浅田次郎のレビュー一覧
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辛亥革命がおこり、中華民国が建国されるが、統率力のある人物に恵まれず、政局は大混乱。
その中で宋教仁が現れ、救世主とも仰がれるが、暗殺されてしまう。
(アメリカ人ジャーナリストのトム・バートンはこの時、宋を助けようとして命を落とす。)
清朝の復活したかと思えば、袁世凱が皇帝になる。
本当に目まぐるしい。
この巻では、いよいよ「東北王」、張作霖が長城を越えることを決意して終わる。
愛新覚羅の将軍たちが、反対派を殺すしてまで北京入城を果たした建国の物語と重ね合わせながら。
「浅田史観」では、西太后が中国を中国人のものであらせるために、自ら憎まれ役となって、革命を起こさせ、新しい中国の王が現れるのを期した、となる。
袁世凱は俗物だけど、清朝を滅ぼすという器に余る天命を懸命に果たしたのだ、と。
たしかに、自分は安全な所にいながら、当時の人をあれこれ偉そうに評価するべきではないと感じる。
当時も、(そして今も)人は自分の境遇を、ただ必死で生きているのだから。
その意味では、浅田さんの見方にも共感する。
でも、今までいろいろ読んできたものから、自分なりに考えてみて、どうしても西太后を「生き仏」のように慈悲深い人とは思えなくて…。 -
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いよいよ西太后が最期を迎える。
そして光緒帝も。
大変な山場。
と同時に、日本に亡命した梁文秀と玲玲のこと、マダム・チャンやら、トム・バートンらも出てくる。
もちろん、春児も。
李家のきょうだいたちの再会もありそうな雰囲気。
中国語を学んだことがある身としては、アル化の話が面白かった。
北京語でよく聞かれる、語末にrがつく現象のことだが、春児が「チュンル」もそのひとつ。
ただ、「チュンル」でなく、「チュナル」と発音されるのが上品だ、とあったのが、ほう、そういうもんか、と興味が惹かれた。
私の中国語の先生は、大連出身だったが、魯迅の「故郷」を読んだとき、「宏児」を、日本語訳のように「ホンル」ではなく、「ホナール」と発音していたのも思い出した。
あと、この時期の中国の、いろいろな国から人が吹き寄せられている状況を、様々な言語を取り込むことで表現しているところもおもしろいのだけれど、一つだけ気になることが。
「対」の使い方だ。
「対」は、「はい」と訳せるが、日本語の「はい」と全く同じにはならない。
「その通りです」「正しいです」の意味の「はい」だったと記憶する。
だから、この巻のどこだったか思い出せないけれど、「~があるか?」と聞かれて「対」と答えることはないと思うのだけれど…。
たぶんそれなりに調べて書いているのだろうし、もしかするとネイティブのインフォーマントを持っているのかもしれない。
実際にはそういう使い方もあるのかなあ? -
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『珍妃の井戸』まで読んで、もう続きは読まないのかな、と思っていたが、結局読むことにした。
李春児・玲玲きょうだいの兄、春雷が、東北の覇者、張作霖の「五当家」になる。
実力随一の「総攬把」である張作霖が、皇帝のしるし、龍玉を手に入れるところから物語が大きく動いていく。
張作霖というと、満州事変で日本軍に爆殺されてしまった人、ということくらいしか知らない。
張作霖と息子、学良が清朝滅亡後の中国を率いていくはずだった、というのが浅田さんの認識でいいのかな?
