角幡唯介のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
少し長いが引用。
『探検家が探検をすることには多くの人が様々な理由をつけてきた。……そんなことは人間が探検をする本当の理由にはならない。探検をしない人たちが考え出した分かりやすい理屈に過ぎないのだ。悩みや葛藤や逡巡という要素を取り除いた、やらない人たちが納得するためだけの、きれいに体裁を整えた説明なのだ。……彼らは北極の自然に囚われていた。人が命を懸けて何かをすることを説明するのに必要なものは、もしかしたら囚われてしまったという、心の片隅に突き刺ささった小骨のような心情のひだを持ち出すだけで十分なのかもしれない。囚われるというのは恐ろしいことなのだ。』
「探検」と「北極の自然」を「カヌー」に置き換えるととても私にはしっくりくる。囚われたものがある人には、「」内を換えると同じ思いなのではないかと。
角幡さん、ビシッと突きましたね。
あと、唇痛そうです。ひー。 -
Posted by ブクログ
ネタバレほわー!ホントにこんなとこしてる人いるんだなーっとただただ驚嘆!
思えばこーゆー探検ドキュメントみたいなの読んだのって初めてかも。
北極かあ。
つーか10度以下になった時点で冷える~っと悲鳴をあげている私には絶対無理。
が、そーゆーありえない状況が、日常になると、それがあたりまえでなんとも思わなくなる、とゆーのが印象的だった。
なるほど、どーゆー状況でも人間は慣れるものなんだな、と。
こう町の影がみえてきて、そこへ向かっていくうちに、
人のいる世界が日常へと変わっていく、とゆー感覚が、すごいなーっと。
にしても、ほんと、どんだけ過酷なんだっ。
血がつららになる、とか。もうありえない。痛すぎるぞ。
実際の様子とフランクリン隊についての諸々の記述が交互に書かれてあるので、こうテンポよく読めるとゆーか。文章も読みやすく、
この人のは他のも読んでみたいなあっと思わせた。
やっぱイチバン鮮烈だったのは麝香牛を喰うとこでしょうか。
いやーでも自分でさばけるとかスゴイ。
食べることが生きることに直結する。そのなんとゆうか圧倒的ななにか。
自然に囚われる、かあ。
きっとこの人も同じなんだろうなあ。
私だったら二度と行きたくない、と思うだろうケド。
いや、その前に生き残れないと思うが。
しっかしなんなんだろう。
こんなとこで生きれるわけないだろっとゆーようなところへ
何度も何度も行こうとした、する、人たち。
それほどのものが、きっとあるんだろうなあ。
そして、そーゆーひとたちになんとなく憧れを抱いちゃうんだな、なぜか。
検索3度目の正直にして。
そろそろエラー、どうにかして欲しいなあ。
ちょっとイラッとする。
他の検索使うとか、できないのかしら?? -
Posted by ブクログ
ネタバレ四方八方雪と氷しかないなんて、想像はできても感覚は全くつかめない。それなのにこの一冊はものすごい現実感が迫ってくる。
だからなのか、読み進めるのはとても疲れた。消耗していくのがはっきりとわかった。300Pぐらいで休みをいれて、普通の小説を読んだらなんだか体から力が抜けるようだった。
すごいな、なんでそんなにまでなって、などと読んでいる間に何度思ったかわからない。特にヘルペス。写真を見なくても痛々しさがわかりすぎて、どこでもドアで薬を手渡しに行きたくなった(もう旅は終わっているのに)。あと生肉でおなかをこわした日。休めないからとよれよれと前へ身体を進ませようとする姿が痛々しい。荻田さんが見かねて荷物を持ってくれたというくだりにほっとさせられる。
麝香牛の母親を殺して解体したくだりはつらくて読めなかった。
(実際には流し読み) もうたまらなかった。
出会った動物、飛んでいる鳥、釣った魚、鳥の卵、普段目にしないものを次々と食べることに驚いた。
そういう食べ物に関する知識だけでなく、他の知識も豊富だなと感心する。助けを求められない極地への旅をするのだから吸収している知識も半端ではないのだろうな。
壮絶な一冊だった。 -
Posted by ブクログ
新聞の書評で本書を見つけ、開高健ノンフィクション賞を受賞した時から気になっていた著者でもあり、読んでみた。
19世紀半ばに、ジョン・フランクリン率いる北西航路探検隊129名全員が亡くなった航路を辿ることで、彼らの見たものを自分の目で確かめようと、著者と極地探検家の荻田泰永の二人で挑んだ北極冒険譚。
彼らの旅の行程をなぞりつつ、途中途中にフランクリン探検隊の謎にまつわるエピソードが差し挟まれていくという構成で、語りもうまく、そのあたりなかなかニクイ。
かなり厳しい旅であったことは想像に難くないのだが、思いのほか淡々とした印象を持ったのは私だけだろうか?
