司馬遼太郎のレビュー一覧
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【あらすじ】
西郷隆盛と大久保利通―ともに薩摩に生をうけ、維新の立役者となり、そして今や新政府の領袖である二人は、年来の友誼を捨て、征韓論をめぐり、鋭く対立した。
西郷=征韓論派、大久保=反征韓論派の激突は、政府を崩壊させ、日本中を大混乱におとしいれた。
事態の収拾を誤ることがあれば、この国は一気に滅ぶであろう…。
【内容まとめ】
1.もはや西郷vs大久保の一騎打ち。誰も間に入れない。
2.公卿はこの2人の前では無能
3.明治初期の時代、薩摩隼人がヤバすぎる。能力が高すぎる
【感想】
この時代において、薩摩隼人の影響力の高さは半端がない。
そしてその勇ましさはもはや野人。怖すぎる・・・
そして、桐野利秋や島津久光のせいなど色んな説や理由があるだろうが、維新後の西郷隆盛の没落っぷりは見るに堪えないな・・・
幕末のあの素晴らしさは一体ドコにいってしまったのか。
大御所だからか、大久保以外は直接物を申せないところもキツイな。
西郷は決してそうではないが、やはりトップになると周りの影響でこうも愚鈍になってしまうのだろう。
自分がトップになることは中々ないと思うが、このようにならずに常に周りが見えないといけないと思った。
【引用】
p70
西郷の金銭観に触れておくと、彼は若い頃に郡方の下っ端の書記をしていただけに算盤が達者で暗算も上手だった。
京都での奔走当時も藩費を使った場合は必ず算盤を入れ、残金を明瞭にしておいた。
しかし自分の俸給となると、全部散じてしまうというところがあったし、勘定もしなかった。
p206
この男は、天寿を全うするなどはまったく考えていない。
幕末、ずいぶん人を斬ったかわりに俺もどこかで死ぬと覚悟していた。
桐野は、「自分は死ぬべき時と場所に死ぬことができぬやつだ。」
「西郷老人のみが自分に死所をみつけてくれる。」と言っていた。
p212
大久保について、触れる。
要するに彼の道楽は、国家を改造するというその仕事以外になかったと言っていい。
p217
大久保は大地にしがみついても参議になぞなるまいと肚を決めていた。
なって廟堂(びょうどう)に登った場合、西郷と血みどろの戦いになることが分かっていたし、島津久光の勢力を敵に回す事も明らかであった。しかも勝つ見込みは僅かしかない。
たとえ勝っても、西郷配下の桐野らがクーデターを決行して自分を殺し、あくまでもその策を貫くだろうと思っていた。
桜田門外の井伊直弼の二の舞ではないか。
p248
薩摩にあっては、侍が侍がましくなるには二つのことだけが必要だとされていた。
死ぬべき時に死ぬ事と、敵に対しては人間としてのいたわりや優しさを持ちつつも、闘争に至ればこれをあくまでも倒す。
たとえ無学であっても薩摩では少しも不名誉にはならない。
爽やかな人格でないという事が、薩摩にあっては極端な不名誉なのである。 -
Posted by ブクログ
ネタバレこれまでの蔵六には、情熱の対象が明確であった。人間ではなく、科学と技術である。かれは、オランダ文字をたどることによって、この未見の世界をすこしずつひらき、かれの頭のなかに、ほかの日本人にはない風景をつくりあげた。そこにはニュートンの力学であり、解剖台上の臓腑があり、蒸気機関のパイプとメーターがあり、そして曠野に進退する大群と砲声があり、このかれの頭脳のなかの風景のなかにかれは棲みに棲んで、飽くところを知らなかった、自然、生きた人間どもの誰彼に興味を薄くしかもたなかった。
そういう蔵六のことをお琴は、
「とんぼ獲り」
と、規定してしまっているが、蔵六にすれば、かれは自分の頭脳のなかの風景を追っかけ、それを追うことが、かれを各地に転々とさせる結果になった。青春は、その過程のなかですぎた。おもえば、一瞬のうちにすぎた。ひとがいう青春は、蔵六にはなかったといえるであろう。
が、蔵六はいま、にわかに青春のなかにのったような気がするのである。動乱を恋い、生命をそこに燃焼させようとする壮士の青春が、いまはじめて蔵六のなかに誕生したかのようであり、蔵六自身、この自分の整理をさせ圧迫しつつある感情の変化に、じっと堪えている。
原因をつくったのは、桂であろう。
蔵六はいままで、世間も人も、自分の学問を需要し、蔵六自身を需要しなかったことを知っている。それが、この男なりに不満であり、その不満は鬱積していた。
その蔵六を桂は需めたのである。
わずかに、
ーー村田にだけ話せ。
というそれだけのことであったが、しかし人間が大昂揚するのは、そういうことであるかもしれなかった。
「お会いしても、しなくっても、どっちでもいいことです。イネどのは、二十代のお父上を自分の夢の中で作られ、それとともに生きて来られた。それ以外に、あなたにとって真実のお父上はいない。人間にとって真実とはそういうものです。この真実は医学をもってしてもいかんともしがたい。この真実の前には、へんぺんたる事実は、波のしぶきのようにくだけたは散るものです。事実とは、長崎出島で再会されたシーボルト翁のことだ。あれはたしかにシーボルト翁に相違ない。しかし事実にすぎない」
