【感想・ネタバレ】堕落論・日本文化私観 他22篇のレビュー

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Posted by ブクログ 2023年06月16日

新潮文庫の堕落論はすでに持っていますが、「茶番について」を読みたいがためにこちらも買いました。

荘子や大江健三郎を読んだ影響で、自分が今年に入ってから考え続けている「不合理」の正体について、「茶番について」はひとつの着地点を提示してくれました。

早稲田大の入試にも出たようです。
全体としても大変...続きを読む良いエッセイ集でした。

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Posted by ブクログ 2020年11月30日

小林よしのりの「堕落論」に触発されて読みました。筆者は「日本は敗戦後、道義が退廃したと言われるが、そうではない。変わったのは世相の上皮であり、人間は変わっていない。むしろ、人間は堕落するものだ。堕落することでしか人間を救う道はない」と主張している。「戦前の人間は立派だった」「戦後日本人はだめになった...続きを読む」といろいろな場面で言われてきたことを考えると、新鮮な主張に感じた。また、東京大空襲についての「猛火をくぐって逃げのびてきた人達は燃えかけている家のそばに群がって寒さの暖をとっており」という記述は、別の本で読んだ「東京大空襲の焼夷弾はうつくしかった」と通じるところがある。今読めば不謹慎に感じるところがあるが、人間は寒ければ暖をとるし、焼夷弾でもきれいなものはきれいに感じるものである。それこそが人間の本性なのだろうか。つまり、堕落せよとは、人間の本性を取り戻せ、ということなのかと解釈した。自分の色メガネで見ずに、見たものを観察、解釈することのは大切さを学んだ。話があっちこっちに飛んで、読みにくかったが、学んだことの方が多かった。

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Posted by ブクログ 2018年01月08日

甘ったるい偽善的な装飾を嫌い、徹底してものごとの奥底に光る「ホンモノ」を見つけ出そうとした文豪:坂口安吾。その格闘の軌跡。

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Posted by ブクログ 2015年11月12日

短編小説の名手といえば、外国なら、
モーパッサン、チェーホフ、S・モーム、O・ヘンリー、ダール、ポー、
あたりがまず頭に浮かんできますね。
特に、ロアルド・ダールが大好きです。
ヒッチコック映画を観ているようでぞくぞくします。

日本で言えば、
森鴎外、永井荷風、芥川龍之介、志賀直哉、稲見一良、山本...続きを読む周五郎、藤沢周平、
江戸川乱歩、星新一、松本清張
あたりでしょうか?
特に、稲見一良「ダック・コール」は絶品ですね。

で、随筆の名手、特に日本人でいうと、まず筆頭にくるのが丸谷才一でしょう。
その他、内田百間、寺田寅彦、柳宗悦、日高敏隆ぐらいがぱっとうかんできます。
特に、丸谷才一の博覧強記ぶりには舌を巻きます。勿論文章はピカイチ!!!

所が、最近、坂口安吾の随筆にはまっています。
恥ずかしながら、彼の小説といえば
「不連続殺人事件」ぐらいしか読んだことありません。
更に恥ずかしい事に、あまりにも登場人物が多くて
犯人が全くわかりませんでした(⌒-⌒;)

その坂口安吾の随筆は小説より面白いと解説文ありますように、
読み始めたら止まらなくなります。明快で読みやすいです。

例えばこうですー
『空にある星を一つ欲しいと思いませんか?思わない?
そんなら、君と話をしない。』(「ピエロの伝道者」)

どうです?おもしろそうでしょ?そう思わない?
そんならあなたと話しない(o^。^o)

ざーと目を通し、今読み返しているところですが、
私にすれば多分にこじつけというか、独断的な部分はありますが、
でも、面白いです、是非おすすめします。
そう読みたくない?そんならあなたとお茶でもしましょう\(^-^)/

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Posted by ブクログ 2013年12月04日

集英社版の堕落論を読んで、非常に感銘を受けたので他のエッセイも読みたく思いこちらも読んだ。非常に面白く、新たな思想に触れて感銘を受けると同時に、数を重ねる事で彼の思想が立体的に浮き彫りになってきた気がする。非常に首尾一貫した、人間愛者だと感じた。ネガティブなイメージが先行してしまうのかもしれないが、...続きを読む彼の人生に対する態度は、彼が戯作について述べていたような『徹底的な肯定』と通じるものがあり、人生の、人間の汚い面や悪い面なども、全てをぐいと飲み下して肯定してしまう、そう言う奮闘の姿なのだという事がひしひしと伝わってくる。

