酒井順子の一覧
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ユーザーレビュー
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清少納言と、兼好法師を対談させるなんて!
なんて、素敵な組み合わせ。
私は、「知らんけど」が興味深かったな〜。
地方出身者なので、知らんけどに振り回されっぱなしです。
Posted by ブクログ
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鉄道は、「線路とダイヤグラムによって二重に拘束される運命にあるが、鉄道好き達はその拘束の中でどのように自分の意思を貫くかを考えるところに、悦びを感じるのだ」。笑、それそれ。
二人の、鐵道に対する向き合い方の違いや、変わらない線路、電化されまたは廃線になり変わりゆく路線と、止まらない人生との間の無常
...続きを読むをさくさくした筆致で読ませてくれる。
内田百閒のそのままな鉄道好きと、宮脇俊三というナチュラルボーンセレブ鉄の含羞を含んだ鉄道愛が読んでいて楽しい。
一日駅長をしたとき、内田百閒は出発の合図をした列車のデッキに乗ってそのままいってしまった。一方宮脇は、駅長の制服で平日の酔客を起こすことを楽しみにし達成感を得た…。両方、子供の心のままに鉄道好きを体現してるのが面白い。
(宮脇はその後、廃線や、新幹線ができて廃れた駅などをみると、大人の視線で無常を感じる。)
用もないのに列車に乗りたくなる。
気候もいいし大回り乗車でもしようかな。
Posted by ブクログ
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沖縄の特有の文化について書かれていることがとても興味深かった。というか沖縄のこと全然知らなくて、琉球王朝が中国文化の影響を強く受けている儒教色が非常に濃いものだったなんて初めて知った!
Posted by ブクログ
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へえーーへえーと思いながら、面白かった。
1回目はさっーと
2回目は地図とスマホを横において。
京都行くときは、その前ににもう一回読んでどこかをプランにねじ込もう。あー、このへんで和宮さん過ごしてたのねーとか、建礼門院が晩年を過ごしたのはここかーうんやっぱ静かだーとか言いたい。
印象に残ったのは
...続きを読む、松尾多勢子。信州の農家の奥さん(子供)で、子育てが終わって52歳のときに「私も倒幕運動に参加せねば!」と京都にいって、志士たちの世話やら岩倉具視の家の家事やらをした、と。いやこれはすごい。
Posted by ブクログ
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天才だ…
エッセイって、文体、雰囲気、取り上げる題材全てにおいてとても難しいというか自分には決して書けないものだと思うのだけど、その中でもこれは絶対に書けない。
言語学的知見、鋭い観察力、経験則からの考察、全てがうまく噛み合って、世の中を生きる皆に刺さるように構成されている文章…そして読みやすい
...続きを読む。あっという間に読み終わった。読み終わったと同時に、もう一度読みたい。そして流行り廃りがあるものなのはわかっているけど、一部手元に残しておきたい一冊。
Jの盛衰
「活動」の功と罪
「卒業」からの卒業
「自分らしさ」に疲弊して
「『気づき』をもらいました」
コロナとの「戦い」
「三」の魔力
「黒人の人」と「白人」と
「陰キャ」と「根暗」の違い
「はえ」たり「ばえ」たり
「OL」は進化するのか
「古っ」への戦慄
「本当」の嘘っぽさ
「生きづらさ」のわかりづらさ
「個人的意見」という免罪符
「ウケ」たくて。
「You」に胸キュン
「ハラスメント」という黒船
「言葉狩り」の獲物と狩人
「寂しさ」というフラジャイル
「ご迷惑」と「ご心配」
「ね」には「ね」を
「だよ」、「のよ」、「です」
p.130 「古っ」への戦慄
新しいものは、瑞々しい。しかし、新しいものがたっぷりと含んでいる水分は、腐臭を発しやすくいちど腐ると、なかなか乾くものではありません。流行が腐った後、完全に乾ききるまでに最低20年もかかる、と言う事でもあるのだと思います。我々はしばしば、時代遅れの事象、「古っ」と笑いますが、「古っ」と言われるのは、半腐れ、というか、生乾きというか、その手の状態にあるものでした。しかし、乾ききってしまえば、「古っ」とは言われずに、「レトロ」「懐かしい」「クラシック」などと、好意的に捉えられるようになる。少し前までは半腐れ状態で、「昭和って感じ〜(笑)」と揶揄の対象になりがちだった事物の、特に令和となって以降は、昭和が2世代前となったこともあって、すっかり乾き切ったようです。レコードがCDよりも売れているとか、フィルムカメラがいいとか、シティポップ最高だよねなどと若者たちが言うのを見れば、昭和もやっとフリーズドライ化されたと言う考えが湧く。さらに年月が経てば、昭和の文化はさらに賞賛されることでしょう。東大寺を見て、「古っ」と言う人はいないわけで、一定時間の古さを持つのは、文化財として大事にされていることになるのです。
新しさがちやほやされるへ→半腐れ状態が「古っ」と嗤われる(わらわれる)→古さが賞賛される…と言う流れは、ファッションであれこれまであれ、言葉遣いであれ、同様です。人間にしても、新しい人間、すなわち、若者や子供は、その新しさを持って賞賛されるのであり、高齢者もまた、その経験の積み重ねやら達観ぶりやらで尊敬される。…のに対して、若者でも、高齢者でもないハ半腐れ、と言うのに、語弊があるのなら、中古の人間は、なかなかそのあり方が難しいのでした。
