村上春樹のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレ主に戦後に活躍した日本人作家により短編小説をいくつか取り上げ、その読み方或いは著者の解釈を提示してくれている一冊。著者自身の経験も踏まえながら、テキストを通じて、「著者はこういう人だったのでは/こういう意図があったのでは」等を思考を深めていく過程に本書の価値があると考える。例えば、素人の読者(自分で作品を書かない人という意味)は書かれてあることを中心に物語を理解しようとするが、これを小説家である村上春樹が読むとむしろ「書かれていないこと(或いは書けなかったこと)」こそに注目するということ。本書のどこかに記載があった「なにも喜怒哀楽をいちいち描く必要はないんです。そんなもの全部すっぽかしたっていい。ただしそれは伝わってこなくてはならない」という文章は、まさにこれを端的に表しているのではなかろうかと思う。禅問答のようにも聞こえかねないが、「明確な言葉にはできないけれど、良い」作品というのは、直接的に書かないけれど伝えることに成功しているのではないだろうか。
また、人間が文章を書く主体である限り、そこには否が応でも著者の世界の見方というか、一種の偏見が介在して然るべきと思う。本書の中でも所々で「スタイル」という言葉が出てくるが、これはまさに文章の技術/技巧とは異なるレベルで、文章をその人の文章づけるものなのだろう。その視点から著者が、各小説家の経歴/経験までをも参照し、「何故このような文章になっているのか?」を述べている点は、純粋に思考の仕方として面白い。
自分の中で残された問いとして、「上手い文章とは何か」がある。少ない文量でより多くのことを伝えられる文章なのか、或いは読み手を次の文章へと誘うリズム感に優れている文章なのか…一言では言い表せないものだとは思うが、要は「上手いけれど伝わらない文章」だけは書くようになりたくない、ということ。…と、ここまで書いていて、漸くなぜ村上春樹がそれぞれの文章を自己(セルフ)と自我(エゴ)の関係性という視点から読みとこうとしているのかが少しだけ理解できた気がする。各小説家は小説の中の登場人物のセルフとエゴを描くことによって、著者自身のセルフとエゴのバランスというか付き合い方を投影している。エゴの見えない文章(例えば、上手いだけの文章)にはその人のスタイルを見出せないが、しかしエゴばかりだけだと何を以てその人と言えるのか(セルフ)が見えなくなってしまう(つまり、伝わらない文章になる)。この微妙な葛藤こそが、文章の「上手い」と「伝わる」の差異を理解する一助となるのではないだろうか。
特に印象に残った箇所は以下
・ひとつのフラグメントの中に「何か大事なものが込められている」という感覚を、ときとして我々は持ちます。独特の重みを含んだ感覚です。そしてその「重み」があれば、そこから物語はほとんど自然に、自発的に展開していくのです(p.12)
・逆な言い方をするなら、読者がその作品を読んで、そこにどのような仮説(偏見の柱)をありありと立ち上げていけるかということに、読書の喜びや醍醐味はあるのではないかと僕は考えるのです(p.25)
・言い換えれば「文学で生計を立てる」ために、自分は何をするべきかということですね。僕らはーつまり小説家はということですがー自我というものに嫌でも向かい合わなくてはならない。それもできる限り誠実に向かい合わなくてはならない。それが文学の、あるいはブンガクの職務です。しかしその向かい合い方のスタイルはみんな一人ひとり違う。良い悪いじゃなくて。違うからこそ、それは職業として成り立つわけです。そしてここで吉行さんは、その自分の向かい合い方のスタイルに対して、自ら疑問を提出している。「こんなんでいいのか?」と自らに真剣に問いかけている。こんな技巧的なところに留まっていていいのかしら、そんなことをしていて「文学で整形は立てられるのか」と。僕にはそんな風に思えるんです(p.56)
・テキストの文体は逆向きに翻訳者の文体をも規定します。他言語のリズムなり生理なり、あるいは思考システムなりは、月の引力が地球の海の干満をもたらすように、その翻訳者の固有の文体に否応なく影響を及ぼします(p.188)
・しかし小説というのは相反した意志、行為を同質化する営みです。深く隠せば隠すほどそれがうわあっと防ぎようなく外に出てきてしまうー極端に言えばそれが小説です。それが小説家を小説家たらしめる狂気です。僕はそう思います(p.194) -
購入済み
博多めて読みました
村上春樹の作品を初めて読みましたが、ページをめくるのがやめられない作品でした。
読書を始めたばかりの私ですがゆっくりと読めるわかりやすさと、ワクワク感がありました。
女の子が主人公であり、娘頑張れと読み進めました。 -
Posted by ブクログ
やっぱり村上春樹は面白い。小説を「読んでいる」のだけど、どこか人の上手い話を「聞いている」ような感じがするのは、きっと村上春樹は文章を書くときに音読をしているからだろう。文章を目で追うとき、頭の中ではその音声が流れるわけだが、ハルキの小説の場合はその声が自分のものではないのだ。「誰かの声」なのだ。だから面白い。自分なんていうつまらない人間が話すんではないから。『トニー滝谷』で、「ただ単純に我慢ができなかった」だけが太字になっているあたり、やはりハルキはミソジニーだ。彼にとって、男は文明で理性的、女は野蛮で本能的なのだ。『七番目の男』は珍しく泣きそうになった。あんな明確に赦されることもあるのか。