司馬遼太郎のレビュー一覧
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得てして人は歴史上の人物を経営者に例えたがる傾向にある。はてこの伊勢新九郎、小笠原家、今川家とならぶ行儀作法の家元の伊勢家の傍流ではあるが出自は怪しくない。後の早雲庵伊勢宗瑞、そうこの北条早雲はどうであろうか。
応仁の乱の最前線で生き、戦国時代の幕を切って落とした男と言われる早雲の評価は、彼の当時における一国の統治方法の大胆な価値観の変革であろう。
現代の経営に置き換えるなら、『会社は人に有りき』と言えようか。社員に如何に社長である自分を信じてもらえるか、社長を信じてこそ社員は全力で仕事にぶつかる。そう、どこぞの経営方法論何ぞ読んで人心掌握した気分で偉ぶるより歴史上の人物を掘り下げた本を読んだ方が経営者にとってきっと為になると、俺は思うが。 -
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激動の時代に大いなる功績を残した人物の足跡を辿る。松本良順がそうした幕末小説のテンプレートに沿ったキャラクターとするならば、伊之助は独特の立ち位置に存在する男だ。目をみはる栄達をしたわけではないし、書き連ねられるのは、社交性に著しく欠けるため相手を苛立たせるというエピソードばかり。そんな伊之助も、歴史のうねりの中で、何がしかの役割を果たしている。作中で痛快なことを成し遂げるわけではないが、何だか自分の周りにももしかしたらいそうに思えて、伊之助のくだりになると少し和んだ気にさせられた。
司馬遼太郎も、書き進めるに従って伊之助に最も感情移入したのかもしれない。『国盗物語』で一番人間味を感じたのが、私にとっては道三でも信長でもなく明智光秀だったように、本書では戦と聞いただけで震えてしまう伊之助に最も親近感を覚えた。まあ実際、あんな人間が近くにいたら、手ごたえがなくて、始終イライラさせられるかもしれないけど…。 -
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ネタバレグダグダの台湾出兵。第二次大戦の軍部の暴走はこの時に倣っているようだ。歴史に学ばないとこうなるのだ。
台湾出兵は秀吉の頃とあまり変わらない海外遠征で、つくづく征韓論は時期尚早だったとわかる。
学校の教科書だと、台湾出兵なんて2行程度で、薩摩士族への申し訳程度の出兵だとしか書いてない。もちろん興味もわかない。こんなにもグダグダだったなんて、この本を読まなければ一生知ることはなかっただろう。サンクス。
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p28 佐賀の乱は大久保の餌食になった
江藤新平の起こした佐賀の乱は、政府の根幹を揺るがすどころか、却って政府の結束を強めることになった。この乱のために、臨時的に明治政府の権力が集中し、来る西南戦争へ予行演習になった。
p35 独裁官だな
佐賀の乱において、大久保は独裁のごとくになった。軍事統帥権のほか、行政権・司法権の一部を委任された。その結果、佐賀の乱の戦犯の裁判は大久保のために厳粛に行われ、明治新政府の独裁性が強まった。
p38 大久保の戦略
大久保は佐賀の乱に対して驚くほど迅速な対応をした。その結果、佐賀の乱を挑発して導くことができた。実質、大久保の掌の上で踊らされた形になった。
p53 庭役
西郷は斉彬のもとで、藩士としてではなく、庭役として雇われた。それは、当時の封建制のしきたりで藩士は格式ばった形でしか面と向かって話すことができなかったからである。庭役だからこそ自由に話し合いができ、斉彬の教育を受けられるというわけである。
当時の庭役は庭の手入れだけでなく、密偵などの役も仰せつかったある種特別な存在だった。
p68 実話
佐賀の乱で配送した江藤新平が西郷のもとに救援を求めにやってきた。しかし、西郷はこれを拒否する。
この密談は西郷が宿泊していた宿で行われたが、そこのおかみさんが長命で、当時の西郷の声を聴いている。
「わたしのいうようになさらぬと、当てが違いますよ。」と西郷が怒号をあげたらしい。西郷はあくまで反乱を起こす気はなかった。なのに勝手に佐賀では反乱を起こし、それが破れたら私を担ぎに来るなんて、当てが違うということである。
p102 私学校を作ったわけ
佐賀で沸き立っている壮士たちの怒気を抑えるために、収容所のようなものか?