…私が若かった頃も、祖母が「神神」やら「鴻巣」やら言った古い言葉を使うことに「する」と言わなかったし、祖母がいつも着物姿で入るのも、古い友田埼玉思わなかった。中古ではなく、太鼓の人になれば、かえって自由になることができるのではないか。
が、しかし。そのような期待の前にはては、君が立ち込めているような気がしてなりません。
私が若かった頃の高齢者が、まだ尊敬される資格を持っていたのです。祖父母世代は、戦争や、何なら、関東大震災もくぐり抜けてきた、苦労人。年をとっていけばいるほど、経験を積んでいると言うことで、確実においしい漬物をつけたり、風の吹き方で明日の天気を予測したりするといった知恵も、持っていました。
対して、私たちの今の生活は、経験値が積み上がらない仕組みになっています。長年ぬかみそをかき回し続けなくても、誰でも美味しく漬けられるぬか床を簡単に買うことができるし、ぬか床などなくても漬物そのものを買えばいい。おばあちゃんの知恵的なものは、ネット検索や100円ショップで代替可能となりました。
また、戦争も貧困も知らない我々は、むしろ歳下の世代よりも楽して生きてきたと言うことで、人生観も生ぬるい。着物は仕方も知らないので、渋いおばあちゃんになることもできません。IT化も、未来の高齢者にとっては味方にならないでしょう。IT技術は積み上げるものではなく、更新されるもの。更新ペースについていくことができない高齢者は今にも増してお荷物扱いされることが確実です。IT化は、若さや新しさが偉いと言う時代の流れを、さらに強めるのです。
我々が高齢者となる頃には、長年積み上げて熟成された知恵を持つ年寄りは、その存在自体が珍しくなりましょう。一部の職人や伝統芸能の世界でのみ、経験値の高い高齢者が尊敬され、積み上げようのない経験しかしてこなかった高齢者の大群が出現することになりそうです。
p.236 「ね」には「ね」を
何も話したくない時も、思いっきり泣きたい時もあるだろうに、まだぜいぜいしているアスリートをカメラの前に立たせるその仕打ちは、残酷です。全力を出し切った直後に、「話す」と言う専門外のことをしなければならないのは、どれほどストレスであることか。
かといって、どんなに悔しくても、悲しくても、はたまた、嬉しくても、うっかりしたことを言えば、たちまち叩かれてしまうのが、今の世。「めんどくさいなぁ」「くだらない質問してんじゃねーよ」と言った気持ちは、おくびにも出してはなりません。そんな時に「そうですね」は、やはり便利な言葉なのでしょう。インタビューが嫌であっても、「そうですね」と言うことによって、インタビューの質問をまずは肯定してワンクッション置くことができる。アスリートにとって「そうですね」は、いつも一緒にいて精神を安定をさせてくれる、ライナスの安心毛布のような役割を果たすのかもしれません。
ほとんど意味を持たないので、なくてはならない、今は無用の用を果たしている、インタビュー時の「そうですね」。オリンピックにおいて「そうですね」のリンクを聞いているうちに、私は「これは和歌における枕詞のようなものかも」と思えてきました。「ひさかたの」とか、「あをによし」といった枕詞と言うものが、平安時代前後の和歌には使用されている、と、学生時代の古典の時間に習いました。「ひさかたの」であれば、光、空など、「あをによし」なら、奈良と、かける言葉が決まっており、とは言え、枕詞はニュアンスを醸し出すだけで、それ自体には意味がない、と聞いたときに、私は、「なぜ限られた文字しか使用できない中に、意味を持たない枕詞のなどを入れるのだろう」と思ったものでした。もっと意味のある他の言葉を入れて、さらに歌の密度を高めればいいのに、と。
しかし和歌を眺めていると、さほど意味の持たない言葉は、枕詞だけでなく、そこここにちりばめられているのでした。表現したいことが31文字と言う「型」よりも、小ぶりのサイズだと、なんとなくムードはあるけれど、意味は無い、エアパッキンのような言葉を挟んでカサ増しする必要があるのです。
…「そうですね」の「ね」と言う最後の文字にも、注目したいところです。「そうです」と「そうですね」では、大いに感じが違ってくるわけで、会話文において「ね」は重要な意味を持ちます。話の最後に「ね」をつけると、相手へ積極的に働きかけている感じが出るし、それも敵対的でなく、友好的な、できれば、こちらの意見に共感してもらいたいんだけどなぁ、といった空気も伝わる。
…相手に歩み寄る姿勢がそこに生まれます。「な」とか「ね」、地域によっては「の」など、主にな行の文字を会話の最後にくっつけると、「相手との距離を縮めよう」と言う意思が、立ち上がるのです。
「ね」は寂しがり屋なので、常に相手の反応も欲してもいます。「これ、おいしいね」と誰かが言った時に求められているのは、「うん」ではなく、「おいしい」でもなく、「おいしいよね」と言う返答。「ね」には「ね」を返してほしいと期待して、発言主は「ね」を使用しているのです。共感を大切にする生き物とされる女性は、特に「ね」を多用する傾向にあるのでした。
…我々は「ね」をやり取りすることによって、「私はあなたの敵ではない」と言うことを伝え合い、そこに安全地帯を形成しているのです。
Posted by ブクログ
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