Posted by ブクログ
2015年07月12日
司馬さんの小説なんですが、半分は現代のお話。
そして、日本と朝鮮、戦争や民族意識という、デリケートなところに司馬さんの掌がそっと迫る一篇です。
短編集。と、言っても、3編しか入っていません。中編集とでも言いますか。
どれも相変わらず俯瞰的で皮肉めいて同時に人間臭くて、司馬遼節とでも言いますか。僕は...続きを読む大変に面白かったです。
ですが、まあ、何と言っても表題作が素晴らしかったです。
エッセイのような中編小説なんですが。
1590年代、つまり関ヶ原の戦いの直前に、豊臣秀吉さんによる朝鮮出兵がありました。
今から振り返ると、イマイチ良くワカラナイ無謀な出兵だった訳ですが、秀吉さんは本気で朝鮮半島そして中国大陸へ支配を広げるつもりだったみたいですね。
2度に渡る朝鮮出兵は、秀吉自身が渡海したわけではなく、部下というか傘下の大名が半島に渡って戦いました。
なんとなく膠着状態のまま、秀吉が死んだことによって日本側が撤兵、曖昧に終息します。
目的を達しなかったという意味では、日本/秀吉側の敗北なんですが、朝鮮側も被害は甚大だったそうです。
そして、このときに、多くの朝鮮人が、日本に拉致されています。
(と、言うと、とてもひどい話に聞こえます。もちろん、酷い話なんですが。
ただ、僕も最近知ったのは、戦国時代まで、日本国内でも戦争があった際には、敵国の住民を拉致してきて、自国内で奴隷として使っていたようです。
酷い話ですね。NHKの大河ドラマでは絶対に描けない(笑)。
まあただ、それに対して2015年の現在地から糾弾するよりも、
そういうコトだったんだ、という認識が大事なんだろうな、と思います。)
この小説は、島津勢に拉致されて、不本意ながら薩摩で暮らすことになった朝鮮人の人々のお話。
というか、その人々は、朝鮮の陶工、焼き物を作る技術者の一団だったんですね。
そういう技術が欲しくて、恐らく島津が拉致しました。
色んなことがあって、その一団は薩摩内に集落を築いた。そして、白薩摩、黒薩摩という薩摩焼を作り続けた。
その一団の歴史の中の数奇な流転。
そして、執筆当時に司馬さんが出会った、その一族の末裔の男性・沈寿官さんの半生記ですね。
簡単に言うと、17世紀でも、20世紀でも、その集落のひとびとは、日本人(薩摩人/鹿児島県人)から、やっぱりそりゃ酷い差別を受けている訳です。迫害と言って良いです。
彼らはガイジン、チョウセンジン、という扱いなんですが、もうそれは何世代も前の話。
人並み以上に日本人、薩摩人のつもりでも、要所要所で差別を受ける。
それにそもそも、祖先にさかのぼっても、誰も好んで来てないんですね。戦争という暴力で、誇りも生活も家族も全て破壊されて、拉致されてきている。
でももちろん、差別されるばかりでもない。日本に薩摩に同化して、胸を張って生きている部分もある。
それでも結局、俺は何なんだ、日本人ってなんなんだ。そんなに日本人じゃないことは劣等なのか。
という…壮絶に重い主題につぶされるようにして思春期から大人になっていく。
昭和を生きている、司馬さんと交流した沈寿官さんの、少年時代からを振り返る言葉が、実に重い。
そして、何と言うか、上手く言えませんが、それを政治的に倫理的に白黒つけよう、という小説ではありません。
司馬さんですから。
ささやかにですが、大東亜戦争も含めて、被害者であることに拘ってはいけないのでは、と沈寿官さんが韓国の若者に向かってつぶやきます。
そして、沈寿官さんは、4世紀に渡って一族が憧れた、故郷に降り立つ訳です。無論、生まれて初めての、故郷です。
だからどうなんだ、という結論の押し付けは無く、最後は一幅の俳画を眺めてください、という感じでした。
とってもとっても、素敵な沁みる中編小説でした。
と、同時に。やっぱり日本は21世紀の今でも島国ですから。
住んでる場所によっては、ガイジンさんと会うことも滅多にないですし。ましては交流らしい交流なんて、したことないまま生涯を終える人も多いと思います。それが良いとか悪いとかは、別として。事実として。
そういうお陰で長所もあるんだと思います。
ただ、やっぱり外国籍の人、民族習慣歴史的に少数派として生きている人への、想像力というか寛容さというか、単純な認識が少ないこともあると思います。
(ま、多民族で暮らしている国民が寛容かと言うと、全く逆なので難しいところですが)
(ま、あと、逆に国際的に活動されている人は、「俺は普通の日本人じゃないから」とすぐに周囲を見下す傾向があったりして微笑ましいですが)
そういうことで言うと、とっつきが悪い小説かも知れません。
僕の読んだ感じでは、ほかの多くの司馬さんの小説と同じく、別段、右でも左でもありません。
誰かを何かを非難する訳でもありません。
ただでも、こういうことを、書きたかった。残したかった。知ってほしかった。そういうことなんだろうなあ、と。
司馬遼太郎さんは、東アジアの民族意識にはすごく鋭敏だったんだろうなあ、と。
若い日から、モンゴル語を学んだのに中国朝鮮を蔑視して戦うように言われ。
戦後は京都関西で仏教史、日本文化史を学んで。中国朝鮮の弟分のようにおこぼれで歩んできた日本史を知って。
そして、高度成長アメリカ万歳の時代を生きた人ですから。
ペンネームは、中国の司馬遷へのリスペクトですしね。
そして、この小説に感動した自分を振り返ると。
子供の頃に、自分の意思ではなくアメリカで暮らしたこと。
アメリカではアジア人・日本人として見下されたこと。やっぱりどうにも馴染めなかったこと。
そして、帰国した日本では帰国子女として異端視されたこと。やっぱりどうにも馴染めなかったこと。
そんな自分の過去が影響しているのかもなあ、と思ったりしました。
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他の2編は、
「斬殺」
幕末維新、戊辰戦争の頃。
新政府軍の末端分子として、わずか200ほどの手勢で「奥州を平定してこい」と送られた、長州の世良修蔵。
この人も小物で、勘違いや傲慢がはなはだしい。
この小物が、すったもんだして失敗して斬殺されるまでを描く。
「胡桃に酒」
戦国時代の細川ガラシャの一代記。
明智光秀の娘で、超超美人。そして細川忠興の妻となる。
この細川忠興が、実に異常、キチガイとも言えるやきもち焼き。ぞっとします。
ほとんど監禁されて暮らすガラシャ。キリシタンとの出会い。そして、関ヶ原の戦いの前に、敵軍に囲まれて壮絶な自殺。
両編とも、悲惨なように見えて司馬さん独特のユーモアにあふれた、読み易い好編でした。