p125 集成館
薩摩の最新式工場。当時すでに薩摩は小規模な産業国家を形成するだけの力があった。ガラス工場や反射炉による製鉄工場もあった。が、斉彬の死後、これらは廃止された。藩財政の圧迫ということだったが、斉彬ほどの人物がいなければ運営できない代物だった。
p130 兵農不分離
西郷は商業志向を嫌い、あくまで農業志向の国家観を持っていた。「武士は百姓になっても商人にはなるな」
武士の源流は平安時代の農民である。商業は武士の精神を失わせるという。
p138 ビスマルクの器
西郷曰く「西洋人と言っても何も違ったことはあるわけではありません。聞くところによると、ドイツのビスマルクなる者は豪傑で、何の技能もない男であると申します。」西郷は君子器ならずという。君子は道具ではない。道具のような技能はない方が良い。君子は偉大なる徳だけがあればいい。そういう意味でビスマルクを喩えている。
p140 小人は…
小人ほど才芸があって便利なものである。これは大いに用いなければいけない。しかし、長官に据えて重職を授ければ、必ず邦家を覆す。これは薩摩藩の斉彬の後継者争いで感じたことだろう。
p142 斉彬の家督騒動
斉彬は42歳まで藩主でなかったのは、父である斉興が家督を譲らなかったからである。それは斉興のブレーンであった調所笑左衛門の手回しによる。笑左衛門は茶坊主あがりで、藩財政の立て直しのため家老に大抜擢された男である。彼は大阪の借金凍結やサトウキビ貿易と中国密貿易など無理をして財政を立て直した有名な男である。
西郷に言わせれば、調所に家老という役職の褒美を与えたのがいけなかったという。褒美は物の褒美を与えればよかったのだ。
調所は財政力という技能を持っていたため、政治にそれを用いて失敗したという。調所は斉彬の開明的政策を財政ひっ迫になるとして強く反対した。それゆえ斉彬はなかなか藩主に慣れなかった。しかし、時勢を見れば斉彬が正しかったはずである。技能があると小手先に囚われ、対局が見れなくなる。そのため、政治には不向きなのである。
これが西郷の理論。斉彬が藩主になれなかった理由。
p156 沖永良部
おきのえらぶ島は西郷が二回目の島流しにあった場所。1862年に西郷は久光に「浪士を煽って武士社会の転覆を腹に含んでいる」という嫌疑で島流しにされた。
p171 空っぽの西郷、春日潜奄を訪ねる
大隈重信は西郷や板垣を馬鹿と思っていた。実際西郷は維新後の世の中で路頭に迷っていただろう。
西郷の新時代観は「堯舜のようなもの…」ていどのふわふわしたものだった。だから、勉強のために部下の村田新八を遣わした。
p173 横井小楠
この時代の新国家観の持ち主は、横井小楠、勝海舟、福沢諭吉、この程度だった。横井小楠は有名でないから調べたい。
p178 薩長の対比
長州は江戸時代から藩主を端に機関として扱い、君臨すれども統治せずを実施していた。
対して薩摩は、藩主がすべてを仕切っていた。「島津に暗君なし」といわれる奇跡の国家だった。
ゆえに西郷には天皇の存在がうまくつかめなかったようだ。
p191 西郷VS大久保 対立の原点
廃藩置県がその原点。大久保は廃藩置県を推奨したもののそれを決して表には出さないようにした。薩摩藩士でそれを唱えれば、殺されることは必至であった。木戸孝允ら長州人たちにこれを推進させ、島津久光の怒りはほとんど西郷にかぶってもらった。
このやり方から、二人の決別は始まった。
p222 台湾出兵
「薩摩の沸き立つ壮士たちが喜ぶであろう」という子供だましのために起こした対外戦争。
沖縄の漁船2隻が難破して台湾南部に漂着した。漂着者たちは高砂族に襲撃され66人中54人が虐殺され。残りの12人は中国の福州に逃れた。これに対する報復戦争である。
p224 尚氏は源氏、対馬氏は平氏
日本の武家らしく、源流を名乗っていた。
p229 鄭成功
鄭成功は日本の平戸藩の藩士の娘を母とする混血児で、明が清(ヌルハチら遊牧民族)に滅ぼされそうになった時に抵抗を続けた武将である。その対清の拠点としたのが台湾である。この当時の台湾はオランダの東インド会社に占拠されていた。鄭成功はゼーランディア城を奪取し、拠点を得た。
鄭氏の台湾は21年間続いたが、清の追討軍により破れ、清の植民地になった。
