あらすじ
グルメサイトや地図アプリの検索結果をなぞるだけの日常で生は満たされるのか。情報に覆われた現代社会に疑問を抱いた著者は、文明の衣を脱ぎ捨て大地と向き合うために、地図を持たずに日高の山に挑む。だが、百戦錬磨の探検家を待ち受けていたのは、想像を超える恐るべき混沌だった。前代未聞の冒険登山ノンフィクション。
...続きを読む感情タグBEST3
このページにはネタバレを含むレビューが表示されています
Posted by ブクログ
感想を素直に書くと、「こじらせてるなぁ……」という感じになる。
確か、高野秀行さんも、「誰も行ったことがない場所に行きたいと思って色々やってきたのに、気づいたら地球上に誰も言ったことがない場所がなくなっていた」というようなことを書いていた気がする。
この本だと、同じように悩んだ筆者が、じゃあ自分は次に何を目指せばよいのかを、内面を向き合いながら、迷走している過程がずっと書かれている。
特に前半は、その悩みっぷりがすごいというか、自分の闇にハマってたんだろうな、という印象で、「地図を持たないで山を登ることが自分にとっての新しい目的だ」ということを正当化するためのエクスキューズが続く、ように感じる。
山に登っているなかにも、都度都度「だからこれはこう捉えるのだ」という記述が出てきて、ちょっとしつこいくらい。
後半になってくると、「あ、この人、どうでもよくなってきたな?」というか、悩みから抜け出した雰囲気が見えてくる。
結局「好きで楽しいからやってる」ということなのでは?と思えるけれども、きっとそこにいろんな理屈が必要なタイプなんだろう。
悩んでハマったときは、グズグズしていても、まず実践することが解決策になる、ということをとてもとてもハードな形で見せつけられたような気がした。
Posted by ブクログ
地図なき山
~日高山脈49日漂泊行
著者:角幡唯介
発行:2024年11月20日
新潮社
久々に冒険家(探検家)・角幡唯介のルポ。今回は北海道にある日高山脈の登山だけれど、普通の登山ではなく、地図を持たず、事前に調べることも全くせず、登山計画もなし。そして食料も一定量しかもたずに後は現地調達。具体的には魚釣りが中心。衛星電話は非常のとき以外は使わない。それって、たんなる冒険好き、危険を乗り越えるのが好きなだけのリスクジャンキー?と思ってしまうけれど、実はそうではない。著者は以下のように言う。
「脱システム」という思想に取り憑かれた。海外を旅するときもスマホ片手で知人とつながり、スターバックスでコーヒーを飲んで、大きなショッピングモールで買い物をするのがいまや当たり前である。あらかじめ行く場所を検索してどんなところかチェックして、実際に行ってみて事前の期待通りだったと安心して、面白かったねと喜びあう。それがいまの旅の姿だ。これは旅ではなく、端的に消費である。
よりよく生きるとは、自由の重荷に耐えることだ。この思想にのっとり、二つの探検を実践。
①真冬の北極で旅した極夜の探検
②北海道・日高山脈における地図なし登山。
24時間太陽が上らず闇と沈黙がつづく自然環境も、地図が存在せず先が見えない状況も、日常世界では経験できないという意味でひとしく以上であり、システムの外側にある世界。
2018年に出版された「極夜行」は角幡唯介の極まった旅の記録であり、最高のノンフィクション本だった。その後に出た「狩りと漂泊」(2022年)とその続編である「裸の大地 犬橇事始」(2023)で、狩りをしながら計画を立てずに北極圏を旅する漂泊を実践した。いよいよ今回は、地図なしの登山。2017年、2020年、2021年、2022年の3度の登山を行い、その記録を本書に収めている。4回あわせて49日間の滞在。最初の2回は単独行、あとの2回は旅系カヤッカーの山口将大を誘っての探検。彼は釣り好きだが、山の経験はあまりない。年下でもある。