彼が繰り返し強調する概念の中に見えたのは、肉体性というものをきちんと見据える姿勢だった。教祖の文学の中で、小林秀雄の批判を通して彼が述べていた事は、小林自身が『自分は小説の才能がなく、批評家にしかなれなかった。』と言う言葉と重なる。小林のような徹底的な客観性に基づき、論理と抽象化により、無機質で普遍的な真理を究明していく徹底的な態度と言うものは、事実から肉体性を排除してしまうものであった。坂口安吾は繰り返し、小説とは個別性であり、個人性であると述べ、つまりそれは肉体的な営為であるのだから、この点において、文学者としての坂口安吾と批評家としての小林秀雄が、このような対照をなすと言うのは当然のことなのだろう。私は小林秀雄が非常に好きだが、文学と言うものを考えた時に、坂口安吾の言うような地に足のついた、肉体性に根ざした感覚と言うものを大事にしたいと感じる。

青春論で述べられていた淪落的な生き方もそうなのだが、やはり坂口安吾と言うのはどこまでもまっすぐで、人生に誠実であったのだというのを感じた。死んだら終わり。それまで。そう言う風な考え方を徹底している。勿論、現代の人間においては特にだが、社会的動物としての人間が個人の死によって完全に消滅するかと言う観点から見るとそれは肯定できるものではないが、この言葉をそう言う風に字面どおりに受け取るのは違うと感じた。つまりその言葉は、彼の『生きている時間は少しでも大切にしなければならない』と言う、人生に対する真摯な態度を何より象徴しているのだと思った。彼が作中で述べたように、彼は女性が老いて美を失う事を恐れるような感覚は持っていなかった。老いというものが彼にとってはそう大した問題でなかった。だが、女性のそう言う態度を肯定し、そのような、時間を惜しむ人生と言うものに価値を見出している。だから彼は自分の生命を、女性にとっての美と同値に考え、女性が老いを恐れるように死を恐れようとした。若さに縋るのではなく生命に縋り、生きている時間と言うものをどれだけでも濃密なものにしようとした。そう言う必死でがむしゃらな態度こそ、彼が繰り返し肯定していた、肉体的な生き方であった。芸術は長く、生命は短い。だが、長さは決して価値と同義ではない。どこまでも『自己』を出発点として、ブレずに世界と向き合おうという姿勢には、我々の学ばなければならないものが多分に潜んでいると思う。

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Posted by ブクログ 2012年04月15日

安吾の作品について語ろうとすると、どうしても安吾について語ることになってしまう。
私にとって、こういう作家はほかにいない。

安吾の文章は、安吾の血肉なのではないかと思ってしまう。
そう思うくらい、私は彼と彼の作品を区別できない。


「文学のふるさと」「日本文化私観」が好き。
ドライアイス工場を美...続きを読むしいと思う安吾を、私は愛します。

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ネタバレ

Posted by ブクログ 2010年04月02日

坂口安吾は戦中~戦後にかけてユニークな日本国家論を提起した。

 「日本文化私観」では、日本文化とは伝統的建造物などではなく、そこにあった人、生活、風俗そのものが日本の文化であるとした。また、「我が人生観」でも文化というものは、過去にもとめるよりも、未来にもとめる建設の方が大切と説いている。

...続きを読む また「堕落論」「続堕落論」では古代から天皇は政治利用される存在であり、神聖にして侵されないけれども、藤原氏を始め、幕府、尊王攘夷派、軍部の不敬なる企みに使われた。そしてその者達が先頭を切って崇拝することにより、やつらは強大な権力を振りかざしたと斬り捨て、東京裁判に雁首揃えて生き恥をさらす将軍達を痛烈に批判している。