p233 グラント大統領はだめだった
アメリカ南北戦争の北軍の将軍グラントはアメリカ大統領になった。しかし、グラントは史上もっとも無能と言われるほどだった。
p243 客家
中国でも不思議な存在である客家。唐末の黄巣の乱の際に華北から南下した連中を祖先に持ち、そのうち全土に散った。常に反政府的気分を持っており、太平天国の乱なんかも彼らの仕業で、洪秀全なども客家だった。
p252 革命のエネルギー
革命のエネルギーは正義とか人権擁護とかキレイごとは並べていても、結局は殺意と反逆心のエネルギーでしかない。このエネルギーは革命が収束したら消えるというものではない。歴史ではしばしばそのエネルギーは外国に向けられる。
中国がいい例である。中国で国号が変わる革命が起きたのち、その強大な軍隊を解散させるわけにもいかず、北方遊牧民族などの外征や防衛などに用いられ、中央から遠ざけられることも多かった。ナポレオンの対外戦争もフランス革命のエネルギー発散だったということもできよう。
p254 台湾へぶつける
台湾出兵の理由。①出兵の兵を募れば、薩摩藩士の気も紛れるだろう ②台湾に出兵することで政府が外国に対して弱腰ではないということを示すため
結局、台湾はとばっちりを受けただけなのである。
p257 清ならまぁいっか
征韓論はダメで、征台論が良い理由。挑戦を打倒した後に出てくるのはロシアである。しかし台湾ならその後に出てくるのは清である。この時期、日本はロシア帝国に勝てる軍事力はない。しかし、清ならまだ何とかなるという希望があった。
p261 毛利元就から始まる長州の気質
元就は輔佐政治という家憲を残した。元就亡き後、輝元を支えるため、二人の叔父である吉川元春と小早川隆景が「毛利の両川」として本家を護るために補佐官に徹した。
この精神が長州藩の法人的国家観を生んだ。
p285 西郷の台湾出兵の反応
木戸孝允は「政府は征韓論を押した江藤新平を処した。それなのに、台湾出兵をするという。これは理に合わない。本来ならば、江藤をして台湾出兵の総大将にすべきである。」といって矛盾をついた。
しかし西郷は、「それはよろしい」と従道に言った。
p317 当時の明治政府軍の程度
台湾出兵と言っても猪狩りのようなものだった。日本の持つ銃器は火縄銃で、高砂族の者たちは日本軍が追えば山林に逃げ、それを追い落とす程度のものだった。
日本軍はマラリアでひどい被害を出し、それを含めれば日本人の方が被害が大きかった。
p319 台湾出兵の異常さ
台湾出兵は日本史上の珍事件と言える。兵三千以上の軍隊を国民に開示することなく、夜盗のようにこっそりと出兵するという近代国家にあるまじき一大事であった。そして、それは現代に至っても日本人に馴染むことのない不思議な事件である。
この台征に際する大久保の所業は詐欺まがいと言っていい。太政大臣の三条実美と岩倉具視の勅命だけで出兵の許可を得て、早々に西郷従道に出発させて既成事実として作戦を進行させた。ゴリ押しにもほどがある。
このやり方はのちの軍部のクセになる。このせいで昭和の大失敗が起きた。その起源とも言えそうである。
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この巻の中心は台湾出兵であるが、ここにも昭和の軍人の思考を絡めてくるところがさすが司馬遼太郎だ。
しかし、まだ4巻。半分いかない。スゴイ読みごたえを実感している。 -
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…巨星、堕つ。1996年2月12日、十年間続いた『文藝春秋』の巻頭随筆「この国のかたち」は、筆者の死をもって未完のまま終わることになった。…
電車に乗って「さぁ最後の完だぞ!」と本書を手にとった瞬間に飛び込んできた文字列。裏表紙に記載されていた。とてもショックだった。司馬さんが亡くなられていたのは知っていたが、この本が絶筆になっていたとは…とても悲しくなった。呆然とした。なぜだか…
1996年2月といえばわたしが役人を辞めて一年ほどフラフラして退職金を使い果たしてやっと仕事を始めた頃であった。それから18年。全く何をやっていたのか?ただ、生きてきた。ずいぶん思い悩んだが、まぁそれでよかったのだろう。生命というのは生きることがその本質であろう。まちがいなく生きてきた。
