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日本人は性格的に議論が苦手というよりは、言語の性質上議論が難しいらしいね。言語というものが性格を形作るのかどっちが先かわからないけど。
私も嫉妬したことない。自分が望んで無いものが上の人はそもそも興味無いし、自分が望んでるものだとしても、自分はそれに対して死ぬ気で後悔が無いぐらい努力してるから、それでかつ、自分より上なら尊敬にしかならない。これって人と比べないというのもそうだけど、自己肯定感の高さとかも関係あると思う。
森博嗣の本読むと、普通の人はそれはそれだと何も考えずに受け入れる所を、ことごとく全ての事を自分の頭で考えてるんだろうなという印象を受ける。小さい頃にものをバラバラに分解することが遊びだったって言ってたけど。それはモノだけじゃなくて社会通念とか目に見えないことに関してもバラバラにして考え直してるんだろうなと思う。
当たり前のことも森博嗣独自の解釈で語られてるの見ると、そういうことかみたいに良い意味でゾッとすることが多い。
森博嗣 もり・ひろし
1957年愛知県生まれ。工学博士。某国立大学工学部建築学科で研究をするかたわら、1996年に『すべてがFになる』で第1回「メフィスト賞」を受賞し、衝撃の作家デビュー。以後、続々と作品を発表し、現在までに300冊以上の著書が出版され人気を博している。小説に『スカイ・クロラ』、『ヴォイド・シェイパ』、『ダマシ×ダマシ』、『青白く輝く月を見たか?』など。エッセィに『自分探しと楽しさについて』、『小説家という職業』、『科学的とはどういう意味か』、『孤独の価値』、『作家の収支』、『夢の叶え方を知っていますか?』などがある。
とまあ、そういう概念的なこと、抽象的なことを書いても、ピンとこない人が多いことと思う。僕自身は具体的なものが大嫌いで、抽象的なものをいつも求めている。けれど、世の中は大半は、具体的でないと話さえ聞いてもらえないようなのだ。 たとえば「どんな仕事をしたいのか」と尋ねると、ほとんどの人は既に存在する職種を具体的に答える。さらに、自分の知った人が実際にしているものが、憧れの仕事として認識されている。そんな場合が多い。 世の中で大成功をして大金持ちになった人というのは、たいてい、それまでなかった仕事を始めた人である。誰もやっていなかったことを発想して実行したのだ。これなんかが、道のないところへ踏み出したフロンティア精神といえる。
都会とゲームの中ではそのとおりかもしれない。でも、現実の世界をよく見てみよう。世界には、都会でないところの方がはるかに広い。現実はゲームのようにお膳立てされていない。
逆に、馬鹿に大袈裟に(しかも必要以上に繰り返し)伝えられる情報は、実は大したものではない。大騒ぎさせて、誰かが儲けようと仕掛けているだけのことで、慌てるような事態ではない。「もうすぐ○○が品薄になるから今のうちに買っておけ」といった情報は、まちがいなく宣伝である。真に受けると、高いものを買わされるだけだ。
なんでも良いから、毎日こつこつと続けていると、この自分の変化を頻繁に観察することができるし、小さな自信が毎日生まれる実感がある。べつに、大したことではない。毎日ジョギングをしても、毎日庭いじりをしても、毎日本を読んでも、なにをしても、自分に変化がある。「こんなに走れるようになった」という実感である。 仕事である必要は全然ない。仕事なんて、人生における主目的ではない。仕事は道の一つにすぎないし、不可欠なものでもない。生きていく目的というのは、むしろ自分の変化を楽しむ方にある、と僕は感じる。
ビジネスにおいても、道具は非常に重要だ。道具にばかり凝る人間を「道具道楽」とする向きもあるが、上手く嚙み合うことがないわけではない。道具によって人生が変わることだってある。少なくとも宝くじを買うよりは、道具を買った方が期待値が高い。ときどき、ちょっと高価なものを求めるのも良いと思う。素晴らしい道具は、機能的な満足度だけではなく、使う人間の背筋を正す効果があるものだ。
折合いとは、譲り合いみたいな意味だ。妥協といっても良い。理想のとおりには生きられない。それは、森林の中に道を通すのと同じで、どこに道を通せそうかと見定める眼力、あるいは思考力が必要になる。理想というのは、妥協によって部分的に可能になるものだ。この折合いによって、夢が現実へと導かれる。
中学生のときはワンゲル部だった。ワンゲルは山とは限らないけれど、でもだいたい山道を歩く。登山部よりは少しだけソフトな感じ。山に登ると本当に気持ちが良く、これは登った人にしかわからない感覚だろう。ただ、山道というのは、山の頂上へ向ってほぼ一本道で、多くの場合、行き着いたあとには同じ道を引き返さなくてはいけない。いささか虚しい行為だけれど、それでも、多くの人たちが山登りに魅了されていて、危険を顧みず臨む人だって沢山いるのだから、よほどのことなのだろう、と思ってほしい。