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Posted by ブクログ 2009年10月07日

9/23
どちらかというと「日本文化私観」に安吾のすごさがある。
終戦後とはいえ、あんなことよく言えたもんだ。

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Posted by ブクログ 2022年12月11日

坂口安吾(1906-1955)の代表的な評論を収録したもの。安吾は「生きる」ということに対して常に誠実であろうとした、という強い印象を受ける。「生きる」ことの根底にある人間の絶対的な孤独や哀しみから眼を逸らそうとする欺瞞的態度に徹底的に抗おうとする、安吾の精力の甚だしさを感じさせる。

□ 無意味
...続きを読む
意味には、それを意味として成立させるために、ある特定の方向、傾斜、偏り、限定、則ち文脈が、前提されている。そこには、身体によって条件づけられた存在である人間の下部構造が、反映されているのだろう。この文脈によって、ある特定の目的や効用が方向づけられる。この目的や効用によって、一切は評価され位階化される。金、性、虚栄、道徳といった指標は、こうして意味化された空間における座標の役割を果たす。

無意味とは、こうした一切の文脈、目的、効用、評価、位階化から解放された状態ではないかと思う。つまり、無意味とは一切の肯定のこと。と同時に、無意味は、意味の陰画として実体化=意味化され得ない、意味以前として位相化することもできない、外部にあるとも内部にあるともいえない、そういった如何とも規定し得ない境位であろう。

人間には、ある特定の意味秩序を人間よりも上位においてそれを特権化、普遍化してしまっては決して捕捉しきれない、そういう一切の意味秩序から切断されてもなお残る過剰さがある。安吾のいう「文学のふるさと」というのは、それを指しているのではないかと思う。

「私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、然し、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか」(p92「文学のふるさと」)。

「この三つの物語が私達に伝えてくれる宝石の冷めたさのようなものは、なにか、絶対の孤独――生存それ自体が孕んでいる絶対の孤独、そのようなものではないでしょうか」(p99同上)。

ここで安吾が言う「ふるさと」とは、逆説的に「ふるさとの不在」のことではないかと思う。家に帰るときほど、自分という存在の所在なさを痛切に思い知らされることはない。通常ならば、家は最も安心できる場所、自分が自分自身に戻れる場所であるかのように思われがちだが、その家こそ自分にとって余所余所しく場違いなところであると知ってしまったら、家だと思っていたところが実は家ではないと気づいてしまったら。孤独であるということ、帰るべき場所などないということ、世界のどこにも根を下ろせないということ、それは人間が決して逃れることのできない存在論的な前提条件であろう。

「「帰る」ということは、不思議な魔物だ。「帰ら」なければ、悔いも悲しみもないのである。「帰る」以上、女房も子供も、母もなくとも、どうしても、悔いと悲しさから逃げることが出来ないのだ。帰るということの中には、必ず、ふりかえる魔物がいる」(p130「日本文化私観」)。

□ 小林秀雄批判

無意味を、一切の接続から解放された単独者として現実の煩わしい意味からの逃走として夢想する私にとって、安吾による小林秀雄批判は耳に痛い。自分が好む文学や芸術も、古典をはじめその作者が既に死んでいる作品がほとんどだ。

「生きている人間なんて仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言いだすのやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ、他人事にせよ、解った例しがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。其処に行くと死んでしまった人間というものは大したものだ。何故ああはっきりとしっかりとしてくるんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」(p342「教祖の文学」)。

と「無常といふこと」で書く小林に対して、安吾は次のように書く。

「生きている人間というものは、(実は死んだ人間でも、だから、つまり)人間というものは、自分でも何をしでかすかわからない、自分とは何物だか、それもてんで知りやしない、人間はせつないものだ、然し、ともかく生きようとする、何とか手探りででも何かましな物を探し縋りついて生きようという、せっぱつまれば全く何をやらかすか、自分ながらたよりない。疑りもする、信じもする、信じようとし思いこもうとし、体当り、遁走、まったく悪戦苦闘である。こんなにして、なぜ生きるんだ。文学とか哲学とか宗教とか、諸々の思想というものがそこから生れて育ってきたのだ。それはすべて生きるためのものなのだ。生きることにはあらゆる矛盾があり、不可欠、不可解、てんで先が知れないからの悪戦苦闘の武器だかオモチャだか、ともかくそこでフリ廻さずにいられなくなった棒キレみたいなものの一つが文学だ」(p345ー346同上)。