あのあたりの歴史は本当にいろいろな勢力が錯綜してわかりにくい。
それにしても、この巻は、また語りが多彩なこと。
『蒼穹の昴』にも出てきた、占いの老婆の語り、康熙帝から乾隆帝に至る三代の帝に仕えた兆恵将軍、秀芳馬占山など。
乾隆帝が登場することはもうないけれど、今回はヌルハチの後継者選びの頃から、登場人物たちの過去まで、時間もあちこち遡る。
うっかりしていると、目がくらみそう。
面白いけれど、物語を追っかけるのもなかなか大変だ。 -
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疎開先の小学生たちや教師、島で働く女子学生たち、そして敵兵であるソ連兵たちなど、自国の兵士だけでなく、それぞれの立場の苦悩と葛藤、戸惑いを描くことで浮かび上がる、戦争の不条理と非情さ。
こうした様々な立ち位置からの悲劇を描けるだけでも、すごいと思うのですが、さらに浅田さんは物語の舞台となる占守島すらも、不条理と非情から生まれたことを描きます。
国家の思惑に踊らされ、故郷を追い出された先住民たちの悲劇。単に物語の舞台でしかなかったと思っていた島すらも、不条理と非情から生まれていたということが、明らかにされるのです。
個人と土地、それぞれの物語をあますことなく描ききり、小説は最終刊に向かいます。 -
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ネタバレ目次
・若鷲の歌
・小村二等兵の憂鬱
・バトル・ライン
・門前金融
・入営
・シンデレラ・リバティー
・脱柵者
・越年歩哨
・歩兵の本領
1970年頃の自衛官たちの物語。
ゲバ棒を持った大学生も、ラブ&ピースのTシャツを着た若者も、それなりに就職していい暮らしをしているときに、それぞれの事情で自衛隊に入らざるを得なかった若き自衛官たち。
理不尽なしごきやいじめに涙を流し、戦争に行くことのない軍隊生活を嗤う。
自由がなくて、安月給で、慢性的人員不足のせいで、やらねばならないことだけはいくらでもある。
けれど自衛隊にいるのは彼ら若者たちだけではない。
もう何年もこの生活を続けている先輩兵。
旧陸軍の生き残りの古兵。
著者はきっと、自衛官だったときは自衛隊を好きではなかったのではないだろうか。
痛いし、苦しいし、理不尽だし。
青春の苦しさだけではなく、生きていかねばならない大人の苦さ。
それに気づいた時、作者のまなざしは優しいものになったのではないのかな。
存在の是非ではなく、現実にそこにある存在として、生き延びるための術がある。
自衛隊には落第生がいないのだとか。
ひとりの落第生のために全滅することもあるから。
“だから軍隊というのはどこの国でもそうだけど、優秀な兵隊を作るんじゃなくて、クズのいない部隊を作ろうとするんだ”
なるほど。それは気付かなかった。
けれど行き過ぎたそれが、往々にして全体主義になっちゃうんだよね。
「若鷲の歌」に出てくる川原准尉。
昭和20年8月15日の日付が入った、自分の位牌を持つ。
「日輪の遺産」に出てくる真柴少佐のモデルなのかと思ったり。
“川原准尉の小さな体は、少年飛行兵のまま成長を止めたのだと思った。その夜、私はこの世で最も気の毒な、最も救いがたい、どんな念仏にも祈りの言葉にも成仏することのできない幽霊を、この目で見た。それは、勝手に戦をして、勝手に負けて、その理不尽なツケを私たちの世代にそっくり押しかぶせた軍人のなれの果てには違いなかった”
こーゆー書きぶりが、ほんと、上手いんだよな。 -
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ネタバレ2018年、24冊目です。
山の神という言葉は、最近、箱根駅伝のランナー紹介の時によく耳にしますね。
山岳信仰が、日本古来の神道に結びついて形作られていると思いますが、
そういった説を待たずとも、少しばかり山の奥深い場所に、一人で足を踏み入れると、なんとなく「畏れ」を感じる。人は山の神を畏敬の念を持って受け入れている。
魂魄というものに出逢ったことはないですが、存在を寛容に受け入れる精神世界が私の直ぐそばにあることは確かだと思えます。
八百万の神々がいるとすれば、私のそばに存在し、私の暮らしの、いや行動の一つ一つにその存在の力が影響しているのかもしれません。
運がいいとか悪いとか、、、。
いくつかの短編で構成されていますが、それぞれが繋がっていて、読み手が全くストレスを感じずに、次々に新しい物語に入っていけました。