司馬遼太郎のレビュー一覧
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この時期、嘉兵衛おぼろげながらかれ自身が生涯をかけてつくりあげた哲学の原型のようなものを、身のうちにつくりつつあった。
そのことは、かれの気質や嗜好と密接にむすびついている。
潮汐や風、星、船舶類の構造とおなじように、嘉兵衛は自分の心までを客観化してしまうところがあった。すくなくとも自分のすべてについて、自分の目からみても他人の目からみてもほぼ誤差がないところまで自分を鍛錬しようとしている。
つまりは正直ということであった。しかし不正直ほど楽なものはなく、正直ほど日常の鍛錬と勇気と自律の要るものはないとおもいはじめていた。
自分と自分の心をたえず客体化して見つづけておかねば、海におこる森羅万象がわからなくなる、と嘉兵衛はおもっている。
嘉兵衛が貞代に感じた不愉快な感情は、煮物のにおいのように貞世の感覚にすぐつたわった。貞代は、
(いやな男だ)
と、ばく然とおもった。そういう感情が湧き出てしまった以上、貞代の理性は嘉兵衛のどういう部分がいやなのかということをさがし、自分を納得させねばならない。そういう目でみてゆくと、なんとも油断のならない男のように見えてくる。
第一、若いくせに言うことに淀みがない。若いということは自分自身の気持ちが整理ができないということなのである。たいていの若者は何を問われてもたじろぎ、首をかしげる。貞代のように物事の整理がついた大人からいえば、そういう若者に接すると助言者としての快感をもつのである。 -
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これまでは司馬遼太郎氏の作品と言えば燃えよ剣しか読んだことが無く、また、その燃えよ剣がまったく合わなかった。他の作品も刊数が多く、チャレンジしにくい。
そんななか、たまたま本屋で手に取ったのが、この短編集であった。
七つの短編が綴られているが、なんと生き生きと、かつ緻密に主人公やその世界が描かれていることか。彼らが活躍する関ヶ原の時代や幕末の息吹を感じ、時代や運命の不思議さ(絵師や一介の野伏が表舞台にたって活躍する)と、それに翻弄される主人公たちに引き込まれる。
英雄というのは、時と置きどころを天が誤ると、天災のような害をすることがあるらしい
とは、なかなかに含蓄のある文章であり、心に残っている。 -
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ネタバレ禅であるかぎり、悟りをひらかねば田舎の一ヶ寺のあるじでさえなれない。恵瓊もまた恵心のもとできびしく修行してやがて印可を得た。悟道に達したということになるが、一般に悟りというのはあるいは得ることができても、それを維持することが困難なように思える。生涯、それを維持するために精神を充実させつづける必要があるが、ふつうは、俗世間のおもしろおかしさのために、ただの人間以下にもどってしまうことが多い。
もどったところで、禅僧としての地位の高さから世間はそうは見ず、また当人も自分自身を自分に対して弁護するために多くの禅語や禅宗独特の修辞を動員したりする。たとえば、自分は融通無碍の境地にあるのだと思い込むだけで、自分のたいていのことは、まず自分が許してしまうのである。
恵瓊には、多少そういうところがある。
臣ハソレ中才ノミ。
という意味のことをいった。
秀次はかさねてその意味を問うた。
如水は、自分がもし上才なら何も太閤に仕えておりませんでしょう、すでに天下をとっています。かといって下才でもなさそうであるこということは、このように、真似ごとながらも諸侯に列していることでもわかります。要するに中才でありましょうな、とひとごとのようにいった。
このことは、如水の本音だったらしい。
かれは年少のころから物事の姿や本質を認識することが好きであった。さらにはその物事の原因するところと、将来どうなるかを探求したり予想したりすることに無上のよろこびをもっていた。認識と探求と予想の敵は、我執である。如水がうまれつきそれに乏しかったことでかれは右の能力においてときに秀吉をあきれさせるほどの明敏さを発揮したが、同時に我執が乏しいために自分をせりあげることを怠った。中才である、と如水が、あたかも他人を観察するように言いつくしたのは、さまざまな意味をふくめていかにもこの男らしい。 -
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ネタバレ戦争、政治という諸価値の入りまじったややこしい事象を、官兵衛は心理というものに帰納して考えようとする。
心理という、このあたらしい言葉で彼の行き方を解こうとするのは、用語として粗雑の気味もあるが、要するに官兵衛は、ひとの情の機微の中に生きている。ひとの機微の中に生きるためには自分を殺さねばならない。
(私情を殺せば、たいていの人の心や物事はよく見えてくるものだ)
官兵衛は早くから気づいていた。官兵衛に私情があるとすれば、一つしかない。が、平素は忘れている。むろん、かれの父親にも洩らしたことがなく、かれ自身、真剣にそれを考えてみるということなどもなく、要するに、いまの日常からいえば桁の外れたことなのだ。
官兵衛はおそらく、みずからそれを思うときでも、ひそかにはにかまざるをえないであろう。つまり、天下を得たいということなのである。天下を得て志を万里のそとに伸ばしたいというのはこの時代の男どもがおおかた抱いていた鬱憤であり、当然なことながら官兵衛だけのことではない。官兵衛の場合は含羞(はにかみ)をもってそれを思うだけである。