最初の単独行を読んでいくと、地図のない登山がどういうものか、あっと気づかされる。事前に想像していたものとは全く違う。ある意味で愕然とする。本人はもっと愕然としたことだろう。日高山脈に関しては、過去に地図を見たことはあるが、殆ど詳細は知らない。そういうところを選んで登山をすることにした。そして、準備段階に入っても情報に一切接しないように涙ぐましい努力をする。パソコンで思わず地図が出て来そうだと、必死で画面をずらして避ける。スポーツ中継を録画で見る場合、先に記録が出てしまわないように再生時やSNSなどに気をつけるのに似ている。読んでいて思わず笑ってしまった。
そんな、知らない日高山脈に、南から入っていった。著者は沢登りが得意なので、ここでもそれで水系を辿って登山することにした。入ってみると、事前に少しきいていたとおり、日高山脈の沢は厳しかった。ゴルジュという狭く切り立った岸壁に挟まれた沢ばかり。とうとう70メートルの滝を見て諦めてしまう。そして、最初の登山(2017年)で、地図なし登山はもういいかなと思ったという。ところが、時間を経てくるとまた恋しくなってくる。どうしてあの滝を瞬時にして諦めてしまったのか、登れたのではないか、などという思いになってきた。2020年、再び日高山脈へ。
2回目は、ある程度のところまでいき、ある山稜に馬の鞍のような大キレットを見つける。その向こうには別の水系があるに違いないと思い、次もすることを決意。2人旅でそこに挑むことになる。
非常に険しい日高山脈、地図がないということは、あした、あさってはどうなっているか、未来が見えない登山でもある。誰もいない、なにも情報がない。ところが、そんな状況で登っていると、自動車の音が聞こえてきたりする。近くに林道があるのである。ファミリーでキャンプに来ている自動車もあるに違いない。そして、釣り人にも出会ってしまう。奥深い、険しい自然との闘いをしているつもりが、整備された道と紙一重なのである。愕然とするというのは、こういうことである。究極は、ダム湖に出てしまったことだった。自然の険しさと闘いながら出たところが、人工的な施設だったとは・・・
羆(ひぐま)にも、何度も出くわしたが、事なきを得ている。肉食獣である白熊は人間の姿を確認すると接近していることが多いが、雑食性の羆やツキノワグマは、通常は人を避けるのだそうである。
3回目の登山の際、単独の釣り人に出会って情報を得て判明するのだが、日高山脈は南から入るのが最悪だという。最も険しいという意味。北から入ったりすれば、問題なかったようだった。それも、ある意味ではヘナヘナとくる話ではある。
しかし、3回目でとうとう日高山脈の最高峰にも登る。最高峰の名前だけは過去になにかで見て覚えていたのだったが、見渡す周囲の一番の山に登ったら、頂上にその名が表示されていたのである。ダム湖とは逆に、究極の喜び。地図なしで最高峰を探し当てて登ったわけだから。
4回目では、北の端まで行こうと決意し、これもほぼ達成された。
下山し、出版社で、いよいよ日高山脈の地図を見る。そこには、驚きがなにもなかった。地図を見て、ああ、これがあそこか、ここはこうなっていたのか、というような感動が訪れてくるのではと、読む方も期待するが、それが全くと言っていいほどなかったようである。4回の登山で日高山脈のことを知り尽くしてしまい、地図から新たに得られるものがなにもなかったということだった。
誠に奇妙な体験が読者にとっても出来る一冊だった。
Posted by ブクログ
帯を見て「極夜行」のスリリングな感じを期待して読んだが、個人的にはそこまでのスリルはなかったように感じる(やってることは十分危険だと思うが)。というよりかは、地図無し登山をすることで、冒険への計画性や未来予測性を排除し、本質的に自然との調和を図り、生を実感する、といういわば「縛りプレー」の試みを6年間にわたって実行した記録。
この試みを始めるに至った経緯には一定共感できるところがあった。例えば飲み屋を探している時、食べログで綿密にリサーチをして評価が定まっている店に予約して入るよりも、ふらっと看板を見て入った方が、あたりであろうとハズレであろうと楽しい体験になる、みたいなこと。スケールは違えど、角幡氏のように、何らかの「縛り」を設けることで人生が冒険的になるかも、という示唆を得た。