が文壇に認められるきっかけとなった作品で、また、氏が"芸術の最高形式"であるとまで述べた『ファルス』文学です。
坂口安吾といえばファルスであり、坂口安吾のファルスといえば風博士というほど、氏を代表する作品です。
風博士が自殺したことについて嫌疑をかけられた主人公が、風博士は蛸博士との確執により自殺したということを語る内容で、風博士とは?蛸博士とは?といった説明はなく、どこかミステリアスで何のメタファーを匂わせるような作品です。
ただ、氏の著書『FARCEに就て』でも述べている通り、本作は"ファルス文学である"というのがその答えなのかと思いました。
・傲慢な眼 / 姦淫に寄す / 不可解な恋愛に就て / 南風譜 ...
4作とも男女の関係を描いた作品です。
執筆時期は全て戦前で、4様のストーリーですが全て名著でした。
坂口安吾は評論を先に一通り眼を通して、最初に読んだ小説が"風博士"だったので、坂口安吾作品は全てこういう感じかと思ったのですが、難解な言い回しもない普通に楽しんで読める小説だったので、逆に驚きがありました。
ただその作品も、少し非日常的なところがあって、氏の作風を感じる4作だったと思います。
・白痴 ...
坂口安吾の代表作の一つ。
堕落論の後に書かれた作品で、堕落論に並び、坂口安吾作品では著名な一作だと思います。
戦時下、映画監督で見習い演出家をしている伊沢は、生活が困窮していて、魂のない制作会社にしがみついていた。
そんな折、遅く帰ると、隣家に住む気違いの白痴の女房が隠れていて、奇妙な共同生活が始めるというもの。
"白痴"ではあるがその女性の顔立ちは美しく、そんな彼女に対して肉欲を超えた何かを感じ始めます。
風博士は、あるテーマに沿った、坂口安吾を象徴する代表作ですが、本作は堕落論と併せて戦後日本の人々に方向性を示した、人に感動を与える作品であり、また、坂口安吾の地位を築いた作品です。
序盤、評論じみた読みにくいセンテンスがありますが、中盤以降の展開は見事で、封鎖的で耽美な雰囲気の名作です。
・女体 / 恋をしに行く ...
"女体"は長編連作の予定だった作品の1作目で、"恋をしに行く"は、女体から3,4ヶ月後に発表された2作目です。
2作共に主人公は「谷村」という男で、他の登場人物も共通して登場する者はあるのですが、作品の雰囲気がガラリと変わるため、別作品として読んだほうが良いと思います。
"女体"というストレートな作品名で、性をテーマにしてはいるのですが、行為そのものの露骨な描写はなく、心理描写がほぼ全てです。
谷村の連れ添った妻である「素子」や、夫妻の絵の先生である「岡本」に対するヒネた心理、精神、感想を述べる内容で、非情に読みにくい作品に感じました。
"恋をしに行く"は女体に比較すると、幾分読みやすく感じます。
「信子」という、岡本の弟子に惹かれた谷村と信子のやり取りが主ですが、ただこちらも比較的読みやすいというだけであって、個人的にはあまり楽しんで読める作品ではないと感じました。
・戦争と一人の女 / 続戦争と一人の女 ...
戦時中、小説家の男「野村」という男と、同棲中の不感症の女を主役に据えた小説。
女性は酒屋の主人の妾上がりで、その間、少しでも気に入った客とはすぐに寝る淫奔な性質だったが、戦時中でどうせ未来はないのだからと、野村は一緒に住むことにします。
戦争が終わるまでの関係性と考えていたのですが、やがてお互いが奇妙に惹かれ合う内容で、坂口安吾らしい、肉体を伴わない精神での結びつきについて書かれた作品に想いました。
"女体"はいまいちでしたが、こちらは読んでいて夢中になれる内容でした
なお、本作も含めて氏の作品は男女の関係を描いたものが多いため、"痴情作家"と揶揄されはじめます。
確かに本作は比較的過激さを感じましたが、明確なテーマもまた感じました。
男女の関係を描いていますが、官能的な部分はなく、極めて真面目な作品だと思います。
・桜の森の満開の下 ...