言語についてとても興味深いことが書かれていた。話し言葉と文章の言葉とは違うのである。耳はバカだから。目はそういう訳にはいかない。目は厳しい。しゃべりは適当でもいいが、書いたらそうはいかない。もう少し書けるようになれたらいいな。
Mahalo -
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神道や宋学についてまとめて書いてある。なので思想というものについて考えさせられた。
宋学は宋の時代漢民族が自分は文明人(華)で、北方の異民族(蛮)に圧倒されて屈折した気分を何とか晴らしたいと考えだされた考えだったようだ。ものの考え方としては悪くはないだろう。どうせ考えるのなら気分が良くなるように考えたらいいと思うからだ。しかし、実態に合わない考え方をすると虚しい空論になる。頭の中だけが満足して生活は苦しくなる一方だから、当然滅びる。
思想というものは気分から始まるのかもしれない。生きづらいと感じている気分をどうにかこうにか「いやこれでいいじゃないか!」にひっくり返すためになされる大変な営為なのではなかろうか。しかも、現実認識がなければその殻の中に閉じこもり窒息して滅びるであろう。時に暴発して大犯罪を犯すものも出るかもしれない。だから危険思想というものもある。
気分を言葉にし、それを抽象化して概念を創造し、精緻に組み立てて体系化する。ご苦労なことである。こんなことができるとしたらその人は余程のエネルギーをその身のうちに蔵していなければなるまい。まず凡人には無理である。まぁ、万が一そんな心血を注いだ思想が完成したとして、その思想がその当人以外に当てはまるかどうか、役に立つのかどうかはわからない。たまたま多くの人が同じ苦しみを抱えていて、その思想によって気分が晴れる場合にのみ流行するのであろう。
そして、流行した思想は往々にして権力者に利用される。多くの民の脳に刷り込まれ、しかも、都合のいいように若干の修正が施されて有効な支配の道具となる。いやいや権力者ばかりではない。革命にも利用されるのだから、気をつけないと誰のものかもわからない考えで凡人は操られる結果になることが多い。気をつけよう。
鉄についてもまとめて書かれていた。もののけ姫を思い出して興味深かった。
Mahalo -
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ネタバレ征韓論前夜の一部始終の歴史物語。西郷隆盛がモンモンモンモン…悶々悶々悶々悶々…ひとりで…。
魚釣りに出かけてる。
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p20 尺度は人の業
人間の相克は、利害にもよる。しかし尺寸にもよる。人間の不幸は、人によって尺度の大小異なっていることである。
p22 西郷の尺度
西郷は征韓論という言葉を使ったことはない。遣韓論という言葉を常用した。あくまで西郷は使節として話し合いに行く。ただ、和解は無理な協議だから、自分の死を以て日本の、ひいてはアジアのために列強に対抗するアジアの連携を達成しようと考えていた。
p24 西郷は好戦的か嫌戦的か
「誰が戦を好むものか」⇔「道義をまもるためにはたとえ一国が亡びようとも戦え。一国の政府たる者は戦の一字を怖れるべからず。」
西郷の中には矛盾した思想がある。戊辰の頃には、江戸を灰燼に帰し将軍の首を撥ねて新時代の礎にする。ということを言いながら、無血開城を実現し慶喜を水戸に逃し、奥州越列藩に慈悲を与え、戦後には榎本武明ら佐幕派の者に恩赦を与えた。
そういう、矛盾した正義をもつ熱い男だった。
p32 己を愛するなかれ
西郷の自己教育の精神。己への愛を忘れれば、自己を客観視できるようになるということらしい。
甘えのない男だったのだろう。彼は子供のころに皆が嫌う算盤をあえて学んで、若いうちから藩の書記の仕事に就いて家計を助けていた。子供のころから自己犠牲の精神が強かった。そこから生まれた信条だったのだろう。
p40 山県の考えたこと
