高橋源一郎のレビュー一覧
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感想を書かなきゃ。それも他の誰とも被らないような。
森巣博の息子の話が出てきた。彼はパーソナリティ障害を患っていて、普通の方法では学校に通えなかった。だけど彼には特別な才能があって、伸び伸びとさせてくれる両親がいて、それから特例で大学入学を認めてくれるような制度ができて。その後の彼は名門校の教授を弱冠二十歳で務めるような人物に。完璧なハッピーエンド。
だけど僕はこの話に、すごくモヤモヤする。
「成功とは他の人の失敗を意味します」というアーシュラ・K・ル=グィンの言葉とも重なるけど、きっとそう上手くいく人ばっかりではないはず。パーソナリティ障害や、それに準ずるようなハンディキャップを抱えて、天才的な数学の才能も持ち合わせず、特別な措置もなされないような人が、大勢いるはず。少なくとも、森巣博の息子のような例は完全に例外的。
自分の好きな小説を、先生の書き置きだけが残る教室になぞらえる比喩が美しかった。いつでも訪れることができて、絶対に先生はどこかにいるはずなんだけど、顔を合わせることはない。昔から置かれているはずの様々なインテリアに、ときどき気がつく。僕にとってそんな教室はどれくらいあるだろう。たまには顔を出さないとな。 -
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ネタバレ■ひとことで言うと?
論語は「人」としての生きる道を指し示すコンパス
■キーポイント
・仁:私 < 公の精神
- 「仁者」に至るのは困難だが、日々の生活で実践することはできる
- 恭・寛・信・敏・恵の実践
- 人を愛する
・礼:人間としての在り方
- 社会を成立させる基盤(すべての基本)
- 「己れに克ち、礼に復えるを仁と為す。」
・「剛毅木訥なるは仁に近し」
- 強い意志があり かつ 素朴であること
- 反対「巧言令色には、鮮いかな仁」
・「子曰く、これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者は、これを楽しむ者に如かず。」
- 楽しいが最強 -
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【感想】
非常に示唆に富む本だったと思う。本としては厚いが、文章が読みやすいため、すらすらと読める。様々な本や詩集等から引用がなされ、戦争というものを多角的な視点から見ることができる。戦争とは、こういうものだと広く一般化されている見方だけではなく、他国からの視点、教科書、詩集、大きな言葉ではなく、ぼくらの世界の中の小さな言葉で語られた戦争等多くの立場からの戦争の語られ方があった。
この本で筆者は、こうこう語られてるけど、これはこういう立場で語られていて、こっちはこういう立場で語られているからこっちが正しいと主張しきる訳ではなく、読者に考えさせる、もしくは著者も考えている道中であり、経過なのかなとも感じた。 -
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中村文則さんのエッセイを最近読んだので、その繋がりで読みました。
太宰治の人となりについてはほとんど何も知らないので、読む前の勝手なイメージでは「気難しく人嫌い」な人かと思っていましたが、作品を読むと「ユーモアの感覚もあって、実際に話せばあんがい話好きな人だったんじゃないか」という印象を受けました。
個人的に良かったのは富嶽百景の一場面で、天下茶屋の2階に寄宿している主人公が店の人間とも親しくなってきた頃、店の若い女性店員が1人で客の相手をしている時に、わざわざ1階に降りて隅でお茶を飲みながら遠巻きに見守ってあげているところです。
そんなにあからさまな優しさを出す感じの主人公じゃないんですが、さりげない描写の中に書き手の優しさが滲み出ているなぁ、と感じました。 -
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ネタバレ2022/08/28予約 11
7ヶ月以上待って読む本。
「両親はわたしを信じたのではありません。嘘であるとこも知っていました。けれども、彼らはわたしを追い込みませんでした。彼らは「信じるという決断」をしたのです。誰かを信じるのは、その人が信じられるからではありません。その人を信じたいから、あるいは、信じる決断をしたからだとわたしは思っています。そして、その決断が、いつかその人に通ずると信じたいからです。見返りがなくても、裏切られても。「信じる」ことは「愛する」ことと同じなんですよ」
これを自分の子どもには心がけなければ。
家族は一過性の集合体。
子どもが巣立つときには執着しない。
嫁にいった娘を、いつまでも自分の家族だと思わないこと。
息子が自死した母親に「彼を二度死なせてはならない。あなたの記憶の光の中で、生き続けさせてください。そしてあなた自身もまた、光の中で生きてくださるように」