本作も坂口安吾の代表作として上げられることが多い作品。
文芸雑記に掲載された短編で、元々あまり注目されていなかった作品ですが、坂口安吾の死後に文芸評論家により再評価されて有名になった作品です。
満開の桜が咲き誇る森という、幻想的で恐怖を感じる場所を舞台にした幻想小説で、内容は極めて残酷です。
罪のない人々の首を集めてお人形遊びをする描写等があり、私的には大人向けのおとぎ話のような雰囲気を感じました。
妖艶な美女に言われるがまま殺戮を繰り返す山賊だが、最後は以外にも使われていただけではなかったという話で、ファルス文学や、氏が『文学のふるさと』で書いた、"文学の出発点"に通じるものを感じる作品でした。
・青鬼の褌を洗う女 / アンゴウ / 夜長姫と耳男 ...
"青鬼の褌を洗う女"は、坂口安吾が多忙を極めた1947年代に書かれた作品で、氏の代表作として上げられることもあります。
坂口安吾の妻『坂口三千代』をモデルにした女性「さち子」を主人公にしており、母の束縛を受けながら成長したが戦争でその母を失ったことで奔放に生きる女性の姿が描かれています。
三千代への想いが強く伝わる作品ですが、読み物としては、正直なところ読み難さを感じました。
"アンゴウ"は、戦士した戦友の蔵書を偶然街の古書店で見かけ、懐かしさから購入してみると数字の羅列の書かれた切れ端が現れる。
その切れ端から始まるミステリー調の作品で、追っていくことで判明したことから妻の不貞等を疑っていたのですが、ラストは心温まる終幕となっていて、個人的には本短編中で一番好きな作品となりました。
隠された名作と思います。
"夜長姫と耳男"も坂口安吾の代表作として上げられることがある作品で、"桜の森の満開の下"のような説和風の作品です。
ただ、個人的には"風博士"のようなファルス文学な感じを受けました。
極めて抽象的で何でもありな感じがあり、面白くないわけではないのですが、"桜の森の満開の下"のような感動はなかったです。 -
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坂口安吾は、日本文学史上の作家として評論が代表作として取り上げられる稀有な作家です。
本作に収録された24篇の作品はすべて氏によって書かれた評論、及びエッセイです。
戦中戦後を通して時代を見通した、本質をついた、あるいは、感情を隠さず書き連ねられた文章が収録されています。
作品数が多いので、一作ずつの感想は難しく、ある程度、複数作品をまとめて感想を書きました。
各作品の感想は以下の通りです。
・ピエロ伝道者 / FARCEに就て...
坂口安吾は1931年評論・"ピエロ伝道者"、翌年"FARCEに就て"を発表し、そこで、「芸術の最高形式はファルスである」と延べます。
そして、1931年6月に、ナンセンス文学『風博士』を発表したことにより、作家として認められるきっかけとなりまた、新進ファルス作家として活動を始めます。
ファルスとは道化的な喜劇的な作品であり、行動原理の説明も犯罪行為の代償もひっくるめて、ある意味で"うやむや"でオチをつけることができる寛大な手法で、それが何故に"最高形式"たるかが述べられています。
ファルスは、坂口安吾を知る上で必須のテーマであり、また、お話を読む上で知っておくことでより深く楽しむことができる考えなので、非常に興味深く読めました。
・ドストエフスキーとバルザック / 意慾的創作文章の形式と方法 / 枯淡の風格を排す / 文章の一形式 ...
坂口安吾は若い頃よりドストエフスキー作品に心頭していて、仲間たちと研究会まで立ち上げました。
"ドストエフスキーとバルザック"はその第一回後に書かれた評論です。
本作以外でも、ドストエフスキー、バルザック、モーパッサン、ゴーゴリなどの作風を比較することで、ただの文章と小説の相違を浮き彫りにすることを試みています。
また、その中で"枯淡の風格を排す"では、徳田秋声氏の「旅日記」という作品を批判しています。
小説として書かれるべきではないという悪例として、具体的な内容を持ち出して書かれている部分があり、驚きも感じましたが、一方でわかりやすいと感じました。
なお、この頃の坂口安吾は、引っ越しを繰り返す流転の日々を送っていて、女性関係でも離別があって、遊びと飲酒に明けた放蕩の時期だったそうです。
・ 茶番に寄せて / 文字と速力と文学 ...
1938年5月、坂口安吾はドフトエフスキーの文学に影響を受けて執筆した長編「吹雪物語」を脱稿しますが、本作は失敗作と評され、自身もそう感じます。
"茶番に寄せて"はその翌年1939年に発表されたエッセイで、執筆意欲のわかない安吾が、編集の北原武夫氏より、思い切って戯作を書いてみないかと提案されたことに端を発して書かれた、道化文学というものに対する感想です。
"文字と速力と文学"も、文字を書くことに関する数ページ程度のエッセイで、深い思想ではなくよしなしごとが書かれています。
作家としての道を模索しながら、ある意味では手探りで文章を書いているように感じました。
・文学のふるさと / 日本文化私観 / 青春論 ...
