すべての高評価レビュー
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Posted by ブクログ
ウェブサイト「よみタイ」で連載された記事と3つの近代文芸の著者によるリメイク小説が含まれていた。連載物の記事であったため一編が短く寝る前に少し読むという読み方もでき、近づき難かった近代文芸に触れる良い機会となった。著者が現代POPでの歌詞家であり、現代ポップシーンや現代文学との比較などが散らばっていたため、著者の考察がとても興味深い上に、話し言葉で書かれているから、一日の終わりに疲れていた頭にもスラスラ内容が入ってきた。著者が近代文芸を盲目的に礼賛するのではなく、当時の文学での女性の扱われ方をあえて指摘する場面もあり、読者としてはそれも含めて共感を持って読むことができた。注釈一つ一つも紹介されている文学の理解に繋がり、ぜひ読んで欲しい。これをきっかけにここで紹介されていた文学から少しずつ近代文芸も読んでみたいと思った。
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Posted by ブクログ
「素敵だな」と思ったヨルダンの本屋さんに、いきなりメールして住み込みで働かせてもらった女性のエッセイ。私には色々な意味で到底できない世界を、多くの写真とユニークな表現で終始楽しませてもらった。
この本に何かメッセージ性があるとしたら、「みんなもヨルダンの本屋に行ってみてね」でなく、「全く想像できなかった環境でも、本当に心が動いたなら勇気を出して飛び込みさえすれば,そこにはやっぱり自分と似たもの同士が集まっていて、お互いを尊敬しながら面白がって暮らすことができる」だそう。
だとすれば今の私も、新米社労士としてまさに歩み出したところで、別世界の話だと思って読んでいたところに最後に一気に自分ごととなり、勇気をもらった。 -
Posted by ブクログ
続編が出ていることを知らず、手にした時はきゃーと歓喜の声をあげてしまった。内容は期待を上回ったのはいいが、出先で読んでいたら涙が止まらず、マスクをしていたことを幸いに目を瞬かせてなんとか凌いだ。
藤竹先生が去った後の定時制に、訳あって入った生徒たち。佳澄ちゃんの起立性障害(だっけ)や岳人のような発達障害が原因で定時制に入っている人もいるということは前作で知ったが、外国にルーツを持つ子、持病、色々な事情で全日制に行けない人がいると知り、通信制を含めてオプションが広がっていくといいなあと思うばかり(なのに東京都の教育委員会は!って感じだが)。定時制に進んだかつての中学の同級生は今はどうしているのやら(当時の私の生きていた世界は狭かったなあ)。
メインキャラのさなちゃんが純真すぎるところは若干リアルさがないが(いや、こういう純真な子こそ中受を乗り切れるのか?)、どの子もそれぞれの長所で貢献できる姿が眩しい。悪い人は出てこないと安心して読んでいられるからこそ、ああきっとこの子も科学部に入ってくれるのねとワクワクしながら読めて嬉しかった。あーすでに続きが読みたい。続きでないかなあ。伊与原さん、3作目もお願いします!!!