山県が海外留学で学んだことは、王政の斜陽と国家議会の伸長という時代の潮流である。日本では天皇という王を掲げて新政府を作ろうとしている。世界とのギャップに恐怖したことであろう。
p44 天皇の重厚さ
日本史における明治二十年代以降からの天皇の扱いが重厚なものになったのは山県の仕業。
山県がロシア皇帝ニコライ二世の戴冠式を見に行って、皇帝の扱い方を学んだ。従来の天皇は人目についてはいけないものであった。それは結局天皇はあってないような存在になっており、欧州のような絢爛豪華な威信はない。ロシアのように専制権はもたない「君臨すれども統治せず」の皇帝だが、豪華さを取り入れた、象徴にふさわしい威信を天皇に付加した。
p47 軍人勅諭は山県が作った
司馬氏の忌み嫌う「統帥権」これの根拠となる記述がこの軍人勅諭にある。
-「軍は天皇の威光によって召集された栄光ある集団である。」であるからして、軍人たる者、天皇の直属の臣下として崇高なる人格を持つよう努めなければならない。ー
というような軍人の道徳書として作られたのだが、昭和の軍人によって曲解された。軍を指揮するのは天皇の権利であり、軍は内閣や国会をすっ飛ばして天皇に直接奏上し、戦争をおっぱじめられる。というように扱われ、大失敗したのだ。
山県が悪いわけではない。が、根源はココである。
p52 狐疑深き…
西郷隆盛は弟:従道に対して「狐疑深き」者として記述している。従道は兄である隆盛は明治新政府を倒し第二の維新を考えているのではないかと疑っていた。ともに留学した山形有朋の影響で国権主義に傾いた。そこからすると隆盛は共和主義のようにも見え、疑わずにはいられなかった。
ただ、隆盛を疑ったのは従道だけでなく、薩摩藩でも多くいた。というか、根本から信用しないのだ。隆盛は藩主:島津久光を裏切る形で維新を起こした。久光の周囲の人物からは決して信頼されない人物であった。
こういう周りの見方もあって、従道は身内ながら独特の見方を持っている。征韓論についても外遊を経験した身で、西欧列強の考え方は分かっているから反対の意見を持っている。
p70 薩摩は700年
薩摩藩は鎌倉時代以来700年続いた、徳川家よりも歴史のある家柄である。それだけに藩士の結びつきも強い。それを廃藩置県したのである。
p93 西郷の情報不備
征韓論争中の西郷は岩倉具視ら参議の集合を待って自宅にこもっていた。そのとき、桐野利秋ら西郷の側近らは自宅警備として交代で西郷宅に詰めていた。そのせいで西郷は人に触れる機会がほとんどなかった。桐野らが「西郷どんの静謐を守るんじゃ」と来客をけんもほろろに追い返してしまうのである。
そういうこともあってか、この頃の西郷は情報に偏りや不備を持つという風がある。
p177 江戸開城
江戸無血開城の功労者は、慶喜の側近の勝海舟である。当時の諸外国の考えとしては、社会混乱による日本市場の縮小は避けたく、新政府と幕府の江戸での内乱はやめてほしかった。勝海舟は外国公使の思惑を読み、あえて「われわれ旧幕軍が江戸で暴れれば火の海になるであろう。もし官軍が慶喜を許すというのなら江戸を開城するつもりなのだが…」と英国大使パークスにふっかけ、官軍に圧力を加えさせた。
と、アーネスト=サトウの回想録にある。このサトウはすごいようだ。調べよう。
p239 なぜ泣くのか
「千絵」という章。維新で徳川の幕臣だったものは駿府へ引き上げるか、新政府の朝臣になるか、農商になるか選択を許された。芦名靭負という旗本は朝臣になろうとするが、維新の動乱で命を落とす。その子供、新太郎は彰義隊に加わり命を落とし、妹の千絵だけが生き残った。動乱で兄とはぐれ何年も兄の消息を知らなかった千絵が兄の死を知った時の一節
-なぜ泣くのか。兄のために悲しんでいるのではなく、自分のために-
時に涙は蜜のようで、不幸という蜜をなめて甘美に悲しんでいるのではないか
p246 拡大資本主義ではなく
明治初期のころ日本が外国に輸出できる産業はなかった。資本主義のための領土拡大論などというものは成立しようもない。ただ、アジアの連携による欧米列強からの防衛圏を作るのが論点である。征韓論を資本主義と絡めて考えるのはいけない。
欧米のアジア進出も、産業革命であふれた商品のはけ口となる新たな市場をもとめて、暴力的に行われたのである。日本は違うからね。
p254 薩摩字書
