あらすじ
グルメサイトや地図アプリの検索結果をなぞるだけの日常で生は満たされるのか。情報に覆われた現代社会に疑問を抱いた著者は、文明の衣を脱ぎ捨て大地と向き合うために、地図を持たずに日高の山に挑む。だが、百戦錬磨の探検家を待ち受けていたのは、想像を超える恐るべき混沌だった。前代未聞の冒険登山ノンフィクション。
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Posted by ブクログ
先日「バリ山行」と言う面白くない小説を読んだが、同じ感じだと嫌だなーと思いながら手に取ると「チベット・ツアンポー」の人と言うことに気付く、これは間違いないなと期待が高まる。
出会えて、良かった。著者が山行を行い、本書を書いてくれたことに感謝と思うほど良かった。
GPS等機器の発達により未開の地が無くなった今、地図を見ないことで、自分で未開の地を作りそこを冒険したドキュメンタリー。
私も山が好きなので同じ事をやってみようとは思わないが、ワクワクさせられた。冒険に対する意思の表現も素晴らしく、彼の世界に引き込まれる。
計4回の山行が行われているが、準備期間、実際の山行期間。1回終わったあと、次をどうするか、迷い。困難もあるが、少しづつ自作の地図が埋まっていく山と一体感を感じているところ等、読んでいて感情が理解でき、私もその場にいるような感じが共有できるところが楽しい。
著者は冒険力も文章能力も共に秀でた人物だなと感じさせられる。
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感想
私は山に行く。
その時は必ず地図を見れるようにするし、行動中も要所で確認する。
ただ、なるべく見ないようにするし、ラジオも聞かないし、人とも話さない(一人で行くことがほとんど)。
私が山へ行くのは、自然の中に身を置いて、日々の細々したことから自分を切り離すためだ。
ただ山を登って、鳥の鳴き声や風に揺れる枝葉の音を聞いて、土や木の根を踏んで、そういう感覚を味わうために山へ行く。
そうしている間、いろいろなことを考えたり、考えなかったりする。
仕事のことも考えたりもするけど、意外とそういう時にはネガティブな感情ではなくて、思いもよらないことを考えついたりもする。
そんな風にして、自分を自然の中に溶かすような感じを大切にしている。
本書で角幡さんが仰っていることには、とても共感できる。
地図を持たないことで、山そのものを受け入れて、自然と調和する。
何となく感覚ではわかるものの、言葉にされると腑に落ちる。
角幡さんの表現が素晴らしい。
「人間は計画を立てると、それに引きずられる」
たしかにそうだ。
「この映画は泣ける!」と煽りの効いた広告を目にしてから映画館で観ると、「思ってたより…」とイマイチだったりする。
逆に、何となくテレビで深夜に流れている映画が面白かったりする。
計画しない。期待しない。ただそれを受け入れる。
そうすることで、純粋にそのもの自体を味わえる。
そんな様なことなのかもしれない。
今は、何につけすぐに情報が手に入る。
だからこそ、純粋な気持ちでそのもの自体を楽しむことが難しい。
旅行でも、計画時にあらかじめ知ってしまっているから、初めてその場所を訪れるのに、なんだか答え合わせのような感じになる。
知らずにフラフラしているほうが、その土地を楽しめるのかもしれない。
何にしても、この考え方は当てはまる。
これからはできるだけ、純粋に今そのときを楽しみ味わうことを大切にしたい。
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予定調和の現代社会から逃れ、目の前にある自然と対峙する。登山が趣味です。といった人とは違う、圧倒的なかっこよさ!(登山が趣味でもいいけど、それとは違ういっちゃってるかっこよさがある。)
