「誰か、先生にとって邪魔な人間はいませんか?」
「え?」
「ぼくに、その人を殺させてくれませんか?」
「答えは出た?」
「はい。『美しい』は、自分より上位のものに向けられる気持ちなんだと気づきました」
「上位?」
「そうです。芸術作品も、大自然も、動物も、ぼくたちより強いものだと思うんです。自分では届かないもの、かなわないもの。ひれ伏す感じ、というか」
「たしかに、神様に向かって『かわいい』とは言わないかもね」
「神は『美しい」ですよね。だって、ぼくらの生殺与奪を握っているから。だったら『かわいい』は、自分より下位なんじゃないかって思うんです。自分の支配下にあって、自分には害がなくて、その気になれば、自分の思い通りにできる。 ー 奥貫先生」
ふいに、秋成がまっすぐ、千早を見つめてくる。
「先生は、かわいいですね」
「専門家だってそれを見抜くのは簡単じゃない。学校もそう。建物はバリアフリーでも、心は違う。わからないのよ。特異な個性をもった生徒に、どう対応すればいいのか。正解はないのに責任はある。無難な道を選んでしまうのは、当然なの」
「けど、それを少しでも正解に近づけるために、わたしたちがいるのではないですか」
登美子が笑う。きっと本心から。
「あなたはまっすぐね。うらやましい」
「青臭いと思われるでしょうけど…」
「いえいえ、いいの。初めはそれくらいで。ううん。初めというか、ずつとそう思えるなら、世の中がよくなっている証拠かもしれない。わたしは古い人間だから、信じられなくなっちゃってる」
「特異な個性の持ち主をですか」
「そしてその彼を、受け入れる側もね」
〈もう少し柔らかく言えば、契約ということになるでしょうか。相互契約です。あなたの人権を守るから、わたしの人権も守ってくれ。違いますか?〉
紀文は明言を避け、ううん、と唸り声で応じている。
〈犯罪者は、いわば契約不履行者なわけです。特に殺人や重度の傷害罪というのは、相手の人権を完全に奪う行為ですから、当然、奪った側の人権もいったんキャンセルされる。逮捕や収監がこれにあたりますが、この「いったん」というのがポイントで十年なのか。十五年ではどうか。もう時間がないですか?では一つだけ。わたしたちには、彼と再契約を結ばないという権利はないのか。再契約は、いったい何によって強制されるのか〉
「勝手に入ってもいいんですか?」
「怒られる?」
「はい」
「平気よ。怒られたら、謝ればいい」
そんなものなのか、という顔をしている。そうだ。そんなものなんだ。世の中のいい加減さを、あなたはもっと知るべきだ。
「入壱が、過ちを迎した人間であるのと、紛うことなき悪魔であるのと、人々はどちらを望むのだろうな」
「悪魔の定義がわかりません」
「定義のない言葉こそ力をもつ。変幻自在に、希望通りの形をなすのだからな」
皮肉だった。もしも紀文が精神疾患者であったなら、こうは思わないだろう。考えの違いは当たり前で、わずかでもわかり合える瞬間を見つけては喜びを感じるはずだ。
自分は紀文に対して、わたしと同様であれ、と求めてしまっている。
紀文を「特別な他人」と認めるゆえの傲慢だ。違うのが当たり前。互いに歩み寄るしかない。理性ではわかっているのに、心の反発が抑えられない。不寛容な自分を、千早は虚しく思った。包摂の限界。異常心理や殺人術動を持ち出さずとも、そんなものは道端にだって転がっている。
「君に何ができる? 覚悟もなく他人を救いたいと口にする傲慢さを知りなさい。誰かを救うなどと語って許されるのは宗教だけだ」
「わたしは受け入れたいだけです。社会が包摂できないのなら、せめてわたしが」
「受け入れる ー か。いったいそれは、何を指しているのか」
「何…?」
「まさか性的充足を与えてやろうというのではあるまいな」
かっと頭に血が上った。「ふざけないでくださいっ」
「ならば金を与えることか?仕事を世話することか?飯を食わせてやることか?
当たり障りのない優しさを演じることが、君の目指す『受け入れる』なのか?」
「それは決して、彼の安全性を保証するものではない。犯した罪が赦されるわけでもない。わたしだって、彼が怖い。だけど ー 無理じゃない」
この世の中で、生きていくこと。
「だから、許してあげましょう。被害者は彼を憎み続けるかもしれない。わたしたちは彼を恐れ続けるかもしれない。けれどあなたが、いてもいいよ、ってそう思えるなら、あなたはそう思ってもいいんだから。みんながそうするのは無理でも、あなたから始めることはできるから」
「かもね。でも、あなたもそうでしょ? 殺したいのに、殺したくなくて悩んでいた」
「それは違います。殺したいのは衝動で、殺したくないのは損得です」
「本当に、殺したくないという気持ちが損得なのだと言いきれる?」
「生きたいという衝動、死にたいという衝動、殺したいという衝動。たくさんの矛盾し合った衝動があって、わたしたちは、その全部を持っている」
殺したくないという衝動も。
生きてほしいと願う、衝動も。
「持っているはずなのよ」
世界を閉じることが不幸せだと決めつけるのは、広い世界に住める人間の微慢だ。
無理だと認め、諦めることが悪いのじゃない。その中にだって、幸せはあるに違いない。
けれど、さみしい。
あなたのいない、その場所は。
相容れない他人同士が、この街で暮らしている。たった数メートル先で寝起きをしている。喧嘩もすれば、愛し合いもする。その全員を「特別な他人」とは思えなくとも、そうやって生きていくしかないのだから、疑うことをやめられないように、信じることだってやめられないのだ。