楽しいことは、「発想」から生まれるものだ。他者が持ってくる面白そうなものに飛びつくだけの人生では、真の楽しさを知らずに終わることになる。そういう人は、誘われることでしか楽しめない。誘われるようになるにはどうすれば良いのか、と悩んでばかりいる。そのうち、誘ってくれないのは相手が悪い、と周囲を憎むようにもなるだろう。
数日まえに、奥様(あえて敬称)と二人で、二千キロほどのドライブをしてきた。四日かけてである。これだけ走ると、けっこう風景が変わるものだ。風景が面白いのは、老人の特性で、僕たちはもちろん老人である。 娘と犬たちが留守番だった。僕はこういうときに、簡単な遺書を書いて出かける習慣である。いつ死んでも良いと思っている。綺麗事ではなく、本当にそう信じている。
僕は、病院に何十年も行っていない。風邪薬も頭痛薬も一切飲まない。苦しいときは寝ることにしている。眠れないくらい苦しい病気も幾つかしたけれど、救急車を呼ぶまえになんとか治った。一番酷いときは三日間苦しんだ。もう諦めようかと思った頃に少しずつ良くなり始め、もしかして、まだ生きられるのかな、と思ったのを覚えている。 そんな僕であるから、もし具合が悪くなったら、とにかく、痛みや苦しみを避ける治療をしてもらうことはあるだろう。でも、病気を根本的に治してほしい、とは思わないし、また、この治療をすれば寿命が延びる可能性がある、といったものもご免だ。だから、健康診断も不要。 ようするに、延命治療は望まないということである。それから、もし合法になったら、是非とも安楽死で死にたいとも考えている。自分の判断で死ねるのは、大いなる自由だと思う。僕の場合、これは若いときからの希望だった。ただ、人にはすすめない。人は皆、それぞれ自分の生き方があるだろう。それが自由だ。
実は、僕は「嫉妬」という体験がない。嫉妬の意味は知っているけれど、自分がその立場になったことがない。また、他人を羨ましい、妬ましいと思ったことが一度もない。 たとえば、お金持ちを羨ましいとは思わない。お金持ちになりたい人だったのだな、と思うだけだ。みんなが自分の欲望を自分の方法で実現しようとしている。その欲望は人によってさまざまだし、また方法も人それぞれで違っている。だから僕の場合、羨ましいとか嫉妬とか、そういう他者との比較関係になりえないのである。自分と同じ人間はほかにいないのだから。
こういった価値観は、やはり、価値をシェアしていないから生まれるものだろう。つまり、人と取り合いにならない。欲しいものは、すべて自分の中から生まれてくるのだから、誰かに取られる心配もなく、また、欲しいものは無限にあるので、いくらでも人と分かち合える。 僕は、欲しいものを買うために行列に並んだことがない。僕の欲しいものは、そんなふうに数に限りがあるものではないからだ。誰かが素晴らしいものを持っていても、それが欲しいとは思わない。自分にとって素晴らしいものは何か、と考え、人と同じものを欲しくはない。 悪事を働く人を見ても、困ったことだな、と感じるけれど、腹が立つことはない。それが、その人の欲望と方法なのだなと思い、そういう人がいることを認識し、自分の立場を確認するだけである。
研究者という極端な環境に三十年近く身を置いたためか、僕は本質の価値を学ぶことができた。それは、実社会ではあまりにも異端で、常識外れといえる価値観だろう。でも、今まで一度も裏切られたことがないし、今もそれが間違っているとは全然考えていない。 一般に、極端な考え方は嫌われる。そんなことばかり口にしていると、相手にしてもらえなくなる。だが、そこは、匙加減だ。 本質は飾りとは無関係だ、みたいな極端な価値観は、それだけでは成り立たないにしても、たとえば、スパイスのようなもので、微量でも加わると絶大な効果がある。
英語圏の組立てキットは、今でも文字だけの説明のものが多い。つまり、英語の文章は、それだけ精確に手順を示せるし、読んだ人も、頭でその映像を展開できる、ということだろう。日本人は、これができない。だから、わざわざ立体のイラストをありがたがることになる。 日本語というのは、論理性に乏しい。非常に曖昧な表現しかできない。必然的に、この日本語で思考をする日本人の多くは、論理が苦手で、しかも言葉に拘る。議論をすると、相手の言葉尻を捉え、揚げ足の取合いになってしまう。
教育する側の人も、大多数が勘違いしている。子供になにかをやらせるときに、それを好きになってもらおうとする。
最初は中小企業が儲かっても、いずれ大企業にシェアを奪われるのと似ている。自然界は熾烈な過当競争なのだ、と思い知らされる。自然は、基本的に残酷だ。野生には人情など微塵も働かない。
知識を沢山持っていることが教養だと信じている人がいるが、それは間違いである。有名な格言にもあるが、自分がいかに知らないかを知っていることこそが教養といえる。 知っているから思い上がり、油断をし、そして考えなくなる。もし知識量が偉さならば、人間よりも辞書が偉い。辞書は自分が「知らない」という意識がないし、自分で考えない。だから、教養が高いともいえない。辞書は生きていない。それが、知識というものの限界でもある。「知らない」という意識は、知ろうとする動機になり、ほとんど「生きる」と同じ意味や価値がある。知らないから考え、知らないから努力をし、知らないから知るための努力に心を打たれる。