人はなぜ冒険を求めるのか、原始の狩猟最終民への憧れに対する答えを探りながら、地図のない日高山を漂白する。スマホ時代の息苦しさを明確な言葉で解明してくれる。ある意味痛快。単なる山岳ドキュメントではなく、作者の心情というか思想の言語化が面白く、淡々とした語りが達観しててイヤミがなく読みやすかった。
私的には「バリ山行」「サピエンス全史」「クロニクル千古の闇」「三島由紀夫と東大全共闘」など、最近はまった本の答え合わせ的な楽しさがあった。
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なぜ地図なし登山なのかの半ば哲学的考察から始まる導入部にいま一歩理解が追いつかないこともあり、うーんと唸りながら読み始めたが、いざ行動開始されるた後に繰り出される哲学的思考がとても自分にピッタリと来て、非常に、本当に楽しみながら読むことができた。
読んだ本にいちいち順位をつける習慣はないけど、それでも今まで読んだ中で最良の部類に入る一冊だと思う、おすすめです。
(ただし、田舎、自然より都会を愛するという人が読んだら、何が楽しくてやってるんだろうと思ってしまうことになると思います)
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著者は探検家です。
「極夜行」では太陽が昇らない北極をGPSも使わず、単独で横断している経歴を
持っています。
いわゆる文明の利器を使用せず、原始の状態で旅することをモットーとしていま
す。
そして今回は「地図」という文明というよりも、人類にとっては衣服のような必
需品を持たずに山に入る旅の記録です。
そんな旅に挑むからには人に知られていない、人の手が入っていない地が選択肢
に取り上げられ、それが日高山脈なのです。
確かに現代人は地図どころか、カーナビシステムで目的地に行くことが当たり前
になり、「行く」というよりも「運ばれている」だけの状態と言えます。
著者は、それが紙の地図を使用している時であっても「その先」を常に考えてし
まい、旅をしている「その時」を真に感じることができないと考えました。
それ故、地図さえも持たずに山に入ったのです。
地図なき登山の場合、人はどういう行動を取るのか、そしてそんな旅は可能であ
るのか。
著者の行程よりも、地図なき旅の過程で考える著者の現代への哲学的考察に目を
覚まされる一冊です。
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素晴らしいノンフィクション。日本にこんな冒険家がいる事を知った。しかも現役で。登山のことは何も知らないが、そんな事は全く心配いらなかった。人間が大自然と向き合う事がどのような事なのか、本当に分かった気がする。登山の専門用語を知らなくても問題なく読めて。非常に面白かった。冒険したい、日常に飽きた人にオススメ。
Posted by ブクログ
【メモ】
脱システム
移動、食料調達
地標
未来予期こそ人間の基本的な存立基盤
【目次】
はじめに――よりよく生きるために私は地図を捨てた
第一章 旅立ちの記
二〇一七年夏の記録 その一
第二章 漂泊論〜地図なし登山への道
第三章 裸の山に震え慄く
二〇一七年夏の記録 その二
第四章 新しい道を見つける
二〇二〇年夏
第五章 巨大な山に登る
二〇二一年夏
第六章 ラストピークをめざす
二〇二二年夏
あとがき
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地図なき山:日高山脈49日漂泊行 角幡 唯介
地図を持たずに山を2週間、魚を釣りながら歩き続ける。
いまやスマホの電波さえつながっていれば、紙の地図さえいらない世の中、
なぜ地図を捨てる?
