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本書は、数多くの名作を生みだしたあるいは平成の文豪とも呼ぶべき作家、村上春樹によるエッセイです。
著者は1991年から4年半の間アメリカに住んでおり、その体験を主として、90年代のアメリカ社会の情勢やアメリカに住む人々の暮らしなどが描かれています。
ただし、内容は単なるエッセイに止まりません。
文学を創り出す村上の「人」の存在意義や社会的立場に対する考え方が直に伝わってきます。
そして、タイトルの「やがて哀しき外国語」とは本人の中に存在する日本語の情緒を示しています。
あとがきにも書かれていますが、村上に影響を与えた作品の多くは英語の外国小説です。
日本人として生まれ日本語を自明な母国語として生きていたものの、小説家村上春樹としては英語のもつニュアンスが深く影響している、そのようなことを表現している言葉ではないでしょうか。
村上春樹の文学的世界観を通して感じる日常を是非味わってみてください。
Posted by ブクログ
村上春樹がアメリカで生活していた1991年から2年間の生活を綴ったもの。NYの有名大学の永年教授の方から教えてもらった、これを読んだらいいよという本がこちら。過去も読んだことがあったのだが、改めて購入。
プリンストンは、非常にのんびりした、お金のことをほとんど話さない、自分のやりたいこと、興味あることをやるという雰囲気がすごく気に入ったようで楽しんでいる様子が伝わってくる。一方で、教授たちは、どのビールを飲むべきか、というようななんともべきろんを持っていて面倒くさい。スノッブなプリンストンの人たちは、日本のような流行だけを徹底的に追いかける風潮から一線を画していて、とても自分nペースで生きている感じがしているのだと思う。基本的に、自分のこと優先の国だから、とにかく自分がやるべきだと思ったらやるし、それを人に押し付けない、社会的にも押し付けない、というのがいいところ。サムエルアダムスはOKだけど、バドライトはうーむ、というのは面白い。ニューヨークでは、もはや誰一人として気にしていないだろうし、飲まない人も多く、タバコも吸わない人も多い、飲んでもすぐ帰る人もいれば、ダラダラとやっている人もいる。ハイチェアーから崩れ落ちて落下して怪我する人もいる。でも、全部自己責任。
アメリカで村上春樹という小説家が感じたのは、何をやりたいか、出会って何をやるべきか、ではないということ。自分が心からやりたいことをやればいい。そういうマインドをアメリカからは死ぬほど感じるからだ。
あとは大共感してしまうのは、いつもそうだけどレコードが好きなところ。音がふっくらとした雰囲気があるので、、、というくだりなど、本当に小説家の表現は素敵だなと思ってしまう。
すごく客観的に、だけど日本という文化を愛しているなと思うのは、車のところだろう。アコード、その後VWに乗る村上氏。BMWが、日本車には歴史がない、教育がない、だから車としてはヨーロッパ車だという選考的な考え方、白人至上主義的、ヨーロッパが文化的、教育的に優れているという前提に対して、色々な文化を受け入れ(表面的にはと書いてある点はすごく気持ちがこもっているが)、その多様性を梃子に成長しようとしているアメリカ、その中で特色自体がないと言われながら、カローラを磨いていく日本。
奥様が何をやっているか?という質問に対して、専業主婦とか小説を手伝っている、では全く納得しないアメリカ人の話もそうだ。だんだんと、何もしていないように思えてくるのかも知れないし、何かやらないといけない。このアメリカという国では、こうした議論が男女関係ない話ではあるのだけれど、すべてが女性の自立、フェミニズムというところに行き着いているように見えて、でも人はそれぞれ、なんだろうという結論に村上さんは至ったようだ。この1週回った感じは、アメリカに住んでみると大いに感じる。エクスキューズしない、これが男の子の要件だと、でも本当に難しくて、おもわずそれは、、と説明ちっくなことを言ってしまう。いいのか、悪いのか、そこだけ先に言う英語の文化は、スパッといくし、いい分け始めると相手が変な顔をする。
タイトルにもなった、哀しき外国語のところが、おそらくこの本のもっとも深く、意義深いところだろう。おそらく教授もここの部分を鮮烈に記憶していたからこそ、本書をあげたはずだと確信している。自らを外国語の環境に身を置いている村上さん、でもワイパーの英語がわからなかったり、店員にWhat?と聞き返され、子供が流暢に話しているのを聞いて自己嫌悪に陥る。まさにウルトラマン状態、つまり機関銃の乱射のような英語の中で、だんだんついていくだけでもやっと、自分から話ができなくなってくるという症状だ。これをウルトラマン的な例えも秀逸ながら、本当にそうだ。テキーラを飲んで気合いを入れて頑張るけれど、1時間半くらいでネタと会話の中身を自分からクリエイトできなくなってくる。だから、飲み会(パブとか)はみんな1時間くらいでおさらばするんじゃないかな、アメリカ人もそんなにネタないっしょという状態なんじゃないかなと自分を鼓舞している。頑張ろうぜ、と村上さんから言われている気持ちになる。ビルエバンスのレコードをかけつつコーヒー、素敵な文章、飾らない感覚と共に、休日の朝の時間がとても有意義に感じる本である。行き着いた境地が、やがて哀しき外国語であることを少し頭に置いて、日本に帰り、じっくりと日本語に向き合った村上さんの小説を楽しみに。
Posted by ブクログ
村上春樹がプリンストン大学に身を置いていた時に書いたエッセイ。時期的には、1991年から1993年にかけてのこと。村上春樹は、けっこう真剣に書いているように思えたし、今からだと30年以上前の話ではあるけれども、それでも、相当に面白く読んだ。
1991年と言えば、日本のバブル経済が崩壊した年であるが、1991年が「崩壊した年」であったとは、後から定義されたことであって、その当時は、バブルの頃ほど、日本経済も調子は良くないけれども、まだまだ世界トップクラスだし、またそのうちに調子を取り戻すと日本人は楽観的に考えていた時期だと思う。それにまつわる話として、輸出攻勢をかける日本人というか、市場を席捲していた日本車に対しての反発がある(特に村上春樹のアメリカ生活初期の頃、1991年には)ということが書かれていて、やはり隔世の感を感じる。
実際、私も2003年から2004年にかけてイギリスに留学したのであるが、バブル崩壊から10年以上経過したその当時であっても、日本経済はそれでもまだトップクラスであろうと思われていたし、また、不調もそろそろ出口が見えてきたと思われていたように記憶している。私が通っていた大学があった田舎町にも、日本人留学生はたくさんいたし。
そういうことを思い出しながら、人間というのは、世の中が変わっていることに気がつくのに時間がかかるものなのだな、と改めて感じた。
Posted by ブクログ
著者がアメリカに滞在していた頃に書いたエッセイ本。アメリカで過ごしたときに出くわした体験を主に綴っているが、なかでも興味深いのは、著者の小説を書くまでの過程に触れた「ロールキャベツを遠く離れて」と日本のエリートに言及した「ヒエラルキーの風景」の2つである。前者では、著者は学校で習ったことよりも、店を開いて肉体労働をした時期のほうがより多くのことを学べたと語る。また大学生のころ、何かを書きたいと思いつつも、何をどういう風に書けばいいのかわからなかったといい、そこから著者は書けないときは無理に書かなくていいという結論を出す。自分というものを確立するための時間、経験が小説を書くに至るまでに必要なことだったと語る。後者では、著者はこれまで接してきた日本のエリートを見て、日本はエリートが幅をきかせている国で、彼らは個人的な価値観よりも自身が属してる会社や官庁、または共通一次の点数を重視していると痛感した。
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小説・文芸
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