「蔵六先生は、事実を軽視なさるおつもりですか」
イネは、思想として反撃した。西洋医学は事実にもとづく学問であり、事実に対して冷厳であらねばならぬことを蔵六やイネにおしえてきた。蔵六もイネもおなじく事実の教徒である。その蔵六が、妙なことを言いだしたことにイネはおどろき、「医学の徒たるものが、主観的事実を持ちあげて事実の上に置くということはおかしいではないか」という意味のことを抗議したのである。イネが思うに、蔵六式にいえば、たとえばマジナイ師たちが主観的事実としているマジナイが、西洋医学よりもまさるということになるのではなか。
「それはカン違いです」
と、蔵六はいった。蔵六ほど事実を冷厳な態度で尊重している人物はすくない。
いま蔵六がいっているのはそういうことではなく、医学の踏みこめない人間の内奥のことである。蔵六にいわせれば、イネにとって二十代で日本を去ったあとのシーボルトなどは、事実どころかマボロシであり、ほんとうのシーボルトは、イネの精神をそだて、いまもイネの精神のなかにいる主観的真実のシーボルト以外にない、人間というものはそういうものである。事実的存在の人間というのは大したことはない、と蔵六はいうのである。
「あの長崎から参られたお女中は、むこう五日間泊まられるそうじゃ。いずれ五日のうちには、いかな村田先生でも、狂おしゅうおなりになるじゃろ」
といったが、久兵衛が察するとおり、階上の蔵六は、寝床のなかで歯噛みする思いで、自分の欲望に堪えていた。なぜ堪えるのか、とい蔵六は自問しない。自問したところで、
「堪えるべきだ」
というだけが、蔵六の自答である。堪えることの意味や内容、あるいは理屈などはない。元来、人間の行為や行動に、どれほどの意味や内容、あるいは理屈が求められるであろう。なぜ親に孝であり、なぜ君に忠であるのか、と問われたところで、事々しい内容などはない。うつくしい丹塗りの椀の中に、水を満たそうと飯を盛ろうと、また空でそこに置こうと、丹塗りの椀の美しさにはかわりがないのである。孝や忠は丹塗りの椀であり、内容ではない。蔵六は堪えしのぶことによって、自分のなかに丹塗りの椀をつくりあげている。丹塗りの椀の意味などは考えておらず、ただ自分は丹塗りの椀でありたいとおもっているだけである。 -
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(01)
媒体は週刊朝日,本書収録分は1973年から75年頃に取材され,記述され,掲載されたものである.三重,滋賀,大阪,奈良,兵庫(淡路),島根,岡山などへの旅の記録であるが,筆はもちろん周囲の地域や,海や島,半島や大陸へと及んでいく.
彼らの旅行は,著者のほかにも,挿画家,編集者などのほかに,ところどころの郷土史家(*02)が伴われ,取材や描写は,経営者をはじめ,道で出会った人,そこで働く人たちまでに及ぶ.
昭和50年代にかけては,鉄道やバス,旅客船など,ひととおりの公共交通手段も整っていたであろうが,彼らは主に自動車での移動を試みている.
こうした条件のもとに描かれる風景は,それでもなお懐かしい.著者が歴史作家であるという理由もあるだろうが,古代から中世近世を経て,近現代までの土地土地の風景や,人が住まうにいたった情景をさらりと描いている.
「街道をゆく」というテーマであるから,土地への執着は深くはない.それは自動車という移動手段にもより,時にはどたばたと強行な移動もしているから,土地と土地のつながり,人がどこから来てどこへ行こうとしているのか,という観点や目線による浅さでもある.
その浅さは,思考や発想の軽さを容易にし,多くの場面で著者の大風呂敷な文明観が開陳される.砂鉄の話,漁法の話,松や楠の話,戦闘と防御の技術の話などは注目に値する.
心安く,数々の印象的なエピソードを楽しみながら旅行記として読むのも楽しいだろうが,大風呂敷の歴史的な空想が広げてくれた世界観を楽しむのも本書の読み方のひとつであろう.
(02)
宮本常一のテグスをめぐる説,四手井綱英の松枯れについての言及など,歴史的な史料だけでなく,著書が,当時の最新の学説等も漁ったうえで,これらの旅行記を執筆していることは覚えておいてよいだろう. -
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昭和30年。まだ記者だった司馬遼太郎さんが書いたサラリーマン向けエッセイが新書になったとのことで、読んでみました。
時代感タップリ。まだ戦後で貧しかった日本。社会保障も十分ではなく、家制度も残っていた。そんな時代のサラリーマンは、日々、黙々と働くだけの存在ではありながら、毎月の給料にありつけ、苦労と引き換えに安定した生活が得られるという立場。司馬さんは、あわてず、くさらず、淡々とそんな立場を享受せよと説く。現代のビジネス環境とは大きく異なるため、そのまま参考にはならない内容もあるが、ナルホドね、というサラリーマン道の示唆は多く、気軽に楽しめる1冊。