"文学のふるさと"で坂口安吾は、シャルル・ペロー版の赤ずきんを例に上げ、モラルのないこと自体が文学のモラルであり、それこそが文学のふるさとであるとしています。
平和に生きていた少女が、狼に騙されて頭からムシャムシャと食べられてしまうだけの、なんの教養も無いこの作品こそが、文学の出発点であると考察し、文学はこのふるさとの上に成り立つものでないと信用しない、一方で大人の仕事はふるさとに帰ることではないとしています。
本作を出発として、坂口安吾は次第にヒット作を書き始めます。
表題にもなっている"日本文化私観"は、坂口安吾の代表作で、出生地でありタウトが批判した新潟市を愛し、俗悪な伝統文化を日本的として讃えています。
「美を意識したところから美は生まれない」とし、民族の伝統や文化は、精神がある限り潰えないという名エッセイです。
"青春論"もおもしろいです。
自分の青春論は淪落論であるとし、宮本武蔵の逸話を取り上げて人生の目的を説明しています。
・咢堂小論 / 堕落論 / 堕落論〔続堕落論〕 ...
咢堂は政治家「尾崎行雄」の雅号です。
咢堂小論は戦後に尾崎咢堂によって唱えられた、当時としては革新的な論述に対する安吾の考えを述べたもので、戦前、戦中日本を鑑みてこれから日本は如何なるべきか、何が良くて何を変えるべきかなどを論じた小論となります。
執筆されたのは1945年ですが、1947年に刊行された堕落論に同録されており、堕落論に繋がる持論が垣間見える作品でした。
堕落論、及び続堕落論は、坂口安吾の最も有名な評論で、評論でありながら、日本文学史上代表的作品として取り上げられる名著です。
敗戦後の日本にて暗澹たる実情を見つめ直した結果、書き上げた作品で、レベルは違えど現在苦しいと思っている人にもおすすめしたい内容となっています。
戦場で勇敢に戦った戦士も闇に堕ちてしまったが、それは戦争に負けたから堕ちたのではなく、人間だから堕ちたのである。
人は政治によって変わるのではなく、人であるためには、堕ちるところまで堕ちるべきであるという"堕落"をすすめる書であり、人に勇気を与えてくれる内容と思いました。
・武者ぶるい論 / デカダン文学論 / インチキ文学ボクメツ雑談 ...
"武者ぶるい論"、"インチキ文学ボクメツ雑談"は、過去に発売された全集には未収録の作品です。
それゆえ、本二作を目的に岩波文庫版を手にとった方もいるのではと思います。
執筆時期は異なりますが、両作品とも数ページほどの短い作品で、内容は滅裂に思いました。
特に1951年発表の"武者ぶるい論"は、このころ睡眠薬で中毒発作を起こしたり、共産党批判をしたり、せっかくの収入を博打で全て使い切ったりとやりたい放題していたためか、文体も荒く、妙なテンポの良さを感じましたが論旨がつかめませんでした。
"デカダン文学論"はそんな中ではしっかりした作品で、堕落論の流れにある内容と思います。
・戯作者文学論 / 余はベンメイす / 恋愛論 / 悪妻論 / 教祖の文学 ...
安吾は戦後まもなく流行作家となりますが、戯作者文学論はその初期にあたる時期に書かれた評論で、本作の数カ月後、坂口安吾や太宰治は「新戯作派」と呼ばれ始めます。
"平野謙へ・手紙に代えて"という副題の通り、平野謙からの依頼に対する、日記形式のエッセイです。
戯作者である自身が何を思い書いているかが書かれていて、内容は極めて赤裸々で、くすりとくるものとなっています。
"余はベンメイす"は、その頃「情痴作家」と呼ばれていた安吾が、性をテーマにした取り組みの多さに"ベンメイ"を要求します。
それは善意で、考えを一筆書いて活動しやすくするためと思うのですが、文中の安吾はヒートアップしています。
共に人間性の垣間見える作品と思います。
一方で、恋愛論、悪妻論は、身も蓋もないことが書かれているようにも思いましたが、理論的でわかりやすく、一変して読みやすい作品でした。
同時期に書かれた"教祖の文学"が読みにくい作品で、戯作者文学論から教祖の文学までは全て同年の7ヶ月以内に書かれた作品なのですが、非常にムラを感じました。
・不良少年とキリスト / 百万人の文学 ...
