宮崎哲弥のレビュー一覧
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通常あまり使わない言葉を集め、例文でその使い方を指南する面白い本だが、ほとんどの語句の意味は分かった.何度も強調していたが、敗戦時の国語改革として常用漢字を作り、ルビを廃止したことは、本当に思慮のない世策だった.障害者に害という文字があるため、障がい者を書くようになったが、もともと障碍者と書いていた.碍は、さまたげる、さしつかえる、さえぎる と言う意味があり、「病や怪我などが、自在に何かをなそうとするのをさまたげている」 という意味になる.障碍者という書き方を復活させるべきだ.ほんとにそう思う.憤ろしい(いきどおろしい)、恣にする(ほしいままにする)など、かなり難しい語句もあったが復習して使えるようになりたい.
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序章
鈴木敏夫 スタジオジプリプロデューサー
鈴木敏夫は「風の谷のナウシカ」の制作背景やそのテーマについて語っている。彼は、作品が発表された当時の社会的・環境的状況がどのように影響を与えたのかを考察し、ナウシカというキャラクターが持つ強い意志や優しさが、現代においても重要なメッセージを持っていることを強調している。
風の谷のナウシカの題材は『新諸国物語』(NHK ドラマ1952年)。
ナウシカが旅をして、見聞きしたものによって、読者が世界の秘密を知っていく。宮崎駿は「勧善懲悪」が好きで、それが「自然を守る人がいいひとで、自然を破壊するのは悪人」と言う物語にした。
赤坂憲雄の『ナウシカ考 風の谷の黙示録』を読み、宮崎駿は「おもしろいね。俺ってこんなもの書いていたんだ」と言った。他者からの深い考察が、作者に新たな気づきを与える。
映画では「腐海は自然の象徴で、腐海こそが人類を救う」と謳ったのに、第7巻で「腐海や王蟲が、実は人間の文明が作り上げた人工的な生態系だった」ことが明らかになった。物語全体の構図がまるで変わってしまった。
ナウシカは、本来、風の谷の500人のために闘った。そして、もののけ姫のアシタカは「個人的な理由で戦う主人公」となった。宮崎駿は、どんどんと変わっていく。
杏 俳優
時間の経過とともに死生観や価値観が大きく変わる。そういう時代に生きている。ナウシカは「母は決して癒されない悲しみがあることを教えてくれましたが、私を愛さなかった」という。母は絶対的な存在でなくていい。巨神兵は、ナウシカを母親と思い込んだ。そして王蟲はナウシカを守って死んだ後、「母は私を愛さなかったけれど、オーマは私を愛してくれた」とナウシカはいう。母と娘の関係が全く違うものがある。
叶精二 映像研究家
アニメーションが前提でない『風の谷のナウシカ』、コミック版。なるほど。
連載中に、東西冷戦の終結、ユーゴースラビアの内戦など衝撃的な事件があり、影響を受けている。
小泉悠 軍事アナリスト
現実のウクライナとナウシカの世界、戦争の「ネイチャー」は変わらない。核戦争による世界の破滅は、ウクライナでは現実のものになるかもしれない。戦争を経験した世代、戦争を経験した世代を親に持った世代、戦争を知らない世代。世代によって、大きく戦争の捉え方が違ってくる。
『宇宙戦艦ヤマト』『ウルトラマン』は、作り手の戦争体験が塗り込められている。
庵野秀明は、『宇宙戦艦ヤマト』『連合艦隊』に影響を受け、『エヴァンゲリオン』を作っている。
戦後の日本では、戦争の悲惨さや反戦が訴えられたが、戦争そのものを真正面から描きにくかった。それがサブカルチャーの一部がになった。日本人には「敗戦で自分たちの国は、一度滅びてしまった」という感覚がある。
ナウシカによって、「滅びはやってくる可能性がある」「文明が滅びた後はこうなる」を知らされる。小泉は、戦争が、悲惨であるにもかかわらずかっこよさがある。「人間は本来、こんなひどいことをするはずはない」と小泉は言いたくもないという。宮崎駿は、兵器や飛行機の時として持つエロティックな美しさに魅了されているところがある。戦争の実相は、巨大な悲惨が人々を襲い、世界が破滅の淵に追いやられていくこともある。
川上弘美 作家
ナウシカは不思議な人。自分を傷つけるクシャナ、敵国の人々、深井の動植物など自分の周囲に来たものを全部守ろうとする。ナウシカは、物語の中でみんなを繋ぐ絆になっている。ちょっとした破綻、なんでこんな文章がという驚きや作者自体が制御できないものが雑音としてあっても、ノイズがあることは避けられない。それも受け入れることだ。
精一杯生きること、自らの死を認めることは、両立する。原発の使用済み核燃料は10万年も危険な放射能を出し続ける。その間、人類が確実に存続し、責任もって保管し続けられると考えること自体がおかしい。「滅びはあり得ない」と信じ込もうとしているのではないか。