安吾は人間の背後に虚無をはっきり自覚しながらそれでもなお現実のほうを向き、私は現実に背を向けるために虚無に隠棲しているだけなのか。

□ 天皇制という欺瞞

天皇制および天皇制を一貫して保持し続けてしまっている日本の歴史の欺瞞的な実相が、実も蓋もなく描き出されている。

「[略]、天皇制自体は、真理ではなく、また、自然でもないが、そこに至る歴史的な発見や洞察に於いて軽々しく否定しがたい深刻な意味を含んでおり、[略]」(p222「堕落論」)。

「天皇制というものは日本歴史を貫く一つの制度ではあったけれども、天皇の尊厳というものは常に利用者の道具にすぎず、真に実在したためしはなかった。/藤原氏や将軍家にとって何がために天皇制が必要であったか。何が故に彼等自身が最高の主権を握らなかったか。それは彼等が自ら主権を握るよりも、天皇制が都合がよかったからで、彼らは自分自身が天下に号令するよりも、天皇に号令させ、自分がまっさきにその号令に服従してみせることによって号令が更によく行きわたることを心得ていた。その天皇の号令とは天皇自身の意志ではなく、実は彼等の号令であり、彼等は自分の欲するところを天皇の名に於て行い、自分がまっさきにその号令に服してみせる、自分が天皇に服す範を人民に押しつけることによって、自分の号令を押しつけるのである」(p235「堕落論〔続堕落論〕」)。

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Posted by ブクログ 2021年11月08日

坂口安吾は、日本文学史上の作家として評論が代表作として取り上げられる稀有な作家です。
本作に収録された24篇の作品はすべて氏によって書かれた評論、及びエッセイです。
戦中戦後を通して時代を見通した、本質をついた、あるいは、感情を隠さず書き連ねられた文章が収録されています。

作品数が多いので、一作ず...続きを読むつの感想は難しく、ある程度、複数作品をまとめて感想を書きました。
各作品の感想は以下の通りです。

・ピエロ伝道者 / FARCEに就て...
坂口安吾は1931年評論・"ピエロ伝道者"、翌年"FARCEに就て"を発表し、そこで、「芸術の最高形式はファルスである」と延べます。
そして、1931年6月に、ナンセンス文学『風博士』を発表したことにより、作家として認められるきっかけとなりまた、新進ファルス作家として活動を始めます。
ファルスとは道化的な喜劇的な作品であり、行動原理の説明も犯罪行為の代償もひっくるめて、ある意味で"うやむや"でオチをつけることができる寛大な手法で、それが何故に"最高形式"たるかが述べられています。
ファルスは、坂口安吾を知る上で必須のテーマであり、また、お話を読む上で知っておくことでより深く楽しむことができる考えなので、非常に興味深く読めました。

・ドストエフスキーとバルザック / 意慾的創作文章の形式と方法 / 枯淡の風格を排す / 文章の一形式 ...
坂口安吾は若い頃よりドストエフスキー作品に心頭していて、仲間たちと研究会まで立ち上げました。
"ドストエフスキーとバルザック"はその第一回後に書かれた評論です。
本作以外でも、ドストエフスキー、バルザック、モーパッサン、ゴーゴリなどの作風を比較することで、ただの文章と小説の相違を浮き彫りにすることを試みています。
また、その中で"枯淡の風格を排す"では、徳田秋声氏の「旅日記」という作品を批判しています。
小説として書かれるべきではないという悪例として、具体的な内容を持ち出して書かれている部分があり、驚きも感じましたが、一方でわかりやすいと感じました。
なお、この頃の坂口安吾は、引っ越しを繰り返す流転の日々を送っていて、女性関係でも離別があって、遊びと飲酒に明けた放蕩の時期だったそうです。

