Posted by ブクログ
2020年04月11日
文久三年八月。
「みぶろ」と呼ばれる壬生浪士組では、近藤勇ら試衛館派と、芹沢鴨率いる水戸派が対立を深めていた。
土方歳三を慕う島原の芸妓・糸里は、姉のような存在であった輪違屋の音羽太夫を芹沢に殺されたことで、浪士たちの内部抗争に巻き込まれていく。
新撰組の「闇」の部分、芹沢鴨暗殺事件の真実に迫る時代...続きを読む劇サスペンス。
輪違屋の糸里、桔梗屋の吉栄、この二人の天神の名は鈴木亨さんの「新撰組100話」(中公文庫)で読んで知っていた。
芹沢鴨暗殺の日、彼女たちがまさにその現場に居合わせたことも。
糸里、吉栄のその後がどうなったかはさておき、少なくともその場で惨殺されたわけでないことは歴史的事実である。
「新撰組100話」を読んだときは、なんとも思わなかったのだが、実はこれってものすごいミステリなんじゃないだろうか。
芹沢と寝床を共にしていたお梅は、土方らに斬られている。
命の助かった平間と共にいた糸里はともかく、芹沢同様に暗殺された平山と一緒にいた吉栄が無事でいるのは、はたしてどういうことか。
下の隊士らにすら漏らさぬように、秘密裡に事を運んだ土方たちにしては、事件現場を目撃した彼女たちを生かしておくのはあまりに不手際だろう。
お梅を叩き斬っているのだから、よもや「女は斬らぬ」などという戯言を吐いたわけでもない。
このミステリに対するひとつの回答がこの小説であると思う。
「新撰組100話」によれば、平間が薩摩浪士の斬り込みかと思い、刀に手を伸ばしかけると、枕を並べていた糸里がヒシと握って放さなかったそうである。
このあたりも、本作を読んだ後であれば、なるほどと頷けるものがある。
さて、本作はそういった歴史ミステリとしての楽しみ方以外にも、純然たる時代小説、または恋愛小説としても十分に読み応えがある作品に仕上がっている。
この物語は、糸里をはじめ、吉栄やお勝、おまさら、多くは女性の視点から描かれている。
そして女性の目を通すと、いかにも新撰組という存在は滑稽なものに見える。
ひとしなみの世間知もなく、ただただ武士というものに憧れて多摩の田舎からやって来たおのぼりさんのように見える。
土方歳三という男は、鬼のような冷徹さと事を成す為にはどんな犠牲もいとわない狡猾さを兼ね備えた恐ろしい男だが、彼もまたやはり、所詮は多摩の田舎の百姓でしかないのだと、女性の目を通してしまえば、思い知らされる。
新撰組は、音羽の、吉栄の、お梅の、そして糸里の「おなごたちの夢」を足蹴にしてあほうで手前勝手な夢を追い続けた。
それは男だから許されることだ。
何もかもかなぐり捨てて、ただ自分の望む道を行くということが――たとえ叶わぬにせよ、だ――どれほど仕合せなことか、男はわかっていない。
だから、糸里は好いた男の口から吐かれた最後の言葉を、未練ひとつ残さず、断ち切ってみせた。
お前はわたしたちの夢を踏み台にして登っていこうとしているのだから、ここで逃げるなんて許さないし、わたしもまた逃げたくはない。
わたしはわたしの道を行く。
だから、あなたもあなたの士道を行きなさい。
糸里がそんな風に言っているように、僕には思えた。
この後、新撰組は池田屋の事件で一躍、その名を挙げ、しかしついには幕府とともにその名も命も散らしていくことになる。
土方が言うように、殿様から禄を貰うことが「武士」であるならば、彼らは武士になれたのだろう。
だが、僕にはそうは思えない。
新撰組は、ただ時代を迷走し、そして散っていっただけのように感じる。
いつの時代も女性は強い。
その強さは、沖田や永倉の剣ですら敵わぬほどだ。
彼女たちは歴史の表舞台には決して出ては来ないけれど、でも確かにこの動乱の時代において、地に足をつけてしっかりと立っていたのだ。
その姿は、きっと剣を構えた男たちにも負けないくらいに凛として格好良かったに違いない。