(でも翠雨の人も良かったので、あれ系の伝記ものも読みたいです) -
Posted by ブクログ
2160円
★再読
2026/10/09
そもそもプロテスタントはグーテンベルクの活版印刷が発明されて聖書が大衆に読まれる様になった結果生まれたもので、基本的に読書が出来る層しか相手にしてないというか、聖書と言葉の理解を重視する宗教文化に、知的能力を求められるような窮屈さを感じるんだよね。別に信者ではないけど好き嫌いで言うと、カトリックの入口の豊かさが好きだな。
「《サルヴァトール・ムンディ》は《モナ・リザ》を凌ぐ傑作である、と私は見ています。しかし残念ながら、前述の個人蔵のため実物を見ることはかなわない。アラブのアブダビにルーブル美術館の分館ができた際、目玉作品にしようとルーブル側が積極的に動いたものの、先方が貸し出しに応じず、展示できませんでした。」
—『美術は宗教を超えるか』宮下 規久朗, 佐藤 優著
「宮下 かつて、六世紀のローマ教皇グレゴリウス一世は「絵画は文盲の聖書である」と語りました。ヨーロッパの識字率の低さから、聖書を読めない人やキリスト教の教義がわからない人に対し、絵画は目の前に聖書の情景を思い起こさせるメディアです。 聖書に記された物語の理解を視覚イメージに訴えると同時に、文字以上に印象や記憶に定着するメリットがありました。神の行ないを忘れないようにする、という点で、美術は宗教にとって有用この上ないものであり、信仰のための貴重な道具でした。」
—『美術は宗教を超えるか』宮下 規久朗, 佐藤 優著
「美術の鑑賞は、実際に展示された空間へ行って見ないとわからないことが多々あります。読者の方々には、新型コロナウイルス感染が終息した暁にはぜひ一度、現地でご覧になることをお勧めします。」
—『美術は宗教を超えるか』宮下 規久朗, 佐藤 優著
「 《聖マタイの召命》の解釈に関しても、カトリックとプロテスタントでは異なるものになります。まず、キリストがレビを指して呼び掛け、レビは自分の意志で召命に応じます。 これを自由意志によるものとするのがカトリック。予定説によるものとするのがプロテスタントです。自由意志説は、自力で悔い改め、善行を積めば救われるという立場を取ります。したがって「キリストのほうを見て自らを指し、立ち上がろうとする中央の髭の紳士こそがマタイである」と考える。 ところがその半面、カトリックの見方は「誰もが救済されうる」というものです。したがって若者であろうが、画中の他の四人であろうが、全員が召命を受けて救われる可能性があるのです。強いていえば一見、最も救いから遠いと見られる若者ではないか、と考える。浄土真宗の悪人正機説に近い考え方ですね。」
—『美術は宗教を超えるか』宮下 規久朗, 佐藤 優著
「美術にせよ文学にせよ、メディアは著者に対して安易に狙いを聞きすぎるし、作家もサービス精神で答えすぎる。もう一つは日本独特の座談会文化で、同じ分野の作家や評論家が頻繁に会いすぎる。 ロシアの場合、雑誌やテレビで座談会のようなものは滅多にやりません。とくに同じジャンルの作家や評論家は距離を置くのが普通です。 理由を聞くと、仮に人間的に波長が合わない作家でも、書いたものがよければ自分は評価できる。しかし日ごろの付き合いで人間関係があると、駄作を書いたときに批判できない、という。互いの作品を正当に評価するには相手の人格を知らず、テキストだけを通じた関係がよい、と考えるのです。」
—『美術は宗教を超えるか』宮下 規久朗, 佐藤 優著
「その点、神道は文字すらありませんからね。日本人は目に見えない神道的な部分を、精神のどこかに宿している。初詣に代表されるお参りや、お祭りなど特定の日に特定の場へ出かける習慣が根強く、パワースポット巡礼がブームになる国柄でもあります。たしかに名刹・古刹があるような山に行くと、ただならぬ霊気を感じることがあります。 キリスト教における教会の役割の一つも、皆が一堂に会して祈り、賛美歌を歌うことで「場の空気を共有する」ことにあります。言葉にし難い「気」を感じることが、目に見えない宗教の本質ではないでしょうか。」