ただその中でも、麝香牛を殺して食べるシーンは心に刺さった。著者も最終章で「生きることに対する罪悪感」と振り返っているが、自分の命を守るためにほかの命を奪うという生命の本質のようなものを突き付けられた気がして、ちょっと動揺してしまった。
「残酷」と言ってしまえばそれまでかもしれないが、きっとそれが命の持つ本来の姿なのだろう。私たちは普段見て見ぬふりをしているだけなのだ。
もともとノンフィクション好きだし、このような冒険譚も大好きなのだが、常々思うのは、なんだってこの人たちはわざわざこんなところまで行って、肉体と精神の極限の只中に飛び込むのか、何を好きこのんでマイナス40度だの、断崖絶壁だの(本作にはないけど)、明日の命の保証のないことをするのか、全然理解できない!私なんか大金積まれて頼まれたって絶対嫌だ!!誰も頼まないだろうけど。
まあ、でも、著者やそのほかの著名な冒険家が言うように、題目は何であれ、冒険そのものが目的で、それ自体に価値があると思える、探検することそのものに囚われる、それに尽きるのだろうな…。
冒険家の冒険家たる所以でしょう。
それにしても…恐るべし、早稲田の探検部。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ冒頭から出産シーン、娘が誕生する。そのため、何をしてても何を思っていても「生まれたばかりの子がいる父親」と見てしまい、冒険家という肩書きが前に来ない時が読んでいて多々あった。それを上回る冒険譚ではあったし、読んでいてとても面白かったのはある。
最後の冒険みたいに書いていたが、その後何度もまた訪れていたのを読んで娘さん寂しかろうなと思ってしまった。またそこで犬のことが書いてあり、悲しくもなったが、奥さんや娘さんへの言及がなかった。
自分をとことん追い詰め向き合ってもキャバ通いしてた頃の自分からはそう簡単に変えられないのだろうか…。
冒険家って仕事なんだろうか。星野道夫さんと何が違うのか。その地に住んでいない者は結局どのまでいっても訪問者なのではないだろうか。暮らしの狩りとは別に、訪問者自ら極地へ向かう際の狩りはギリギリ道楽ではないだろうか。その地に住む者の犬へ向き合い方と、訪問者が同じことするのは…。
興奮冷めやらぬ文章を読み進めながらそんなことを、色んなことを読みながら考えさせられた。 -
Posted by ブクログ
・『空白の五マイル』『極夜行』の極地探検家による、「探検家としてのピークは体力x経験の掛け算が最大化する43歳にある」「体力の衰えx経験による発想の拡張というギャップにより苦しむ」という主張
・元GSの田中渓さんが勧めていたので購入
・なぜ中途半端な43歳か、というと、43歳で命を落とす著名な冒険家が多いこと&体力/経験のバランス変化を筆者自身が痛感したことによる
・冒険家は、成長して完成を目指そうとする「権力意思」を追い求め、その達成に近付けば近付くほどより危険な冒険を求め、死に近くなっていく(死の余白)
・人は誰しも「何者かになりたい」「人と違う人生を生きたい」と思うものだが、そのオリジナリティは究極的には、自身の経験の蓄積から生じる偶然性(『生の履歴におしたがい自動発展する個別運動』)
・開高健も三島由紀夫も若いころの経験を超える権力意思を求めるが、「頂点」を迎えた後の生き方(折り合いの付け方?)として、夫々、死の余白を希釈させる釣りを選び、一方は自死に行き着いた
・なかなかインパクトのある人生の見方だけど、個人的には染み入った
・ミドルエイジクライシスとも通じるものがあると思うし、偶然性の積み上げにより今の自分がある、というのも本当にその通りだと思う