1948年6月、太宰治の入水自殺がありました。
"不良少年とキリスト"は自殺してしまった太宰への怒りに近い内容となっています。
序盤"バカヤロー"から始まり、内面の赤面に魔法の酒で対処してフツカヨイになった、死に損なったら「人間失格」や「グッドバイ」を返上するものを書いていたに違いないと書いています。
また、百万人の文学でも、太宰治が百何年後にも愛読されると書いていて、その文学を絶賛していたことが感じられました。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ長い感想。
自分が何を欲するか分かるためにはまず堕ちないといけない。けれど、堕ちぬくほど人間は強くない、という安吾の指摘。
これを終戦後に読んだ人たちは
なんてクールなんだ!という気持ち反面、そんな事言われても自分が何がしたいか分からないよ、なんて思ったのではないかと。
戦争前、天皇制のもと、このように生きてください、こうすればあなたはいい国民です、こういう悪いことしたら非国民です、と導いてもらってきた日本国民。
だけど敗戦した、では今後どう生きればいいんだろう。ここで、安吾は「いっかい堕落してみろ。そうすれば、再生できるんじゃないの?」と言いたかったのかなと思った。
安吾のいう堕落って、自堕落な生活みたいなイメージよりかは
「私は○○がしたい」→「そのためには○○が必要だ。」みたいなことを自分で考えて生きていこ、ということが言いたかったのでは。
それから続堕落論の農村の精神なんて最高!
言い切ってて爽快!ごもっとも!と拍手したくなってしまった。
現代の日本にもそういうメンタル、あるのでは?と感じた。たとえば公(オフィシャル)と私(プライベート)という二面性があるとき、私を犠牲にして汗流して時間かけて苦労してガンバッてます!みたいな。そういうお話に「いいね〜」と思う自分もいるよな、と気付かされた。
日本は変化することを得意としない国とおもっているけど、そんな昔の人もそう思っていたのね、という衝撃も受けた。
以下、好きなところを抜粋。
・終戦後、我々はあらゆる自由を許されたが、人はあらゆる自由を許されたとき、自らの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう。
・人間は可憐であり脆弱であり、それゆえ愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。
続堕落論
・農村の美徳は耐乏、忍苦の精神だという。乏しきに耐える精神などがなんで美徳であるものか。
・日本の精神そのものが耐乏の精神であり、変化を欲せず、進歩を欲せず、〜〜。
・ボタン一つ押し、ハンドルを廻すだけですむことを、一日中エイエイ苦労して、汗の結晶だの勤労のよろこびなどと、馬鹿げた話である。しかも日本全体が、日本の根底そのものが、かくのごとく馬鹿げきっているのだ。
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私は作品を読むときに「どう死なすか」を重点的に見ているのだが,その視点からすると,坂口安吾の作品は随分と手ぬるいものだ。とはいえ無意味に死なす近年の感動を求める風潮?に比べればはるかにマシ。現代において,坂口安吾の示す姿勢は参考になるだろう。
以下主要作品についての感想。
「白痴」
戦火と微睡みが両立する世界観に単純に惹かれた。理知に対するカウンターとしての白痴の女が終始まとわりつく,感情は古い。p94「その戦争の破壊の巨大な愛情が,すべてを裁いてくれるだろう」しかし,いつだって破滅的願望は叶わないものだ。
「戦争と一人の女」
p163「女は戦争が好きであった。〜爆撃という人々の更に呪う一点に於いて,女は大いに戦争を愛していたのである」一種の破滅的願望なのだろうが,やはり成就しない。アンバランスが女の構成要素だとするのなら,先の長いだけの平和には何の意味も見出せなくなる。死を間近に控えた生命は眩い。そこに肯定も否定もなく,ただ孤高であるばかり。
「桜の森の満開の下」
「夜長姫と耳男」
共通して古風ファンタジー?なのでまとめて感想を。何も美しいというのは感動だけではない。畏怖だ。内面で昇華しきれない情動による畏怖である。しかし,それは女の像を更に曖昧にしてしまう。おそらく元とする古典作品があるのだろうが,坂口安吾のそれは遥かに内面的で,当時代の精神分析を思わせるようだ。なお,背景を抜きにして,安易に幻想とか狂気とか言う風潮はいかがなものかと…… -
Posted by ブクログ