逆説的な
あなたがその人のことを忘れない限り、その人は記憶の中で生き続けることができる
と同じだが、とても大切なこと。
身近な人が亡くなると、元気だして、時間が解決してくれるよ、などと言われるが、忘れなくていい、あなたの記憶の中で生き続けてるから、と言われる方が嬉しい。
著者の一貫した意見が伝わる本。
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翻訳家・柴田元幸さんと作家・高橋源一郎さんの対談本です。
柴田元幸さんの翻訳のお仕事に触れたのは、オースターのニューヨーク三部作とミルハウザーをひとつ、といったくらいです。印象としては、「透明な触媒」としての翻訳、です。翻訳者の癖というか、翻訳者自体の声や匂い色、もっというと人となりって、どうしても翻訳された作品からかすかにではあっても感じられがちだと僕は思っていて。それが柴田さんの翻訳だと、翻訳者は薄いフィルターとしてだけあって、外国人の作者のほうを大きく、そして近く感じるんです。翻訳者の存在が、無色無臭っぽい。
柴田さんは翻訳を、原文が自分の中を通り抜けていく通過時間がゼロに近ければ近いほどいい、という考え方を本書で明らかにします。なるほど、体現なさっているなあとしっかり感じさせられるのでした。そして、村上春樹さんとお仕事仲間です。このあたりは、同志、と表現しても良いのかもしれません。
いっぽう、僕にとって高橋源一郎さんのイメージは「競馬に詳しい人で、どうやら作家だ」というところからスタートしています。高校生の頃に日本テレビの深夜番組に出てらっしゃって、その頃の僕は現代作家にうとかったですし、ネットもなかったですから、彼がどういう人なのか知る由がなかった。なので、先入観として、作家の仕事は二の次の人なのかなあと見えてしまっていました。それが、だんだん年月の経過とともに、競馬に詳しい人、というよりも、作家、としての色合いのほうが僕の目には濃くなっていきました。
本書を読むと、序章こそ言わんとしているものがよく伝わってきませんでしたが(序章は、文庫へ版を変えたときに最終章の位置から移したものなので、全体を踏まえて抽象的に述べられている言葉だからはっきり飲み込みづらかったのかもしれません)、エンジンがかかってからは明晰な眼力で「小説」を透徹して見ていることに、読んでいてびりびりくるくらいです。小説のコードに従う従わないか、コードを全否定するのは原理主義であり自爆テロみたいなもの(理想主義で、なおかつ完璧主義なのを原理主義というのですね)、近代文学において強い敵と戦うのが文学のテーマだったがある時期から戦う相手である「権威」が無くなってしまった、自他の分別をはっきりした非対称性の文学とその反対の対称性の文学(対称性の文学のほうが現代日本の文壇で勢いが増してきたのですが、そもそもアメリカ文学のほうでは対称性の性格が強い文学が主流)、リーダーフレンドリーの良さと悪さ……などなど。
しかしながら、これほど厳しい美的感覚で「小説」をとらえてしまうと、自己規制や禁止条項だらけになってきて、書けるものの範囲が狭まりそうです。高橋さんの論理は筋が通っているし、ひとつの立場として見事な高さにまで築き上げられている(そこにはかなりの労力がかけられているでしょう)。だからこそ、オーソリティを持った意見として受け取りやすい。そして、そう無条件に受け入れてしまうと、高橋さんと同じ苦しみを背負ってしまうことになります。
だから、読者は(そして書き手でもあるならば)彼のような見事な論理と美意識も、単にひとつの視座にすぎない、と踏まえたほうがいいと思うのです。本書で語られた、ほとんど隙のない文学論も、文学へ一方向か二方向から強い照明を当てたに過ぎないと言えるかもしれない。上手な光の当て方であっても、自分は自分として、また違った光を文学へ当てて眺めていいのではないでしょうか。高橋さんは、綿矢りささんの短編に非常に感銘を受けたと述べていますが、その感想は、これまでの彼の視座からは見えなかったものが世に出てきたことへの驚きを多く含んでいました。
つまりは、彼を驚かすためには、彼の視座を忠実にトレースしててはいけない。というか、書き手は自分なりに自由であっていい部分はあるので、反論の言葉が見つからないといって、飲み込まなくてよいのです。
といった前提で読む、高橋さんによる大江健三郎論がおもしろい。「言語のセンスがとても変わっている」のは、僕もはじめて読んだときに、文章を追えなくてなんだこれはと思ったから、つよく頷いたものでした。大きい狂気を抱えている人、というのもなるほどと。理知的な人というようなイメージで見られがちですが、高橋さんによれば、無意識のほうがずっと強い人だということでした。
僕はまだ、高橋源一郎さんの小説作品に触れたことがありません。でも、好奇心はつよく持っていますから、そのうち何か手に取ると思います。柴田元幸さんの翻訳作品ではブコウスキーの『パルプ』が積読なので、こちらも楽しみなところなのでした。