・自分は極地探検家ではないので、死の余白まで感じて過ごすことはないが、体力x経験のバランスは確かにいつでも存在するし、偶然性を感じることもある(自覚していないものあるだろう)
・思い返せば、偶然性による変化には必ず意思決定が絡んでいた様に思うし、大抵は「良かった!」と思えている。肉体x経験のバランスは頭の片隅に入れつつ、偶然性には今後も積極的に向き合いたい
(でもしかし彼の家族は本当に大変だわ、、) -
Posted by ブクログ
当方アラフィフで、その年齢ゆえに考えることが増えてきたので手に取った。
ところが正直に言って期待外れ。
前半は自分が冒険する言い訳が延々と続く。おまけにその理由が「死ぬぎりぎりの状態で生を感じたい」そうだ。個人の価値観なので他人がとやかく言う筋合いではないが、まったくもってこれっぽちも共感できない。
そもそも生物は皆必死に生きている。ミミズだってオケラだってアメンボだって「生き抜いてやろう」という気合に満ちている。産卵のために遡上する鮭だって、あえて死に向かっているとは思えない。寿命を全うしているのだ。
一方で自分から死に向かう生物は一部の人間だけ。脳が発達しすぎてバグっているのだ。生物として間違っていると思う。
なので前半は不愉快だった。
ところが後半に入って、これは学びがあるぞ、という部分が次々に登場してきた。
・未踏峰での失敗がなければカールン・コーの登頂はなかった。つまり現在の行動は過去を変えられる
・過去の履歴から導かれた思いつきは、実行しないと大きな後悔を生む。だから平出さんはK2に挑んだ
・43歳になると、ただ前進するだけの旅はつらくなる。到達は自己存在証明と同義だから。43歳になると途中の計画変更が楽しくなる。たとえば狩りや釣り
・プロの書き手に一番必要なのはテクニックではなく、書きたくてたまらない込み上げて来る何かだ
・もし神が「お前の心と身体を二十代に戻してやろうと囁かれても断る。その年代にやるべきことはやり終えた。今は今のやりたいことがある
後半の内容で1冊書いてくれたら星5になったかもしれない。 -
Posted by ブクログ
興味深いタイトル。
なぜ43歳が頂点なのか。
著者の本。読んだことがある。地図なき山。冒険家。面白かった。
そう、43歳頂点、というのは、冒険家にとって、ということなのだ。
体力だけ、の20代30代。体力は衰えるが、経験値が充実する40代。
それらを掛け合わせると、冒険家にとっては43歳が頂点、というのが彼の主張だ。
この新書の中でも、千代の富士が「限界」と言って引退を決めたのは36歳。
相撲界・横綱としては高年齢。コンタクトスポーツ、ラグビーも含め、
30前半がピークになるのはうなづける。
野球は30代後半だろうか、、、
競技によって違うのだ。
なので、タイトルはある意味誤解を誘う。
なんだか皆がそうである、と主張しているような。。
ちなみに私は64歳。記憶力は怪しくなっているが、脳の働きは今がベストと思う。
いや、思いたい、信じている。
そしてマラソン、、、ベストタイムは55歳、47歳で初めてじわじわタイムがあがって
55をピークに2年間は粘ったが、そこから下降した。故障ありコロナあり、、
今も少しでも復活しようとあがいているが、なかなか、、
そういえば、故障を癒してくださった鍼灸院の先生が亡くなってしまった。
脳梗塞、、、長年アスリートのからだをケアしてくださっていた。
無論頂点はだいぶ前だったのだろうけど、あの力強いマッサージ、、まだまだできた
はず。残念。
はじめに
第一章 四十三歳までの膨張期
第二章 頂点としての四十三歳
第三章 四十三歳以降の減退期
あとがき