ボーヴォワールは「人おのおのは死にますが、人類は死ぬべきものではないことを我々は知っています」というが。川上弘美は「人類の未来を自然に委ねる」という選択をする。確かに、『風の谷のナウシカ』は、単純な物差しで測れるようなシロモノではないのだね。
福岡伸一 生物学者
老いるからこそ、死ぬからこそ人は美しい。環境の全体のバランスを考え、人間に害を及ぼしかねない存在とも共存していく。ナウシカは人類のことを「大地を傷つけ、奪い取り、汚し、焼き尽くすだけの、もっとも醜いいきもの」としている。
竹宮恵子 漫画家
物語が始まった時「これから何かが違う世界が始まるんだ」ナウシカはあまり言葉で説明しない。ナウシカの世界でも、たとえ人工的に作られたものでも、生命は常に変化し、創造主の意図を超えていくとして描かれた。素晴らしきディストピアの拒絶があり、それでも自分の意思で生きようとする。
鈴木涼美 文筆家
『娼婦の本棚』を書いた著者は、夜の街=腐海に生きている。腐海に生きる蟲たちは美しい。闇があって光がある。悪の方に魅力を感じる。ナウシカは生に執着せず、死の恐怖がない。
河野真太郎 英文学者
ナウシカは戦う力と、腐海の真実に気づく科学的知識を持ち、包み込むような母性とカリスマ性のない混ぜになった女性。族長の父は「男であったら何もいうことはない」という。
クシャナは、母親が、王家の陰謀の犠牲、家父長制の犠牲になって心を病んだことへの怒りを動機に、父王や兄王子たちと戦ってきた人。女性性を捨て、男性性を獲得しなければならなかった。
ナウシカの物語は、「自然を守ればそれでいい」という考え方とは、異なる思想。
大木毅 現代史家
戦争では多くの住民が飢えや病気で死んでいく。ナウシカは「なんという戦争、いかがわしい正義すらかけらもないなんて」という。戦争はそのような残虐性を持っている。
赤坂憲雄 民俗学者
ゴジラは1954年に発表された。ゴジラの映画には、科学やテクノロジーへの信頼がある。ゴジラを最終的に葬るのは、一人の科学者の自己犠牲。それは宮沢賢治の『グスコーブドリの伝記』の主人公の姿と重なる。ナウシカは、最先端テクノロジーが暴走し、地球環境を破壊してから1000年後の世界。科学や文明への信頼が裏切られていく時代を予感しながら作られている。「何が起こるか分からない」という不気味さ、不安の中に置かれている。ナウシカの世界が、とてもリアルに感じられる時代へ運ばれつつある。
ナウシカの物語は、宮崎さんの巨大な無意識が充満している。それが最大の魅力。宮崎駿はいう「こういうふうにしたい、じゃなくて、こうなっちゃう、ものを作る主体というより、ただ後ろ方くっついていっただけ」
権力に善意は期待できず、権力そのものを無化する仕掛けを作り出すしかないという作品。
王という存在は必然ではない。首長というのは、部族の人々に隷属を求める権力ではなく、むしろ、言葉によって自分の権力を絶えず無化していくことを求められ、それを理念や義務として積極的に引き受ける。ナウシカは、人々に命令を下すことはなく、権力を持たず、深い思索に裏打ちされた言葉だけで人々を励まし、なだめ、導き、ひたすら調停者としての役割を果たそうとする。宮崎駿は「虫愛づる君」に、自らの知性と探究心で腐海の謎を解き明かす役割を与えた。
民主主義は、権力の毒や腐敗を知る人が作り出した暫定的なシステムである。愚かにして美しい人間を完全にコントロールはできない。ナウシカの物語は、それぞれがれっきとした価値を持つ声たちによる真のポリフォニー(多声音楽)が本質なのだ。いやはや。ナウシカを読み解く力の深いことよ。
もう、ナウシカの物語は、実に多面的な見方ができる。いろんな問いかけがあり、考えるきっかけになるいい本である。なぜか、頭の中の芯を熱くする。 -
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宮崎哲弥(1962年~)氏は、慶大文学部社会学科卒、博報堂嘱託研究員、中央大学非常勤講師、京都産業大学客員教授等を経て、相愛大学客員教授。研究開発コンサルティング会社・アルターブレイン副代表。多数のメディアに出演する、評論家、コメンテーター。
私はこれまで、著者の本では、随分前に『新書365冊』(2006年)を読み、それを参考に何冊かの新書を手に取った記憶があるが、所謂書評本であるその本のクオリティについては考えたことがなかった。ところが、最近たまたま松岡正剛の伝説の書評サイト「千夜千冊」を見ていたときに、『新書365冊』が取り上げられており(そもそも、書評のプロである松岡氏が自らの書評サイトで書評本を取り上げること自体、前代未聞と思われる)、しかもその中で「365冊の新書をずらりと並べたことにも驚くが(とりあげられた新書からみて、すべてはこの数年の読書なのである)、そのすべてに付された10行から50行ほどのコメントが、ただものじゃない。・・・本書を読んで、宮崎哲弥という人物の本の読み方は並大抵ではないことがすぐにわかった。このあと少し紹介するけれど、すこぶる適確な読書力と判断力をもっている。」とべた褒めで、また、「すぐれた批評家は、その多くがすぐれた熟語を発する編集能力の持ち主でもある。宮崎も本書のなかで、適宜、巧みな熟語をもって一冊の内容をしばしば切り取っている。」と、その言語力に触れていたのだ。(残念ながら、それを知ったときには、同書は既に手放してしまっていたのだが。。。)