花といえば奈良時代は梅だが、平安以降は桜がクローズアップされる。「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」在原業平は不安に駆られるほどの桜の美しさと恋心を重ねて、あんなもんなければのどかな心でいられるのに、と詠んだ。桜は狂気を呼び込む。坂口安吾の「桜の森の満開の下」は美しく残酷な女に翻弄される山賊の話だ。金品同様攫った女を自分のものにするしかない山賊の暮らし。山賊が魅せられた女は人間の生首を集めて並べたがる。満開の時に通ると気が狂うと言われる桜の森で、男は鬼女になったその女を斬り殺す。すると女は花びらと共に風に飛ばされ消えて行ったという狂気と幻想の話だ。花吹雪の中、立ち尽くす男に残されたのは永遠の孤独と狂いそうなまでの虚無。
子供の頃はお彼岸の墓参りついでに墓地で親戚と一緒にお花見したものだ。墓地には必ず桜が咲いている。柳田國男がどこかで書いていたが、桜は人が大勢亡くなった跡に植えられるもので、地名に桜がつく土地は元々死体捨て場だった、と。さくら染は地中にある死体の血を吸い上げてほんのりピンクに染まるという話もある。梶井基次郎は「桜の樹の下には死体が埋まっている」と書いた。そう考えないと不安になると言った。かつての日本人にとってこの感覚は自然だったのだと思う。きれいな薔薇に棘があるように、きれいな桜は死と狂気を招く。死の国と繋がり美しく舞い散る花びらに狂気を感じる。 -
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坂口安吾(1906~1955年)は、新潟県に生まれ、東洋大学印度哲学倫理学科を卒業し、終戦直後に発表した『堕落論』、『白痴』により注目を集めて、太宰治、織田作之助、石川淳らとともに無頼派・新戯作派と呼ばれた、近現代日本文学を代表する作家の一人。
『堕落論』は、1946年(昭和21年)4月に雑誌『新潮』に掲載された作品で、同年12月に続編『続堕落論』が雑誌『文學季刊』に掲載された。書籍では、1947年に単行本が出版され、文庫版は角川文庫のほか、新潮文庫、岩波文庫、集英社文庫などから出ている。
角川文庫版には、『堕落論』、『続堕落論』に加え、1942~48年に書かれた随筆・評論、『日本文化私観』、『青春論』、『デカダン文学論』、『戯作者文学論』、『悪妻論』、『恋愛論』、『エゴイズム小論』、『欲望について』、『大阪の反逆』(織田作之助論)、『教祖の文学』(小林秀雄論)、『不良少年とキリスト』(太宰治論)の合計13篇が収められているが、各文庫の収録作品は多少異なっている。
同時代の文人の評論(小林秀雄などはその典型)というと、難しい言葉を使った硬い文章が少なくなく、ソフトな文章に慣れた現代人としては、読むにあたり相応の緊張感を要するが、安吾の文章は思いのほか読み易い。
『日本文化私観』より、「(ブルーノ)タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ。我々は古代文化を見失っているかもしれぬが、日本を見失うはずはない。日本精神とは何ぞや、そういうことを我々自身が論じる必要はないのである。説明づけられた精神から日本が生まれるはずもなく、また、日本精神というものが説明づけられるはずもない。日本人の生活が健康でありさえすれば、日本そのものが健康だ。」「それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生まれる。そこに真実の生活があるからだ。そうして、真に生活するかぎり、猿真似を羞ることはないのである。それが真実の生活であるかぎり、猿真似にも、独創と同一の優越があるのである。」
『堕落論』より、(あまりも有名な文章だが)「戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。・・・他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。・・・堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。」
『続堕落論』より、「天皇制だの、武士道だの、耐乏の精神だの、五十銭を三十銭にねぎる美徳だの、かかるもろもろのニセの着物をはぎとり、裸となり、ともかく人間となって出発し直す必要がある。」「人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。何物かカラクリにたよって落下をくいとめずにいられなくなるであろう。そのカラクリをつくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。堕落は制度の母胎であり、そのせつない人間の実相を我々はまず最もきびしく見つめることが必要なだけだ。」
こうしてみると、本書の作品群に通底しているのは、日本(人)がそれまで覆い隠してきた「ニセもの(ウソ)」を暴くことだとわかる。そして、そこからしか、あるべき日本(人)は生まれない、と安吾は言っているのだ。。。
(日本人に限らない)人間にとっての文化とは何か、といった点については首肯しかねるところもあるが、論旨は理解できるし、日本人とは何か、日本文化とは何かを考える上では、とりわけ貴重な論考なのだと思う。
(2020年12月了)