—『美術は宗教を超えるか』宮下 規久朗, 佐藤 優著
「じつはワシントンのナショナル・ギャラリーの名だたる作品は、もともとロシアのエルミタージュ美術館の所蔵品が多い。現在のエルミタージュは、じつは名品が買いたたかれた後の倉庫のようなものになってしまった。ロシアの革命政府はお金がないので叩き売りをしたからです。その主な売却先が二十世紀のアメリカであり、富のあるところに名作が集まる事実を証明しています。 二十世紀には映画館も誕生し、大衆の関心はアートからシネマへ流れていきました。「動かない絵」から「動く絵」に満足を覚える人びとの流れには抗しがたく、芸術を崇める文化は主に富裕層へとシフトしていきました。」
—『美術は宗教を超えるか』宮下 規久朗, 佐藤 優著
「佐藤 フェルメールの作品が日本で人気があるのはなぜでしょうか。宮下 「キリスト教臭が薄い」と思っていることが大きい、と思います。日本人の多くは、美術にキリスト教の文脈が絡むと苦手意識を覚えがちです。印象派が好きなのも同じ理由で、ルノワールやモネの絵にはキリスト教の題材がほとんど出てきません。 フェルメールも《牛乳を注ぐ女》など、日常的な光景で題材が親しみやすい。王侯貴族も出てこないし、キリスト教を知らなくても理解できる、ということで皆が飛びついたのではないでしょうか。絵のサイズがコンパクトなのも大きい。日本人は往々にして、壁画のような巨大な作品より、小さめの作品を好む傾向があります。このように、フェルメールはあらゆる点で日本人好みなのです。 付言すれば、フェルメールは印象派の画家よりも単純に絵がうまい(笑)。昔と比べて日本人の鑑賞眼も成熟し、モネやルノワールの印象派だけでは満足できず、オールド・マスターと呼ばれる十八世紀以前の西洋絵画の源流への関心が芽生えてきたのだと思います。」
—『美術は宗教を超えるか』宮下 規久朗, 佐藤 優著
「宮下 しかし、かといってフェルメールの絵画に「宗教色がない」と考えるのは誤解です。たとえば《天秤を持つ女》(図 46)は、キリスト教の「最後の審判」を念頭に描いた作品です。まず天秤を手に立つ女性の背後に画中画があり、最後の審判の様子が描かれている。そして審判者キリストの下、女性が天秤を持ち、大天使ミカエルのごとく「魂の計量」を行なう、という寓意です。 このように、西洋美術はキリスト教と分ち難く結びついています。日本でも仏画はもとより、水墨画も禅宗の教えが背後にある。わずかな墨を用い、限られた紙の上に真理を表現する、という信仰に根差した美のスタイルがあります。芸術には多かれ少なかれ宗教的要素が含まれており、両者は不可分です。美術がたんに色や線の面白さだけで成立している、と考えるなら、やはり作品の価値を十分に味わっているとはいえません。」
—『美術は宗教を超えるか』宮下 規久朗, 佐藤 優著
「しばしば「プロテスタントは美術を排除する」といわれます。しかし例外はルター派で、キリストの教えを説く際に絵も像も用います。 偶像崇拝に関して、「パンと葡萄酒」をめぐる聖餐論争があります。パンと葡萄酒がキリストの血肉として実体化する、と考えるローマ・カトリック以来のルター派の「実体変質説」に対し、改革派(ツヴィングリ派とカルヴァン派)はパンと葡萄酒を基本的に象徴と捉える象徴説を主張しました。実体変質説の考え方をカルヴァンやツヴィングリの系統は偶像崇拝である、として排除したのです。」
—『美術は宗教を超えるか』宮下 規久朗, 佐藤 優著
「スイスのジュネーブやスコットランドでカルヴァン派の教会に入ると、見事なまでに殺風景で、まるで会議場のようにしか見えません。極端なところでは、十字架さえ見当たらない。そういう人びとは、美術はおろか、スポーツにも関心がありません。娯楽全般に関心が薄いのです。 では何に関心があるのか、といえば「自分の仕事」です。プロテスタントの考え方では、個人の適性は神によって選ばれており、天職があらかじめ与えられている。したがって趣味の世界には関心をもたず、労働者として勤勉であることが善とされます。」