そして、そのことが頭に残っている中で本書を書店で目にし、躊躇うことなく入手した。
拾い読みをしてみると、私としては、収録されている言葉の7~8割が「理解語彙」(=文章を読んだり、話を聞いたりしたときに意味のわかる言語群)で、2~3割が「使用語彙」(=実地で書いたり、喋ったりして、能動的に使うことのできる言語群)のような感触を持ったが、そのバランスもよく、また、語彙事典のようにシチュエーションや言葉の意味から調べられるだけではなく、前から順に読んで行けるような工夫された記述になっているので、一度通読してみたいと思う。
また、私は近年、短歌を詠み始め、気の利いた語彙(特に和語の)を増やしたいと思っているのだが、本書では漢語だけではなく和語も多く含まれているので、参考になりそうである。 -
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冒頭にハリラの仏教についての記述を紹介しているが、的確な指摘の連続で、イスラエルの歴史学者がここまで仏教を理解していることに宮崎は驚いているが、私もハリラの分析力に感心した.本論に入ると、宮崎と佐々木の討論が始まるが、宮崎が次々と繰り出す論点に佐々木は冷静に対応しているが、読者からすると、宮崎の知識の開陳の連続という感じがした.釈迦が実際に述べたことを忠実に伝えているとされる文書はほぼ確定されたようだが、研究は緒に就いたばかりという感じだ.「仏」、「法」まで読んだが、難しい!日本にはびこっている鎌倉仏教との相違点だけを重点的取り上げて欲しい.日本の仏教と釈迦の原点はかなり異なっている感じがする.
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『家栽の人』の「少年」に対する姿勢は明瞭で、桑田判事の次のような言葉に集約されます。
「どんなに厳しく罰しても少年はいつかは出てきます。誰かの隣に住むんです。その時少年が笑っていられるように考えるのが大人/司法の役割ではないでしょうか」
加害少年の幸せを望むかのこの桑田判事の言葉は一見甘く聞こえるけども、「笑っている(=幸せ)」というのは「再犯を犯さない」状態も指しているわけで、これは社会にとっても望ましいこと、つまり公益に即しているとも言えます。
ただこの更正と教育を基本とする考えは、厳罰を望む被害者・被害者家族の感情と対立することが多いでしょう。特に殺人などの回復困難な重大犯罪の場合、被害者側は突如こうむった理不尽に対し、加害者への厳しい処分にせめてもの慰撫と納得を見い出さない限りは、人生への復帰もままなりません。「応報感情を満たす」という意味合いではなく、犯罪によって「社会」が受けた傷を修復するという観点から、懲罰的処分にも必要性は認められるべきでしょう。問題は、加害者の人生への復帰と、被害者の人生への復帰が対立した場合、どちらを優先させるのか。残念ながら『家栽の人』の視界には犯罪被害者の存在は入っておらず、こういった論点は示されていませんでした。
あと欠けていると感じたのは、加害者と社会との利益対立という問題。公益といっても、被害者感情にのっかる形で犯罪者叩きをしたがる世論を満足させることではもちろんありません。要は「犯罪者が犯した罪に相当する罰を受けていないと、社会のモラルは劣化する」という考えに基づく対立軸です。
100万盗んで使い切り、刑事罰が罰金10万。
こういう超極端な事案を想定してもらえばわかりやすいでしょうが、単純に罪に対して罰が軽ければ「やり得」ということになってしまいます。少年犯罪に限らず、ルールを破った者が得をして、ルールを守った者がバカを見る社会になっては、秩序と倫理は崩壊します。「悪いことしたらバチが当たる」という原始宗教的な観念の代役を司法に求めるのは筋違いかもしれませんが、実効性を持つ以上は、期待はしてしまうものです。
ちなみに『少年をいかに罰するか』は決して厳罰化か現状維持か、あるいは懲罰か保護教育かといった単純な対立軸で議論されたものではなく、どっちかと言えばもっと根本的な法理念とそれを適正に運用するためのシステム構築に関する議論が主体でした。一部法曹関係者からは空理空論という批難を受けたようですが、評論家とジャーナリストという、第三者的立場だからこその提言も多く、興味深かったです。