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昭和21年4月に発表された「堕落論」によって、坂口安吾は一躍時代の寵児となった。処世術などクソ食らえ。自分にとって恥しくない内なる自己。他者などではない、この〈自己〉こそが一切の基準だ。それと戦い続けること。作家として生き抜く覚悟に貫かれた安吾の視線は、物事の本質にグサリと突き刺さる。(解説=七北数人)
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Posted by ブクログ
新潮文庫の堕落論はすでに持っていますが、「茶番について」を読みたいがためにこちらも買いました。 荘子や大江健三郎を読んだ影響で、自分が今年に入ってから考え続けている「不合理」の正体について、「茶番について」はひとつの着地点を提示してくれました。 早稲田大の入試にも出たようです。 全体としても大変...続きを読む良いエッセイ集でした。
小林よしのりの「堕落論」に触発されて読みました。筆者は「日本は敗戦後、道義が退廃したと言われるが、そうではない。変わったのは世相の上皮であり、人間は変わっていない。むしろ、人間は堕落するものだ。堕落することでしか人間を救う道はない」と主張している。「戦前の人間は立派だった」「戦後日本人はだめになった...続きを読む」といろいろな場面で言われてきたことを考えると、新鮮な主張に感じた。また、東京大空襲についての「猛火をくぐって逃げのびてきた人達は燃えかけている家のそばに群がって寒さの暖をとっており」という記述は、別の本で読んだ「東京大空襲の焼夷弾はうつくしかった」と通じるところがある。今読めば不謹慎に感じるところがあるが、人間は寒ければ暖をとるし、焼夷弾でもきれいなものはきれいに感じるものである。それこそが人間の本性なのだろうか。つまり、堕落せよとは、人間の本性を取り戻せ、ということなのかと解釈した。自分の色メガネで見ずに、見たものを観察、解釈することのは大切さを学んだ。話があっちこっちに飛んで、読みにくかったが、学んだことの方が多かった。
甘ったるい偽善的な装飾を嫌い、徹底してものごとの奥底に光る「ホンモノ」を見つけ出そうとした文豪:坂口安吾。その格闘の軌跡。
短編小説の名手といえば、外国なら、 モーパッサン、チェーホフ、S・モーム、O・ヘンリー、ダール、ポー、 あたりがまず頭に浮かんできますね。 特に、ロアルド・ダールが大好きです。 ヒッチコック映画を観ているようでぞくぞくします。 日本で言えば、 森鴎外、永井荷風、芥川龍之介、志賀直哉、稲見一良、山本...続きを読む周五郎、藤沢周平、 江戸川乱歩、星新一、松本清張 あたりでしょうか? 特に、稲見一良「ダック・コール」は絶品ですね。 で、随筆の名手、特に日本人でいうと、まず筆頭にくるのが丸谷才一でしょう。 その他、内田百間、寺田寅彦、柳宗悦、日高敏隆ぐらいがぱっとうかんできます。 特に、丸谷才一の博覧強記ぶりには舌を巻きます。勿論文章はピカイチ!!! 所が、最近、坂口安吾の随筆にはまっています。 恥ずかしながら、彼の小説といえば 「不連続殺人事件」ぐらいしか読んだことありません。 更に恥ずかしい事に、あまりにも登場人物が多くて 犯人が全くわかりませんでした(⌒-⌒;) その坂口安吾の随筆は小説より面白いと解説文ありますように、 読み始めたら止まらなくなります。明快で読みやすいです。 例えばこうですー 『空にある星を一つ欲しいと思いませんか?思わない? そんなら、君と話をしない。』(「ピエロの伝道者」) どうです?おもしろそうでしょ?そう思わない? そんならあなたと話しない(o^。^o) ざーと目を通し、今読み返しているところですが、 私にすれば多分にこじつけというか、独断的な部分はありますが、 でも、面白いです、是非おすすめします。 そう読みたくない?そんならあなたとお茶でもしましょう\(^-^)/
集英社版の堕落論を読んで、非常に感銘を受けたので他のエッセイも読みたく思いこちらも読んだ。非常に面白く、新たな思想に触れて感銘を受けると同時に、数を重ねる事で彼の思想が立体的に浮き彫りになってきた気がする。非常に首尾一貫した、人間愛者だと感じた。ネガティブなイメージが先行してしまうのかもしれないが、...続きを読む彼の人生に対する態度は、彼が戯作について述べていたような『徹底的な肯定』と通じるものがあり、人生の、人間の汚い面や悪い面なども、全てをぐいと飲み下して肯定してしまう、そう言う奮闘の姿なのだという事がひしひしと伝わってくる。 彼が繰り返し強調する概念の中に見えたのは、肉体性というものをきちんと見据える姿勢だった。教祖の文学の中で、小林秀雄の批判を通して彼が述べていた事は、小林自身が『自分は小説の才能がなく、批評家にしかなれなかった。』と言う言葉と重なる。