その理由が素晴らしい。というかショックを受けた。
山に向き合うため。
地図を持ち、計画的に山に登る、ということは、
山と向き合うのではなく、計画と向き合うということになる、というのだ。
言われてみればそうだ。
私は最近は山に登るわけではなく、もっぱらラン旅ということになるが、
タイパコスパ効率性を重視して、とにかく計画的に予定を立て、
その予定通りに動けるとほっとしている自分がいるのを知っている。
つまり旅を楽しんでいるのではなく、計画をなぞって満足しているのだ。
それはそれで限られた時間の中でやりたいことが全部できるのでよいのではあるが、
この本を読んで、それは実は何かが違う、ということを思い知らされたような気がした。
著者は4度にわたって日高を歩きつくし、最後に地図を見て、拍子抜けしたという。
なぜなら足で稼いで得た知識と地図が同じだから。
当たり前といえば当たり前だが、地図がないからこそ体でそれを感じることができたわけだ。
ある意味うらやましい。
著者は北極を旅する冒険家でもあるらしい。
国内でこういうことができる場所は奥只見、白神山地とこの日高だけのようだ。
著者は奥只見は既に歩き、白神は世界遺産になって釣りと焚火ができなくなった。
彼の旅には釣りと焚火、つまり焼いたり燻製にしたり、は必須なので対象から外れ、
日高だけになったという。
世界遺産も考えもんだ。
そして奥只見。私も一部だけだがかじったことがある。中学の部活。懐かしい。秘境。
又行ってみたい。。恩師は他界されたが、、、
それにしてもそうやって歩いて釣って食べるニジマス、アメマス、、、美味しいんだろうなあ。
第一章 旅立ちの記
二〇一七年夏の記録 その一
第二章 漂泊論〜地図なし登山への道
第三章 裸の山に震え慄く
二〇一七年夏の記録 その二
第四章 新しい道を見つける
二〇二〇年夏
第五章 巨大な山に登る
二〇二一年夏
第六章 ラストピークをめざす
二〇二二年夏
あとがき
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タイトルで勘違いしていたが、本書は足掛け4年、4回にわたる山行記録で、1回の山行で49日間日高山脈に入り浸っていたわけではない。日高山脈はそこまで広い山域ではないということか。また、地域を手の内化しようとする試みは、北極圏でも実施している著者の一貫した行動原理の一つと感じる。
無目的に漂泊する指向の中でも、沢を遡行し、とりあえずの目標をいただきに求めることや、地図を持たず歩く中でも現地で出会った人からの情報を取り込み歩き続ける様も、今回の活動の原理として破綻なく読むことができた。著者の北極行に比べるとひりひりした感覚は感じられないものの、日本の山が持つ豊饒さの中漂泊する様子は、読み手の心も豊かに満たすものだと思う。
僕が旅に出るとき、それは登山ではなくサイクリングだけれど、できるだけ予定を決めたくない。1日1日、地図は見るものの、ただ移動することを緩やかな目的として、漂泊したい。そんなふうに、本書に同調して読んでいた。
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地図なし登山、本人にとっては楽しそうだけど、これまでのカクハタ君のやってきた、書いてきた探検、冒険の楽しさには及ばなかった。多分、自分にとっての未知の中でも距離感があって、今回のものは近いからなのかな、と思った。
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地図なし登山の追体験ができる。
最初は未知のことが多すぎて、危険に満ちた山行と思っていたが、だんだん既知の領域が増えていくとパッと世界がひらけた感じで旅を続けられる。
本を読み進めるに従って、あたかも自分も未知の領域を冒険しているかのごとく感じられる。
また、ところどころで挟む著者の思想もおもしろい。
例えば出立に際し、近代アルピニズムに求められる困難とは?について語っているが、選ぶべき困難と選ぶべきではない困難があるということは登山以外でも同様のことが言えるのではないかと思う。
冒険の追体験、そしてところどころに挟まる思想。
この2点がこの本の魅力なのではないかと思う。
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俺たちは消費するために生きているわけじゃないだろう。