・ 茶番に寄せて / 文字と速力と文学 ...
1938年5月、坂口安吾はドフトエフスキーの文学に影響を受けて執筆した長編「吹雪物語」を脱稿しますが、本作は失敗作と評され、自身もそう感じます。
"茶番に寄せて"はその翌年1939年に発表されたエッセイで、執筆意欲のわかない安吾が、編集の北原武夫氏より、思い切って戯作を書いてみないかと提案されたことに端を発して書かれた、道化文学というものに対する感想です。
"文字と速力と文学"も、文字を書くことに関する数ページ程度のエッセイで、深い思想ではなくよしなしごとが書かれています。
作家としての道を模索しながら、ある意味では手探りで文章を書いているように感じました。

・文学のふるさと / 日本文化私観 / 青春論 ...
"文学のふるさと"で坂口安吾は、シャルル・ペロー版の赤ずきんを例に上げ、モラルのないこと自体が文学のモラルであり、それこそが文学のふるさとであるとしています。
平和に生きていた少女が、狼に騙されて頭からムシャムシャと食べられてしまうだけの、なんの教養も無いこの作品こそが、文学の出発点であると考察し、文学はこのふるさとの上に成り立つものでないと信用しない、一方で大人の仕事はふるさとに帰ることではないとしています。
本作を出発として、坂口安吾は次第にヒット作を書き始めます。
表題にもなっている"日本文化私観"は、坂口安吾の代表作で、出生地でありタウトが批判した新潟市を愛し、俗悪な伝統文化を日本的として讃えています。
「美を意識したところから美は生まれない」とし、民族の伝統や文化は、精神がある限り潰えないという名エッセイです。
"青春論"もおもしろいです。
自分の青春論は淪落論であるとし、宮本武蔵の逸話を取り上げて人生の目的を説明しています。

・咢堂小論 / 堕落論 / 堕落論〔続堕落論〕 ...
咢堂は政治家「尾崎行雄」の雅号です。
咢堂小論は戦後に尾崎咢堂によって唱えられた、当時としては革新的な論述に対する安吾の考えを述べたもので、戦前、戦中日本を鑑みてこれから日本は如何なるべきか、何が良くて何を変えるべきかなどを論じた小論となります。
執筆されたのは1945年ですが、1947年に刊行された堕落論に同録されており、堕落論に繋がる持論が垣間見える作品でした。
堕落論、及び続堕落論は、坂口安吾の最も有名な評論で、評論でありながら、日本文学史上代表的作品として取り上げられる名著です。
敗戦後の日本にて暗澹たる実情を見つめ直した結果、書き上げた作品で、レベルは違えど現在苦しいと思っている人にもおすすめしたい内容となっています。
戦場で勇敢に戦った戦士も闇に堕ちてしまったが、それは戦争に負けたから堕ちたのではなく、人間だから堕ちたのである。
人は政治によって変わるのではなく、人であるためには、堕ちるところまで堕ちるべきであるという"堕落"をすすめる書であり、人に勇気を与えてくれる内容と思いました。

・武者ぶるい論 / デカダン文学論 / インチキ文学ボクメツ雑談 ...
"武者ぶるい論"、"インチキ文学ボクメツ雑談"は、過去に発売された全集には未収録の作品です。
それゆえ、本二作を目的に岩波文庫版を手にとった方もいるのではと思います。
執筆時期は異なりますが、両作品とも数ページほどの短い作品で、内容は滅裂に思いました。
特に1951年発表の"武者ぶるい論"は、このころ睡眠薬で中毒発作を起こしたり、共産党批判をしたり、せっかくの収入を博打で全て使い切ったりとやりたい放題していたためか、文体も荒く、妙なテンポの良さを感じましたが論旨がつかめませんでした。
"デカダン文学論"はそんな中ではしっかりした作品で、堕落論の流れにある内容と思います。

・戯作者文学論 / 余はベンメイす / 恋愛論 / 悪妻論 / 教祖の文学 ...
安吾は戦後まもなく流行作家となりますが、戯作者文学論はその初期にあたる時期に書かれた評論で、本作の数カ月後、坂口安吾や太宰治は「新戯作派」と呼ばれ始めます。
"平野謙へ・手紙に代えて"という副題の通り、平野謙からの依頼に対する、日記形式のエッセイです。
戯作者である自身が何を思い書いているかが書かれていて、内容は極めて赤裸々で、くすりとくるものとなっています。
"余はベンメイす"は、その頃「情痴作家」と呼ばれていた安吾が、性をテーマにした取り組みの多さに"ベンメイ"を要求します。
それは善意で、考えを一筆書いて活動しやすくするためと思うのですが、文中の安吾はヒートアップしています。
共に人間性の垣間見える作品と思います。
一方で、恋愛論、悪妻論は、身も蓋もないことが書かれているようにも思いましたが、理論的でわかりやすく、一変して読みやすい作品でした。
同時期に書かれた"教祖の文学"が読みにくい作品で、戯作者文学論から教祖の文学までは全て同年の7ヶ月以内に書かれた作品なのですが、非常にムラを感じました。