小林のような徹底的な客観性に基づき、論理と抽象化により、無機質で普遍的な真理を究明していく徹底的な態度と言うものは、事実から肉体性を排除してしまうものであった。坂口安吾は繰り返し、小説とは個別性であり、個人性であると述べ、つまりそれは肉体的な営為であるのだから、この点において、文学者としての坂口安吾と批評家としての小林秀雄が、このような対照をなすと言うのは当然のことなのだろう。私は小林秀雄が非常に好きだが、文学と言うものを考えた時に、坂口安吾の言うような地に足のついた、肉体性に根ざした感覚と言うものを大事にしたいと感じる。 青春論で述べられていた淪落的な生き方もそうなのだが、やはり坂口安吾と言うのはどこまでもまっすぐで、人生に誠実であったのだというのを感じた。死んだら終わり。それまで。そう言う風な考え方を徹底している。勿論、現代の人間においては特にだが、社会的動物としての人間が個人の死によって完全に消滅するかと言う観点から見るとそれは肯定できるものではないが、この言葉をそう言う風に字面どおりに受け取るのは違うと感じた。つまりその言葉は、彼の『生きている時間は少しでも大切にしなければならない』と言う、人生に対する真摯な態度を何より象徴しているのだと思った。彼が作中で述べたように、彼は女性が老いて美を失う事を恐れるような感覚は持っていなかった。老いというものが彼にとってはそう大した問題でなかった。だが、女性のそう言う態度を肯定し、そのような、時間を惜しむ人生と言うものに価値を見出している。だから彼は自分の生命を、女性にとっての美と同値に考え、女性が老いを恐れるように死を恐れようとした。若さに縋るのではなく生命に縋り、生きている時間と言うものをどれだけでも濃密なものにしようとした。そう言う必死でがむしゃらな態度こそ、彼が繰り返し肯定していた、肉体的な生き方であった。芸術は長く、生命は短い。だが、長さは決して価値と同義ではない。どこまでも『自己』を出発点として、ブレずに世界と向き合おうという姿勢には、我々の学ばなければならないものが多分に潜んでいると思う。
安吾の作品について語ろうとすると、どうしても安吾について語ることになってしまう。 私にとって、こういう作家はほかにいない。 安吾の文章は、安吾の血肉なのではないかと思ってしまう。 そう思うくらい、私は彼と彼の作品を区別できない。 「文学のふるさと」「日本文化私観」が好き。 ドライアイス工場を美...続きを読むしいと思う安吾を、私は愛します。
9/23 どちらかというと「日本文化私観」に安吾のすごさがある。 終戦後とはいえ、あんなことよく言えたもんだ。
エッセーとしてとても面白かった。 共感できる部分が多く、わかるわあ、ってさせられたので、エッセーの文章としてのクオリティが高いんだと思う。 基本的なスタンスとして、自分に正直であれ、曝け出せ、くだらない体裁が一番ゴミだ、っていう感じなので読んでて気持ちいいよね。元気が出る。
自己啓発やら有名人の名言やら科学的にどうとやら 上に向かっていこうぜっていう本が多い現代。 それ自体は良いも悪いもないのだが、肉ばかり食ってないで魚も食わないとバランスが悪い。 堕落論には、そうゆう役割もあると思うし、そうでなくとも単純に読み物として面白い。でもどう見ても野菜ではない内容である。...続きを読む 戦争を経験しながら、多くの人とは違う視点で生活してきた著者の魅力が詰まっている。それでいて、これをこの時代に言ったのか。という一言に尽きる。何度も読み返したい。
坂口安吾(1906-1955)の代表的な評論を収録したもの。安吾は「生きる」ということに対して常に誠実であろうとした、という強い印象を受ける。「生きる」ことの根底にある人間の絶対的な孤独や哀しみから眼を逸らそうとする欺瞞的態度に徹底的に抗おうとする、安吾の精力の甚だしさを感じさせる。 □ 無意味 ...続きを読む 意味には、それを意味として成立させるために、ある特定の方向、傾斜、偏り、限定、則ち文脈が、前提されている。そこには、身体によって条件づけられた存在である人間の下部構造が、反映されているのだろう。この文脈によって、ある特定の目的や効用が方向づけられる。この目的や効用によって、一切は評価され位階化される。金、性、虚栄、道徳といった指標は、こうして意味化された空間における座標の役割を果たす。 無意味とは、こうした一切の文脈、目的、効用、評価、位階化から解放された状態ではないかと思う。つまり、無意味とは一切の肯定のこと。と同時に、無意味は、意味の陰画として実体化=意味化され得ない、意味以前として位相化することもできない、外部にあるとも内部にあるともいえない、そういった如何とも規定し得ない境位であろう。 人間には、ある特定の意味秩序を人間よりも上位においてそれを特権化、普遍化してしまっては決して捕捉しきれない、そういう一切の意味秩序から切断されてもなお残る過剰さがある。安吾のいう「文学のふるさと」というのは、それを指しているのではないかと思う。 