消費という社会のシステムからの脱却。
脱システムという概念を極めた登山の形として、地図無し登山というスタイルを選ぶ。
筆者にとって日本に存在する道の山域、それが日高山脈だった。
四回にわたる足掛け5年、計49日間の漂白登山。
地図を持たずに山に分け入ることで、空白の地域に頭の中で地図が出来上がっていく。
漂白登山の末、最後に至る心境とは。
自分だけの登山スタイルを確立したい。
俺にとっては、シートゥーサミット・ナイトハイクを完成させたい。
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地図上にはもはや空白がなくなってしまった現在、新しい冒険、探検はどこにあるのか? かつて「空白の5マイル」でチベットのツアンポー峡谷の空白を埋めてしまった著者の答えは、地図を持たない「登山」だった。著者にとって未知の山域である日高山脈を地図なしで漂泊した4回、都合49日の記録。
チベットの峡谷や極北、辺境の冒険家である著者にして、2000メートル程度の日本の山域が地図がないだけで冒険のフィールドになってしまう。「人が生きるには未来予期が必要だ。未来予期こそ人間の第一の存在基盤である」のに、地図がないだけでその滝の向こうに何が広がっているかわからない状況は存在基盤が脅かされる怖れを抱くには十分だった。
特に最初の漂泊は、著者のツアンポー峡谷の探検を彷彿とさせるもので読者はその「怖れ」を共有するものとなった。
著者が後書きで書いているが、1回目の漂泊と2回目以降の漂泊の間には大きな断裂がある。2回目以降の漂泊はより山と身体が一体化し、読者は「怖れ」ではなく「楽しさ」を共有することになる。
「怖れ」も「楽しさ」もページをめくる手が止められない。
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著者が2017年から2022年に4回に分け、日高山脈に地図なしで登山するルポ。
地図を持たないだけではなく、著者は日高山脈に関する知識がなく、昔の探検を追体験する目的。
知床に次ぐ、秘境と言われる日高山脈だが、山深いところまで人の気配がすることに驚く。
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山登りでは分かれ道に来たらまず地図を確認する。登山では常識レベルの作法だが、この男はその常識を捨ておいて地図を持たずに日高山脈に突撃する。地図=システムの象徴だのとのたまい、システム外部を求めて、システム(地図)を捨てて日高へ向き合う。
「頼りになるのはGPSのような私の経験とは何も関係ない空疎なテクノロジーではない。(中略)旅という行為が土地とつながること、それがここで生きていけるという濃密な実感を生み出すのである。」(273p)
現代で指折りの、十分に頭のおかしな登山家の一人だ。(※褒め言葉)
2017年の初回の旅では悪場のゴルジュに疲弊し嫌気が差している。よくぞ正直に脚色せず書いてくれたものだ。とても誠実だ。
システム外部だ、漂泊だなどとお題目掲げて自分で始めておきながら、結局嫌になっている。サバイバル登山を志向ながらも現代装備を完全に捨てきれず葛藤する服部文祥の裏返しだ。ここまで赤裸々に書くか。
現象学的、存在論的な考察が多い。漂泊登山などといわず、実存主義的登山と言ってしまえばよい。
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感想を素直に書くと、「こじらせてるなぁ……」という感じになる。
確か、高野秀行さんも、「誰も行ったことがない場所に行きたいと思って色々やってきたのに、気づいたら地球上に誰も言ったことがない場所がなくなっていた」というようなことを書いていた気がする。
この本だと、同じように悩んだ筆者が、じゃあ自分は次に何を目指せばよいのかを、内面を向き合いながら、迷走している過程がずっと書かれている。
特に前半は、その悩みっぷりがすごいというか、自分の闇にハマってたんだろうな、という印象で、「地図を持たないで山を登ることが自分にとっての新しい目的だ」ということを正当化するためのエクスキューズが続く、ように感じる。
山に登っているなかにも、都度都度「だからこれはこう捉えるのだ」という記述が出てきて、ちょっとしつこいくらい。