・不良少年とキリスト / 百万人の文学 ...
1948年6月、太宰治の入水自殺がありました。
"不良少年とキリスト"は自殺してしまった太宰への怒りに近い内容となっています。
序盤"バカヤロー"から始まり、内面の赤面に魔法の酒で対処してフツカヨイになった、死に損なったら「人間失格」や「グッドバイ」を返上するものを書いていたに違いないと書いています。
また、百万人の文学でも、太宰治が百何年後にも愛読されると書いていて、その文学を絶賛していたことが感じられました。

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Posted by ブクログ 2016年09月14日

読んでいて、正直難しいと思う部分が多かったです。
しかし全体を通して、筆者の一貫した思いを感じるエッセイでした。強い思いがあって書かれたものだと感じました。だからこそ、書かれた当時から時代は変わっても、変わらず読み継がれ、胸に響く文章なのだと思います。

とにかく、苦しくても悲しくても、もがいて生き...続きを読むよう、という気持ちにさせてくれました。
もう少し内容が理解できるようになった頃に、また読みたいです。

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Posted by ブクログ 2012年09月08日

わび・さびか。幽玄か。悟りすましたように文学は終わったというか。笑止――
坂口安吾の随筆集。堕落論、日本文化史観、文学のふるさと等、14編を収録。

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Posted by ブクログ 2018年02月26日

思想・評論❨というよりエッセイ❩が沢山収録されている。文化とか恋愛とか色々述べるが、時々いや度々難しい言葉とか表現とか使っていて読んでて辛いが、根っこの部分は同じことを言っているように思う。耐えることをしないで乗り越えるにはどうしたらよいかという思想があるからこそ、人間の進歩があるのだという部分は大...続きを読む賛成。
しかしだが、著者のハッキリとした物言いには少々冷や冷や、そんなハッキリと対象の名前を出してバッサリ酷評してよいのか、と思いながら読むも、読み進めていくとこれは自戒の意味を込めてのことだと述べている章にたどり着く。そんな皮肉分かるかいな。文章だけで書き伝えられてないじゃないか。ベンメイが必要なのではないか。

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ネタバレ

Posted by ブクログ 2013年12月27日

坂口安吾、この人は駄目だな。個人的には全く合わない気がする。
文章が思いつき、というか飛躍が多く、繰り返しも多い。明らかに原稿用紙の升目を埋めるために書いているようなものもあって、そんなものを有難く拝読しなくてはいけないのだろうか?なんだかんだいっても結局最期は「生きることだ」みたいな結論で、説得力...続きを読むがない。

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ネタバレ

Posted by ブクログ 2012年04月29日

一言で言えば、小難しい。
何言ってんのか訳分からんしつまらん、てのが正直半分くらいの感想。
でも時々すごく面白いところもある。

これはエッセイ集みたいなもので、
かの名高い「堕落論」はそれ自体は10ページ足らずのもの。
第2次大戦になる前、また突入して、そして終わるという時代背景がある。
多数のエ...続きを読むッセイで、似たようなことも書かれているが、個人的には「デカダン文学論」が一番ぐっときたかなぁ。

まぁしかしあれやこれやを書いて書いて書きまくっている。
各方面同時代作家に対する批評がすごい。
特に夏目漱石に対するディスりようが白眉。
そういうあなたもそれ屁理屈こねこねしてるだけじゃないの、と思ったりするけれど、まぁこの人はこの人なりの信念があってそれをぶらさずただひたすらに書き貫いている、ということはわかる。

つまり、生身の人間の本性、欲望、現実生活に即した欲求、それこそ万歳ということ。

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