司馬遼太郎のレビュー一覧

  • 項羽と劉邦(中)

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

    あらためて劉邦が大きな空虚であることを思った。張良が将権を代行すると、まずいことが多かった。かれが一個の実質であるため、かれに協力する劉邦の幕下の多彩な才能群ともいうべき諸将は張良の意中をいろいろ忖度することに疲れ、結局はその命を持って動くのみで、みずからの能力と判断でうごかなくなってしまう。とくに後方補給と軍政の名人という点で張良以上である蕭何の場合、この幣がいちじるしかった。張良の作戦が正と奇を織り交ぜて複雑になるため、蕭何にすれば補給をどこに送っていいかわからず、結局は悪意でなく怠業状態におちいり、張良が後方の蕭何へ連絡者を走らせて命令と指示を伝えねばならなくなった。このため、張良も疲れ、蕭何も疲れてしまうのである。
    これが劉邦に指揮権がもどると、幕下の者たちは劉邦の空虚をうずめるためにおのおのが判断して劉邦の前後左右でいきいきと動き回り、ときにその動きが矛盾したり、基本戦略に反したりすることがあっても、全軍に無用の疲労を与えない。

    義は、正しさのために自然の人情を超える倫理姿勢をいう。この語感には、後世「外から仮りたもの」という意味が加わっていく。この当時から、すでに「実行上むりはありながら」という意味も詞(ことば)の中にまじっていた。しかし言葉の建前としての意味は、あくまでも正しさ、ということである。但しその正しさは個人の倫理感覚による判断というより衆人がともどもに認めるというたぐいのもので、この時代の場合の語感としては「衆ノ尊厳スル所ハ義ト曰フ」というほどの意味であった。

    「どうも勝手が違うのです」
    片頬の血だけを凍らせたように不快な表情でいった。正直なところ、韓信は巧妙な作戦をたてているつもりだったが、結果はそれを必要とせず、つねにむこうから勝利が勝手にころがりこんでくるようで、あれだけの軍の指揮をしたがったこの男としては、この点、不本意だっただけでなく、自信をうしないかけていた。戦とは自分がかつて考えぬいてきたものとは違うのはないかという、奇妙な恐怖もあった。この恐怖は、自分の才能に対する疑問というべきものだが、本来、勇気とそれと同量の臆病さをかかえこんでいる韓信としては、臆病のほうの内質にその疑問が食い入っていた。(なぜ、こうも勝つのか)ということを、韓信は懸命に考えていた。この経験から韓信はやがて哲理や法則をたぐり出すのだが、ともかくもこのときは劉邦からほめられることさせ物憂く、わずらわしかった。

    0
    2015年06月30日
  • 空海の風景 下巻 (改版)

    Posted by ブクログ

     密教とは何ぞや、現世を否定する釈迦の仏教に対して「現世という実在もその諸現象も宇宙の真理のあらわれである」いうことを密教の創始者は考えた。そして宇宙の真理と交信するために魔術、呪文、マジナイのたぐいを利用した(P104~参照)現世のご利益にあずかる趣旨の神社(土俗)風なものとわたしは思える。この密教が当時の政権に大いに受け入れられる。

     南北朝時代の真言立川流って何、詳しく知りたいかたはググってね(笑 そして何よりもあの有名な、空海が弥勒菩薩とともに下生するといわれた56億7千万年という数字が銀河の一回転(ニネヴェ定数)とかかわりがあるらしい、なにかと謎の多い空海であった。

    0
    2015年06月21日
  • 以下、無用のことながら

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

    〝好きやねん〟という言葉が流行っていたころ、見聞きするたびにぞっとしました。ふつう、大のオトナが、女子中学生のような言葉をつかうでしょうか。〝きらいやねん〟というのも、おなじことで、好き・きらいという感覚語をできるだけ抑えて表現するのが、一人前の人間だと思うのです(むろん、人間には好き嫌いがあって、それを抑制するほうがいいということではありません。コトバの問題としてのみ考えてのことです)。

    もしも科学者の全部が、この両極端のどちらかを固執していたとするならば、今日の科学はあり得なかったであろう。デモクリトスの昔はおろか、十九世紀になっても、原子の存在の直接的証明はなかった。それにもかかわらず原子から出発した科学者たちの方が、原子抜きで自然現象を理解しようとした科学者たちより、はるかに深くかつ広い自然認識に到着し得たのである。「実証されていない物事は一切、信じない」という考え方が窮屈すぎることは、科学の歴史に照らせば、明々白々なのである。(「おりにふれて」)

    0
    2015年06月05日
  • この国のかたち(四)

    Posted by ブクログ

    この巻の目玉はなんといっても「統帥権」に関するもの。大正から昭和初期の約30年間、日本は全く別の国になってしまい、近隣諸国に迷惑をかけたばかりか、自国民にも未曾有の災厄をもたらした。なぜそうなってしまったのかの原因の核となるものが軍部の統帥権であるという解説。なぜ日本人があの様な戦争を起こしてしまったのかを考える上で、重要な示唆だと思う。