後半になってくると、「あ、この人、どうでもよくなってきたな?」というか、悩みから抜け出した雰囲気が見えてくる。
結局「好きで楽しいからやってる」ということなのでは?と思えるけれども、きっとそこにいろんな理屈が必要なタイプなんだろう。
悩んでハマったときは、グズグズしていても、まず実践することが解決策になる、ということをとてもとてもハードな形で見せつけられたような気がした。
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探検的登山のノンフィクション。隅々まで開拓され情報化された今の世界で、冒険の意味を見出したい筆者の山行。内省的、修辞的な記述が多く、どこか「本多勝一」っぽい感じもある。著者の意図とは異なるかもしれないが、Google Mapsを開いて、ルートやそこからみた景色を想像しながら読むのも楽しい。
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前作『極夜行』があまりにも衝撃的で、命を懸けた旅の記録として圧倒されたぶん、今作『地図なき山』はどうしても物足りなさを感じてしまいました。
タイトルから、長期間山中を彷徨い、生還を果たすような壮絶な物語を想像していたのですが、実際には4度の登山を通して、著者自身の「地図」を描いていくという旅。
もちろん自然の厳しさや、孤独と向き合う真摯な姿勢には敬意を抱きます。ただ、釣りの話が多く、大きなトラブルもなく旅が進んでいくので、正直なところ後半は少し飽きてしまいました…。
どうしても『極夜行』の強烈な印象が頭から離れず…申し訳ない。
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著者はノンフィクション作家、著名家。
人間の智慧を借りない、いわば個人と自然との一体化を目指し、事前情報皆無および地図を持たないままで北海道日高山脈への登山を敢行する。
文体は好き嫌い別れるところだが、広大な自然のなかて生を謳歌する人間の臨場感は十分。
人間界と距離を置き、自然に身を任せたい人には楽しめる書籍だろう。
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地図なき山
~日高山脈49日漂泊行
著者:角幡唯介
発行:2024年11月20日
新潮社
久々に冒険家(探検家)・角幡唯介のルポ。今回は北海道にある日高山脈の登山だけれど、普通の登山ではなく、地図を持たず、事前に調べることも全くせず、登山計画もなし。そして食料も一定量しかもたずに後は現地調達。具体的には魚釣りが中心。衛星電話は非常のとき以外は使わない。それって、たんなる冒険好き、危険を乗り越えるのが好きなだけのリスクジャンキー?と思ってしまうけれど、実はそうではない。著者は以下のように言う。
「脱システム」という思想に取り憑かれた。海外を旅するときもスマホ片手で知人とつながり、スターバックスでコーヒーを飲んで、大きなショッピングモールで買い物をするのがいまや当たり前である。あらかじめ行く場所を検索してどんなところかチェックして、実際に行ってみて事前の期待通りだったと安心して、面白かったねと喜びあう。それがいまの旅の姿だ。これは旅ではなく、端的に消費である。
よりよく生きるとは、自由の重荷に耐えることだ。この思想にのっとり、二つの探検を実践。
①真冬の北極で旅した極夜の探検
②北海道・日高山脈における地図なし登山。
24時間太陽が上らず闇と沈黙がつづく自然環境も、地図が存在せず先が見えない状況も、日常世界では経験できないという意味でひとしく以上であり、システムの外側にある世界。
2018年に出版された「極夜行」は角幡唯介の極まった旅の記録であり、最高のノンフィクション本だった。その後に出た「狩りと漂泊」(2022年)とその続編である「裸の大地 犬橇事始」(2023)で、狩りをしながら計画を立てずに北極圏を旅する漂泊を実践した。いよいよ今回は、地図なしの登山。2017年、2020年、2021年、2022年の3度の登山を行い、その記録を本書に収めている。4回あわせて49日間の滞在。最初の2回は単独行、あとの2回は旅系カヤッカーの山口将大を誘っての探検。彼は釣り好きだが、山の経験はあまりない。年下でもある。