—『美術は宗教を超えるか』宮下 規久朗, 佐藤 優著
「宮下 私は講義でよく「美術 =宗教である」といいます。一見、宗教と無縁の現代アートでさえ、背後には「目に見えないもの」の存在がある。代表的な例が、ポップアートの第一人者アンディ・ウォーホルの作品。工業製品や俳優を題材にしたシルクスクリーンの複製物であるにもかかわらず、作品が醸し出す不思議な雰囲気があります。 ドイツの哲学者ヴァルター・ベンヤミンは、それを「アウラ」という言葉で表現しました。作品の目の前に立ったときに感じるアウラは、たとえ複製であっても聖性を失わないイコンが与える効果と同じです。佐藤 つまり、目に見えない聖霊の働きが作用している。宮下 それはまさに宗教的な体験に近いものがあります。美術鑑賞とはベンヤミンがいう「アウラ」を感じる精神的な営みであり、いわば宗教行為の一つです。また私はよく、美術作品との出会いは一期一会だといいます。作品を見る機会は、じつは一生に一回しかない。二回目に見たときの印象は、最初と必ず異なるからです。その場で目にしたものは、二度と同じ状態では見られない。」
—『美術は宗教を超えるか』宮下 規久朗, 佐藤 優著
「加えて、美術にはセラピー(治療)的効果があるといわれます。過去の経験で負ったトラウマ(心的外傷)を解消させる絵画セラピーが、アメリカを中心に研究、実践されている。「場」との関連でいうと、美術館で絵を無心に見るうちに心が穏やかになり、苦しみが慰められる、という経験をした方もいるはずです。美術鑑賞は、神社という空間で手を合わせて心が清められるとか、教会で何も考えず椅子に座っているだけで気分が落ち着く、という行為と似た作用がある。」
—『美術は宗教を超えるか』宮下 規久朗, 佐藤 優著
「宮下先生は、自らとキリスト教の関係について語っていないが、日本キリスト教会に所属するプロテスタントのキリスト教徒だ。日本キリスト教会は、改革長老派(カルヴァン派)の伝統に立つ教会だ。本書で詳しく論じられているようにカルヴァン派は、イコノクラスム(聖画像破壊)を行なった。その関係もあり、改革長老派系の神学者は、美術に対する関心があまり高くないように思える。本書でわれわれは美術の意義を神学的に位置づけるという大胆な冒険に挑んだ。」
—『美術は宗教を超えるか』宮下 規久朗, 佐藤 優著
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Posted by ブクログ
- 嘘も百回言えば、真実になる。
「厄介なのは、本人にも噓をついている自覚がない場合だ。噓も百回言えば、真実になるんだよ。少なくとも当人にとってはな。」
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テレビ局の下請け制作会社で主に報道系を担当する三田紗矢子。入社七年目にして 人気ドキュメンタリー番組『十一時の肖像』に自分の企画書が通る。
三田が追うのは 母親が乳がんを患った時に見つけた、気鋭のがん研究者・嘉山宗弘教授。人間の老化を止め、がんの進行も抑制するとされる「不老因子」を発見し 脚光を浴びる嘉山教授の存在を広く知ってもらいたいと意気込む三田。
しかし、密着取材を続けるうちに 教授の言葉に違和感を覚え始める。
やがて、三田は「不老因子」の研究不正という噂にたどりつき…。
不正が事実であれば 番組は放送できない。はじめは嘉山教授の疑惑を払拭しようと動き始めた三田だったが、 不正の信憑性が増すにつれ 三田の作る「作品」は姿を変えていく。
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岩井さんもインタビューで仰られていたように、「不老因子」は「STAP細胞はあります!」の事件が根底にあるそうです。
誰が嘘をついている?
それともみな真実を語っている?
やばい!面白い!
