坂口安吾のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
原作から読もうと思ってちょっと読んだけど、難しかったからやっぱり漫画から。
戦時中は、お国のためにとか、天皇のためにとか、そういったもので国が一丸となって取り組んでいるということに美学を感じていて、それが「美しい」と言っているけど、そんなのはむなしい「美しさ」であって、真実の美しさではないと。じゃあいったい人間の正しい姿って何?ってことを言っています。
で、じゃあそれは?というと、欲しいモノを欲しいと言い、好きなモノを好きとい言い、嫌なモノを嫌いと言い、好きな人を好きと言う、という本当にしたいことをすることなんだよってことです。
戦争だって本当はしたくないのに、天皇の命令だから、それが国のためだからって言って、さもしたいことのように言っているけど本当は違うでしょ?そんなことやめようよ!って話でした。
それが安吾の言う「堕落」らしいです。深い。原作読んで深そうって思って漫画から読んでみたけどやっぱ深かった。耐乏の精神とか、神風とか、すべて歴史的大欺瞞だと。天皇制も歴史的カラクリでしかなく、天皇がしたから〜とか言って天皇を利用しているだけだと。
こんな考えしたことないわ〜。
そして最後の結論もおもしろい。この歴史的カラクリ、歴史的大欺瞞に気づいても、人間は落ちきれない存在で、結局このカラクリに頼ってしまうという。
だから歴史は繰り返されると!
漫画でも理解困難だったし。。。 -
Posted by ブクログ
14冊目。
表題作、他4編。『白痴』(新潮文庫)と収録作が2作被ります。
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私はもはや恋をすることができないのだ。あらゆる物が「タカの知れたもの」だということを知ってしまったからだった。
ただ私には仇心があり、タカの知れた何物かと遊ばずにはいられなくなる。その遊びは、私にとっては、常に陳腐で、退屈だった。
満足もなく、後悔もなかった。(『私は海を抱きしめていたい』)
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こう書いておきながら、一方で女に
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然し、恋の病的状態のすぎ去ったあと、肉体だけが残るわけではありますまい。
私は恋を思うとき、上高地でみた大正池と穂高の景色を思い出すのでございます。
自然があのように静かでさわやかであるように、人の心も静かでさわやかで有り得ない筈はない、人の心に住む恋とても、あのように澄んだもので有り得ないことはなかろうと(中略)
けれども、私の願いなのです。夢なのです。(『ジロリの女』)
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こう自分の気持ちを仮託させる安吾が大好きです。
最後に、再読して響いた『私は海を〜』の不感症の女にどはまりしていく男性の一節を。
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肉慾の上にも、精神と工作した虚妄の影に絢どられていなければ、私はそれを憎まずにはいられない、私は最も好色であるからこそ、単純に肉欲的では有り得ないのだ。
私は女が肉体の満足を知らないということの中に、私自身のふるさとを見出していた。
満ちることの影だにない虚しさは、私の心をいつも洗ってくれるのだ。
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こんな好色男になりたいや。 -
Posted by ブクログ
2014/6/19再読。
安吾がすきといいながらも全然手をつけてなかったエッセイ集に手を出してみけり
なんかあれ思い出した
ひょっこりひょうたんじまの
「泣くのはいやだわらっちゃお!」
ってやつ
「文学のふるさと」すきだなぁ
「それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身は、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。」
「青春論」「欲望について」もすき
「もとより遊ぶということは退屈のシノニムであり、遊びによって人は真実幸福であり得るよしもないのである。然しながら「遊びたい」ということが人の欲求であることは事実で、そして、その欲求の実現が必ずしも人の真実の幸福をもたらさないというだけのことだ。人の欲求することろ、常に必ずしも人を充たすものではなく、多くは裏切るものであり、マノン、侯爵夫人も決して幸福なる人間ではなかった。無為の平穏幸福に比べれば、欲求をみたすことには幸福よりもむしろ多くの苦悩の方をもたらすだろう。その意味に於いては人は苦悩をもとめる動物であるかも知れない。」
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Posted by ブクログ
坂口安吾は天才だという。そうかもしれない。この文章は誰のものでもなく、独特のものがある、と昔感じたが今はまた違った意味ですごいなと感じる。文庫には解説がついているが、多分そのとおりなのだろうが、今この小説が書かれてから60年もたっていても何か現代に訴えるものがある。と思う。白痴には怒りがある。戦争のくだらなさに、それによって自由な表現を奪われたことにも、「気違い」「白痴」といっている町の人々もまた「気違い」であり、本能と欲望のまま生きる「白痴」は死をすぐ傍らのものとして生きているとき最も純粋に感じる。書いた作者が何を表現しようとしたかは多分解説のとおりなのだろうが、それを読んで何を感じるかは読む読者のものだと思う。何かを感じさせるということ、それが出来ることがまたすごいと思う。「井沢は女がほしかった。女がほしいという声は井沢の最大の希望ですらあったのに、その女との生活が二百円に限定され、鍋だの釜だの味噌だの米だのみんな二百円の呪文を負い、二百円の呪文に憑かれた子供が生まれ、女がまるで手先のように呪文に憑かれた鬼と化して日々ぶつぶつ呟いている。胸の火も芸術も希望の光もみんな消えて、生活自体が道ばたの馬糞のようにグチャッグチャに踏みしだかれて、乾きあがって風に吹かれ、飛び散り跡形もなくなって行く。つめのあとすら、なくなって行く。女の背にはそういう呪文が絡み付いているのであった。」安吾の結婚観は正直痛い。痛すぎる。「青鬼の褌を洗う女」は女の一人称で書かれているが、これも傑作だと思う。性には執着しないが生きることには執着のある女、オメカケさんになりそれなりに誠実にオメカケさんをやっている。母親の死を束縛からの解放と感じ、戦争や破壊は嫌いだが破壊のあとに新しい何かが生まれると感じている。そして自分の中に母親の姿を見つけうんざりしている。彼女のあっけらかんとした、それでいて何かのんびりとした人生観は今の若い子に共通しているように感じる。「ニート」の意味がいまいち把握できていない。「パラサイト」とどう違うのか。彼女は「ニート」なのではないかと思うのだが・・・。でもオメカケさんという職業婦人だというのだから違うのだろうか。2005・12・1