最初の単独行を読んでいくと、地図のない登山がどういうものか、あっと気づかされる。事前に想像していたものとは全く違う。ある意味で愕然とする。本人はもっと愕然としたことだろう。日高山脈に関しては、過去に地図を見たことはあるが、殆ど詳細は知らない。そういうところを選んで登山をすることにした。そして、準備段階に入っても情報に一切接しないように涙ぐましい努力をする。パソコンで思わず地図が出て来そうだと、必死で画面をずらして避ける。スポーツ中継を録画で見る場合、先に記録が出てしまわないように再生時やSNSなどに気をつけるのに似ている。読んでいて思わず笑ってしまった。
そんな、知らない日高山脈に、南から入っていった。著者は沢登りが得意なので、ここでもそれで水系を辿って登山することにした。入ってみると、事前に少しきいていたとおり、日高山脈の沢は厳しかった。ゴルジュという狭く切り立った岸壁に挟まれた沢ばかり。とうとう70メートルの滝を見て諦めてしまう。そして、最初の登山(2017年)で、地図なし登山はもういいかなと思ったという。ところが、時間を経てくるとまた恋しくなってくる。どうしてあの滝を瞬時にして諦めてしまったのか、登れたのではないか、などという思いになってきた。2020年、再び日高山脈へ。
2回目は、ある程度のところまでいき、ある山稜に馬の鞍のような大キレットを見つける。その向こうには別の水系があるに違いないと思い、次もすることを決意。2人旅でそこに挑むことになる。
非常に険しい日高山脈、地図がないということは、あした、あさってはどうなっているか、未来が見えない登山でもある。誰もいない、なにも情報がない。ところが、そんな状況で登っていると、自動車の音が聞こえてきたりする。近くに林道があるのである。ファミリーでキャンプに来ている自動車もあるに違いない。そして、釣り人にも出会ってしまう。奥深い、険しい自然との闘いをしているつもりが、整備された道と紙一重なのである。愕然とするというのは、こういうことである。究極は、ダム湖に出てしまったことだった。自然の険しさと闘いながら出たところが、人工的な施設だったとは・・・
羆(ひぐま)にも、何度も出くわしたが、事なきを得ている。肉食獣である白熊は人間の姿を確認すると接近していることが多いが、雑食性の羆やツキノワグマは、通常は人を避けるのだそうである。
3回目の登山の際、単独の釣り人に出会って情報を得て判明するのだが、日高山脈は南から入るのが最悪だという。最も険しいという意味。北から入ったりすれば、問題なかったようだった。それも、ある意味ではヘナヘナとくる話ではある。
しかし、3回目でとうとう日高山脈の最高峰にも登る。最高峰の名前だけは過去になにかで見て覚えていたのだったが、見渡す周囲の一番の山に登ったら、頂上にその名が表示されていたのである。ダム湖とは逆に、究極の喜び。地図なしで最高峰を探し当てて登ったわけだから。
4回目では、北の端まで行こうと決意し、これもほぼ達成された。
下山し、出版社で、いよいよ日高山脈の地図を見る。そこには、驚きがなにもなかった。地図を見て、ああ、これがあそこか、ここはこうなっていたのか、というような感動が訪れてくるのではと、読む方も期待するが、それが全くと言っていいほどなかったようである。4回の登山で日高山脈のことを知り尽くしてしまい、地図から新たに得られるものがなにもなかったということだった。
誠に奇妙な体験が読者にとっても出来る一冊だった。
Posted by ブクログ
同じ道でも既知なのか未知なのか、地図があるのか無いのかで全く違うという考え方。特にヒグマがいるような山深いところでは余計に未知への恐怖感が高まるのが伝わってきた。
Posted by ブクログ
帯を見て「極夜行」のスリリングな感じを期待して読んだが、個人的にはそこまでのスリルはなかったように感じる(やってることは十分危険だと思うが)。というよりかは、地図無し登山をすることで、冒険への計画性や未来予測性を排除し、本質的に自然との調和を図り、生を実感する、といういわば「縛りプレー」の試みを6年間にわたって実行した記録。
この試みを始めるに至った経緯には一定共感できるところがあった。例えば飲み屋を探している時、食べログで綿密にリサーチをして評価が定まっている店に予約して入るよりも、ふらっと看板を見て入った方が、あたりであろうとハズレであろうと楽しい体験になる、みたいなこと。スケールは違えど、角幡氏のように、何らかの「縛り」を設けることで人生が冒険的になるかも、という示唆を得た。