「私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、然し、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか」(p92「文学のふるさと」)。 「この三つの物語が私達に伝えてくれる宝石の冷めたさのようなものは、なにか、絶対の孤独――生存それ自体が孕んでいる絶対の孤独、そのようなものではないでしょうか」(p99同上)。 ここで安吾が言う「ふるさと」とは、逆説的に「ふるさとの不在」のことではないかと思う。家に帰るときほど、自分という存在の所在なさを痛切に思い知らされることはない。通常ならば、家は最も安心できる場所、自分が自分自身に戻れる場所であるかのように思われがちだが、その家こそ自分にとって余所余所しく場違いなところであると知ってしまったら、家だと思っていたところが実は家ではないと気づいてしまったら。孤独であるということ、帰るべき場所などないということ、世界のどこにも根を下ろせないということ、それは人間が決して逃れることのできない存在論的な前提条件であろう。 「「帰る」ということは、不思議な魔物だ。「帰ら」なければ、悔いも悲しみもないのである。「帰る」以上、女房も子供も、母もなくとも、どうしても、悔いと悲しさから逃げることが出来ないのだ。帰るということの中には、必ず、ふりかえる魔物がいる」(p130「日本文化私観」)。 □ 小林秀雄批判 無意味を、一切の接続から解放された単独者として現実の煩わしい意味からの逃走として夢想する私にとって、安吾による小林秀雄批判は耳に痛い。自分が好む文学や芸術も、古典をはじめその作者が既に死んでいる作品がほとんどだ。 「生きている人間なんて仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言いだすのやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ、他人事にせよ、解った例しがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。其処に行くと死んでしまった人間というものは大したものだ。何故ああはっきりとしっかりとしてくるんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」(p342「教祖の文学」)。 と「無常といふこと」で書く小林に対して、安吾は次のように書く。 「生きている人間というものは、(実は死んだ人間でも、だから、つまり)人間というものは、自分でも何をしでかすかわからない、自分とは何物だか、それもてんで知りやしない、人間はせつないものだ、然し、ともかく生きようとする、何とか手探りででも何かましな物を探し縋りついて生きようという、せっぱつまれば全く何をやらかすか、自分ながらたよりない。疑りもする、信じもする、信じようとし思いこもうとし、体当り、遁走、まったく悪戦苦闘である。こんなにして、なぜ生きるんだ。文学とか哲学とか宗教とか、諸々の思想というものがそこから生れて育ってきたのだ。それはすべて生きるためのものなのだ。生きることにはあらゆる矛盾があり、不可欠、不可解、てんで先が知れないからの悪戦苦闘の武器だかオモチャだか、ともかくそこでフリ廻さずにいられなくなった棒キレみたいなものの一つが文学だ」(p345ー346同上)。 安吾は人間の背後に虚無をはっきり自覚しながらそれでもなお現実のほうを向き、私は現実に背を向けるために虚無に隠棲しているだけなのか。 □ 天皇制という欺瞞 天皇制および天皇制を一貫して保持し続けてしまっている日本の歴史の欺瞞的な実相が、実も蓋もなく描き出されている。 「[略]、天皇制自体は、真理ではなく、また、自然でもないが、そこに至る歴史的な発見や洞察に於いて軽々しく否定しがたい深刻な意味を含んでおり、[略]」(p222「堕落論」)。 「天皇制というものは日本歴史を貫く一つの制度ではあったけれども、天皇の尊厳というものは常に利用者の道具にすぎず、真に実在したためしはなかった。/藤原氏や将軍家にとって何がために天皇制が必要であったか。何が故に彼等自身が最高の主権を握らなかったか。それは彼等が自ら主権を握るよりも、天皇制が都合がよかったからで、彼らは自分自身が天下に号令するよりも、天皇に号令させ、自分がまっさきにその号令に服従してみせることによって号令が更によく行きわたることを心得ていた。その天皇の号令とは天皇自身の意志ではなく、実は彼等の号令であり、彼等は自分の欲するところを天皇の名に於て行い、自分がまっさきにその号令に服してみせる、自分が天皇に服す範を人民に押しつけることによって、自分の号令を押しつけるのである」(p235「堕落論〔続堕落論〕」)。
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