    0
    2015年05月09日
  • 風神の門(下)

    Posted by ブクログ

    下巻では、いよいよ才蔵と佐助の忍術の出番が多くなります。
    しかしながら、才蔵と佐助の「忍者」というキャラクターの特性に頼るだけではなく、人間模様や、才蔵の伊賀忍者としての硬派さ、佐助の棟梁としての胆力……そのような面でも面白さが溢れています。
    久々に再読してみても、楽しく読める司馬作品でした。

    0
    2015年04月30日
  • 世に棲む日日(三)

    Posted by ブクログ

    淡々と、晋作が長州で暴れ始めるところで終わる。
    何か、どうして長州が暴発したのか、佐幕派、改革派がころころと変わっていった過程が、ほかの書ではあまり見えてこないから、今回の本でだいぶ理解できた。 先の読んだ、花神でもいまいち良くわからなかったが、今既に4巻目。
    最後はどうなる?

    0
    2015年04月11日
  • 花妖譚

    Posted by ブクログ

     司馬遼太郎が小説を発表した1950年(昭和25年)、作者名は福田定一だった。本書は司馬遼太郎への移行する前の記念すべき作品である。

    0
    2015年04月11日
  • 花神(中)

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

    大河ドラマになっていたというのは全く知らなかった。

    "表舞台"に登場しない村田蔵六。

    上中下の三巻に渡る物語の内の中巻。
    多少冗長に感じるところもある。

    司馬氏は地の分に普通に自分の考えを入れたり、
    わからないことはわからないと書いたり、憶測を入れたりする。
    それがまた、筆者の文章の独特の魅力にもなっているのだろうと思う。

    武士ではない人間たちが動かした瓦解(明治維新)。
    この時期の長州人の議論は過激なほど支持され、
    過激であるほど内容が空疎であるというのは非常に納得。
    関ヶ原からの因縁を持ち続け、海外への視点が広く、
    徳川を敬う気持ちがないところが長州の特徴だと思う。

    0
    2015年04月07日
  • 十一番目の志士(下)

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

    架空の人物天堂晋助を描く。
    いわゆる長州系の人斬りって某漫画のモチーフかもしれないなと思いつつ。でもこちらは高杉系で向こうは桂系とその違いのみ。
    司馬の小説は大体主人公の死でさらっと終わるのだが、本作は違った。人斬りが殺されるのではなく、その後どうしたの?という想像力が掻き立てられるのも某漫画のモチーフかもと思った。

    0
    2015年07月15日
  • 対談 中国を考える

    Posted by ブクログ

    少し古かったけど、さすがに博識の2人。一緒に中国に行った人の名前が何人か出てたけど錚々たるメンバーでした。

    0
    2015年03月08日
  • 功名が辻(四)

    Posted by ブクログ

    解説は成る程と思った。確かにあはれではなく、をかしという感じかもしれない。
    人間なんてそんなものと言われればそうなのだが、千代も一豊も思考や性格が安定していないように感じた。感情に関する描写があまりないので、何を考えてその言動なのか、よくわからない時があった。
    にしても、時代物っておもしろい。地名と照らしあわせて考えると、未だに昔からの流れが続いているのだと感じられる。

    0
    2015年03月06日
  • 新装版 箱根の坂(上)

    Posted by ブクログ

    北条早雲の伝記。上巻は京で「作りの鞍」を作っていた伊勢新九郎が骨皮道堅という足軽と組んで闘うところが印象に残った。世の中がメチャクチャになる前夜の様子や雰囲気がよく伝わってきた。

    0
    2015年02月21日
  • 幕末

    Posted by ブクログ

    暗殺者、田中顕助が主な短編集。
    翔ぶが如くの後に読んだので物足りなさがあった。
    田中顕助の人となりがわかったのは良かった。

    0
    2015年02月07日
  • 翔ぶが如く(六)

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

    まだつまらない。けど、次回、西南戦争がはじまりそう…!?西南戦争前夜のきな臭い時期の日本の空気が伝わってくる。



     藩閥政治に辟易し始める頃合い。結局いつの世も、政権は嫌われる。それは今の世も。

     一番狙いのは、自分の生きる時代を、自分の理想のために、全力で生き抜く人間たちである。

     それにしても、昔も今も、前原はカッコ悪いなぁ。

    _______
    p24 薩摩の農民
     薩摩藩は他の土地と違って、富農がいない。他藩では農業生産が飛躍的に伸び、富農が生まれ読書階級になったが、薩摩では戦国時代から変わらず藩によって厳しい搾取が行われてきた。それゆえ薩摩の農民は教育を受ける時間が無く、軽侮されてきた。
     薩摩の士族にとって農民とはそういう存在である。それゆえ明治の薩摩人もその程度にしか市民をとらえていないから、民主主義などあり得ないと考えていた。

    p38 植村正直の後は進歩無し
     明治初年に植村正直が実施した開明的な政策以後、彼がやめて半世紀近く京都では正直以上の前進はなかった。それほどの手腕を持つ男だった。
     しかし、それゆえ市民議会など信用しない男だった。