研究の不正を暴くストーリーのようにみえて
次第に 三田の様子がおかしいことが気になり始めます…。
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「わたしは嘉山教授の不正の証拠を必ず見つける。だって、それが使命なのだから。」
「そこに至るルートが多少ねじ曲がっていても、ゴールさえ正しければ、悪を絶すことができる。」
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はぁぁ〜ずっと心臓がヒリヒリ ビリビリする読書でした。
人が誤った方向に進んでいく様子を読んでいくってさ、ヒリヒリよね。 そしてバクバクでもあるよね。その過程が すごく丁寧に描かれていてね。流石です! どんどん読み進めちゃいます。
で、タイトルの『風車と巨人』とは
セルバンテスの古典名作『ドン・キホーテ』の有名な一節に由来しています。
自分を正義の騎士だと思い込み、風車を巨人と勘違いして突撃していくドン・キホーテの姿は嘉山なのか、それとも…
(Google AIより)
あとね やっぱりね 人が判断を誤る時って その時の精神状態だな〜って改めて思った!
過度なプレッシャーと睡眠不足。そう!睡眠不足!これ本当そう。初めての出産で全然眠れなくなっちゃった時に本気で我が子をどこかに預けようって旦那さんに相談してたこと思い出した。今では不可解な考え! ちゃんと食べてちゃんと寝ろ!!
ってことを客観的に見てくれていた吉沢(突然の)。良い奴だったな。
そしてそして、肝心のラストですが
めっちゃ予想の斜め上!!
これを面白いと捉えるかは あなた次第!!(あたりまえ)
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Posted by ブクログ
なんといっても可笑しいのは、グレーゴルは虫になったのにその原因を探ることは一切せず、遅刻してしまう仕事の心配ばかりしていること。家族も彼の変身に驚きはするがすぐに事態を受け入れてしまう。なぜ虫になったのか、人間に戻れるのか、そういう疑問はまったく出てこない。
グレーゴルが変身した虫は原語だとUngeziefer(ウンゲツィーファー)で、語源的に「犠牲に捧げるのにふさわしくない動物」という宗教的な意味を持つ。捧げ物としてふさわしくない動物イコール役立たず、厄介者とも解釈できる。これまでは家族のために自身を犠牲にするかのように働いて一家を支えてきた男が、一晩で役立たずになる。グレーゴルの変身はいわば二重に起きているのだ。人間から虫へ、大黒柱から厄介者へ。役立たずの厄介者は共同体から排除される。資本主義の非人間性を描いていると見ることもできる。
引きこもり小説、または介護小説としても読める。引きこもりの息子は家族の恥だからと家族だけで問題を抱え込む。介護しているうちに人間から物のように見なされていく。かつては家族を支えた男が、いつしか妹から「あれ」呼ばわりされ人間扱いされなくなる。
変身はグレーゴルだけではなく家族にも起きる。かつては一日中パジャマで過ごしていた父親は銀行の用務員になり、それを誇りに思って帰宅しても制服を着たままで過ごす(人格と職業が混ざり合うところも資本主義の一面を象徴しているように思える)。バイオリンに夢中だった妹は音大への進学を諦め店員として働き出し、将来の転職に向けてスキルアップの勉強を始める。そして借金を抱えているとグレーゴルは思っていたのに、一家にはひそかに貯金があったことが判明する!
意思の疎通のできない化け物になってしまったと家族は思っていたが、グレーゴルには人間性が残っていた。妹が演奏するバイオリンを聴こうと半開きのドアの陰からリビングを覗き込むシーンは、この小説中もっとも鮮烈なイメージとして脳裏に浮かんだ。「こんなにも音楽に感動しているのに、それでも動物なのか?」
過去に高橋義孝と池内紀の翻訳で読んだが、この川島隆訳がこれまで読んだ中でもっとも読みやすく感じた。70ページもの詳細な解説が付いていて読む助けになる。これから変身を読むならこの角川文庫がいいのではないかと思う。結びの文章が倒置法で訳されていてちょっと違和感があったけど、その意味は100分de名著の解説を読んで納得した。
グレーゴルが変身した意味や解釈を固定化してしまうと却って作品を矮小化してしまうように感じる。曖昧なまま、各人が見えるものを見出せばいいのだろう。100ページに満たない分量に対して釣り合わないほどの巨大さ。カフカすげえなあ、と今更ながら唸らされる。
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