はじめの短編「ドライブ・マイ・カー」(のちに映画化され、アカデミー賞を獲得した)で扱っているテーマは、人の心理をよく考えたり臨床心理的な本を読んだりしている人にとってはとても響くと思った。そうじゃなくても、人の心理の機微というものに興味をいだくきっかけとなりうる作品ではないだろうか、と思った。
続いて「イエスタデイ」。若者たちが抱える個人的な(かつ普遍的でもある)問題と彼らは真剣に向き合っている。でも深刻さとは距離を置いている。おそらく意識的に。真剣さに溺れて深刻にならないよう、ときに発せられるユーモアが弛緩を生んでいて、それが読者にとっては意識下で希求していた心理的解決と感じられるだろうと思う(過剰なまで真剣になると体に力が入り過ぎて水の中に沈んでいきます。泳ぐことにも生きることにも、すこしの「弛緩」は必要です)。登場人物たちが会話や語りにユーモアをまじえるのは、もしかすると生存本能によるものなのかもしれない。それはそれとして別のところに置いておいていえるのは、最高の短編だった、ということ。僕はこういう作品が大好物だ。余談的につけたすと、ヒロインの栗谷えりかさんは、生田絵梨花さんを想起させて仕方なかった。いくちゃーん! って想いながら読んでいた。
次の「独立器官」もそうなんだけど、登場人物が過去を回想し、それがその小説の大事な軸になっているというのがある。その回想の過程というものはカウンセリング的なものなのかもしれなくて、そこに読者は癒しを感じていやしないかなあ、と思った。読者は読んだ内容を実体験として受容しなくとも、登場人物が回想する過程を追体験することで自分の未開拓の心領域に道を見つけやしないか。
その次は「シェラザード」。女性と親密な時間を過ごすことには、現実を無効化する意味がある、との箇所が気持ちいい。そのくらい言い得ていると、個人的に感じられた。
続く「木野」については、村上春樹節という感じがした。すらすら書きあがったものではなく直しに時間がかかったようだけど、それでもそう感じられた。重要なテーマである「空虚」というものの解釈に、異化作用があった。「なるほど、そう考えるのか」と肯定的に読んでいくとモノの見え方が変わるようになっている。
表題作にもなっている、書下ろしの最後の短編「女のいない男たち」。鋭いセンスと豊かな技術で饒舌に語られる小説。腕っぷしに魅せられる読書体験。そして、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』や『街と、その不確かな壁』へつながる一角獣というモチーフと喪失というテーマ。これはこれでまた、「木野」とは別の村上春樹節なのだった。彼の実力が自然と生み出すワザのように感じられた。
というわけだが、村上春樹さんの『女のいない男たち』は、各短編の最後には、その物語的に、あるいは哲学的にというか気持ち的にというか、ちゃんと腑に落ちるというように「オチ」がついて終わる構造ばかりだった。こういう形はすっきりするのだけど、僕は近ごろ名づけようのない気持ちや状況などで終わるものに興味があって、ならばまあ自分でトライするといいのだけれど、他者にもそれを求めてしまってるような心持ちがしているのに気づいた。
また、それがステレオタイプと気づかずにステレオタイプなセリフや行動の描写に接すると、読み手にとって負荷が少なく心地よいものなのかもしれないことにも気づかされた。常套句や当たり前のように感じられる考え方などがでてくると、それはステレオタイプなのかもしれなくても、ほっとするところがある。嘘は潤滑油で本音は抜き身の刀、なんて言った著名な心理療法家の方がいたけれど、この場合の嘘ってステレオタイプに寄せる意味を持つ、という言葉だったりしないだろうか。良いか悪いかは別として、人はそれで安心するのだった。
久しぶりの村上春樹作品でしたが、存分に楽しめました。