旧薩摩藩士:高橋新吉は日本で最初に印刷された英和辞典を作った男である。
p347 大衆は…
大衆は明晰よりも温情を愛し、拒否よりも陽気な放漫な大きさを好み、正論よりも悲壮に憧れる。
やがて、明晰と拒否と正論を悪とみなすようになる厄介さである。
大久保利通はこの三つを持つ男であり、大衆に好かれなかった。そういう朴訥な男であった。その対極に西郷隆盛がいる。
p358 山県有朋のお食事券
山県は明治早々、明治最大の汚職事件を起こした。
長州出身の貿易商:山城屋和助は山県の口利き(賄賂で)で兵部省の御用商人になった。そして和助は官金に手を付け生糸相場に手を出して大損をこいた。そして高跳び。山県は和助とのつながりを洗われて責任をとらなければならなくなった。
これを機に新政府の薩長の関係にひびが入り、新体制に暗雲が立ち込めた。西郷は薩長体制を守るべく、山県を救った。紛糾する薩摩藩士を抑え、薩長体制の崩壊を防いだ。
実際、山形有朋ほどの実務家が他におらず、彼ほどの人材を失っては出来立ての陸軍省は立ち行かなくなる。事実、一時機能停止した。その面でも西郷から見込まれており仕方なく山県は許されたのである。それゆえ、山県は西郷に頭が上がらなかったのである。
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学校の授業では征韓論も明治維新の速い流れの中でさらっと流されていってしまう。
征韓論っていうのは当時の列強の帝国主義とか、アジアの被植民地側の危機感とか、深いテーマなんだよな。
この巻では征韓論の議論のテーブルに着くまでのダラダラ、グダグダ、イライラする裏工作の様が、幾度も幾度もわき道にそれて、だらだら、ぐだぐだと書き連ねてある。
司馬先生の書き方がすごくダラダラしていて、西郷が征韓論に関して待たされている感じがよく出ている。
それにしてもスゴイ内容の濃さ。登場人物全ての解説をしようとしているとしか思えない。
それでいい。
それがいい。 -
Posted by ブクログ
司馬さんは日露戦争に勝ったあたりから日本人がリアリズムを失って地に足がつかなくなり、幻想に縋って生き延びようとし始めたから、国が滅んだとおっしゃる。しかも、夏目漱石は「三四郎」なかで三十有余年前にそれを予言していたと…
わたしが、社会に出て悩んだことの一つに、自分の給料や仕事のリアリティーを感じるのが難しいということがあった。「こんなんで生きていていいのだろうか?」ずっとそう思っていて、今でもそう考えることがある。もしかすると、いまでもほとんどの日本人は幻想に縋って生きているのではないだろうか。リアリティーは脳が創るものだから、それも当たり前といえば当たり前かもしれないけど…あまりにも浮ついた存在になってしまっているような気がする。これが「脳の中の現実」か…
おそらく、早晩日本はまた滅ぶのではなかろうか?もう、それは止められそうにないからどんな滅び方をするのかを考えてそれに対して心構えをしておいたほうがいいのかもしれない。ちょっと暗い気持ちになった。
Mahalo -
Posted by ブクログ
どんどん面白くなっている。とまらない!もっともっとと読みたくなる。
多分、司馬さんの文章を読み慣れてきたせいだとは思う。しかし、それにしてもわたしはものを知らない。特に字を識らない…とは言いながらもズンズン読んでいこう!
昔の偉い人がたくさん出てくる。偉い人ってほんっとすごい!例えば東京帝国大学の土木工学の初代日本人教授だった古市公威という方なんかはとんでもない勢いで勉強されたみたいである。留学先のフランスでそのあまりの勉強ぶりに下宿の女主人があきれて、“公威、体をこわしますよ”と忠告すると、「わたしが一日休めば、日本は一日遅れるのです。」と言ったそうである。全開フルスロットルで生きていたのだろうなぁ~もちろん日本の近代化にさぞや貢献されたことだろう。
こういう良い話がたくさん出てくる。こういう話しは読んでいて感動し元気が出てくる。何しろ彼らは身体を張っているのである。その当時の世界という舞台でとんでもないダンスを踊っていたのが司馬さんの文章から伝わってくるのである。これは村上さんの文章を読みんで得られる快楽とは、また、異なる快楽である。
Mahalo