    p53 島津久光への厚遇
     島津久光は結局、薩摩藩では置物だった。しかし、新政府では左大臣に任官するなど異例の厚遇を受けた。藩政でも政治実績は皆無だったが、薩摩藩主として保守派の頂点におり、政府転覆の頭目におかれかねない危険人物だった。敵に担がれるくらいなら、新政府の管理下に置けるよう異例の厚遇を与えられたようである。

    p62 西郷は復帰させよ
     久光は三条実美と岩倉具視に「西郷・大久保の免職」をもとめていたが、明治7年頃、征韓論を取りやめ薩摩に帰臥した西郷にたいして「容易にはできがたいだろうが、これを復職させよ」という請願を出している。大久保よりは西郷の方が保守的だと感じたのだろう。ただ、これも取り上げられることはなかった。

    p82 河野は卑怯
     木戸曰く、征韓党・封建党・民権党みな十巴一絡げに単なる不平家である。という。その持説を半年間も維持させられない、ただただ不平しか言うことしかできず、芯のある対抗論をぶつけられる奴もいない。と。
     特に佐賀の乱で裁判官に任官された河野敏鎌をあげる。河野は大久保に任官され、民権的思考を持った江藤新平を裁き首をはねた。しかし、その一年後には板垣と一緒になって民権論を吐いている。
     不平のために転身を軽々として、卑劣極まりないという。

    p157 会津の恨み
     会津は薩長を憎む。
     幕末、薩長は徳川慶喜の首をあげて新時代の到来を天下に知らしめようと画策していたが、当の慶喜が簡単に恭順してしまい、人柱を失った。
     そのかわりに会津を人柱にした。というのも、幕末の京都で新選組とともに市内巡査をした会津藩士に恨みを持つ長州藩士がたくさんいたからである。
     
    p203 萩の乱をハメる
     萩の乱の首謀者:前原一誠は大久保や川路に泳がされていた。
     長州人のことは新政府の長州人に任せる方が反感を買わない。下手につつくより、早期蜂起を誘導し早期誅滅を目指した。そこで、前原は薩摩の西郷に連絡を取ると考え、大久保は密偵をもぐりこませ偽の西郷からの密書を前原に届けた。

    p204 密偵
     川路利路による密偵政治が明治初期の歴史を陰惨なものにした。とはいえ、密偵のしくみは江戸中期からある。奉行所の人員不足を補うための、岡っ引きなどがそうだし、井伊直助の安政の大獄も密偵の公安調査がなければできなかった。

    p217 長州軍人は金に汚い
     長州奇兵隊の幹部だった奴は金に汚い。奇兵隊の幹部は給料をだいぶ不正に多く得ていたようである。その気質は新政府の軍幹部になってもかわらず、山形有朋などは山城屋事件という大汚職事件を起こしたりした。

    p252 江華島事件
     明治9年、江華島事件が起き、黒田清隆全権のもと日朝修好条規をむすび不平等条約を獲得し、朝鮮を開国させることができた。
     これによって征韓論は不要になり、浮いた対外戦力を国内平定に動かすのではないかという流説が広まった。

    p254 廃刀令
     明治9年3月28日に布告された廃刀令は旧士族に強い衝撃を与えた。武士のアイデンティティを捨てることは今では想像を絶する衝撃だったようである。これが、神風連や萩の乱の決定的引き金といえるほど。
     新政府は東京ではすでに文明開化が進んだことを根拠にこの法律制定に踏み切ったようだ。武士たちは、帯刀がダメでも手で持っているならいいのだろうと、屁理屈で抵抗した。

    p260 ワシントン
     ワシントンは独立革命を実らせた後、すべての栄職を捨て、マウント・ヴァーノンに退陰し百仕事にふけったそうな。それから4年後、ワシントンは乞われて米国初代大統領として政治に復帰した。
     明治維新の革命後、退隠し畑仕事にいそしむ姿は西郷隆盛と重なる。

    p305 日本の文化大革命
     明治維新後の廃仏毀釈運動、これは日本の文化大革命と言えるかもしれない。神社の神官は寺院の仏像を投げ捨て焼き払った。罰が当たることを恐れた農民たちの嘆願も無視し、「それが迷信なんだ」と吐き捨てた。
     どこの革命にも、革命に加担することで自分が時代の最先端に立っているという昂揚をもとに、自分の正義を推し進めることこそ人のためになると理性を失う者がでるのだな。

    p323 神事と神意
     熊本:神風連(敬神党)は国学と神道を教育の中心にした肥後藩の派閥である。
     彼らの理念は神道に拠っている。宗教を盾に政府転覆をはかった。

    p344 神風連のせいで
     神風連の乱が西南戦争誘発の原因と言える。
     また、神風連が熊本城を軽く落とした。それほど熊本鎮台は弱かったのだが、それを参考にした西郷は、西南戦争において一直線に東京を目指さず、手始めに熊本を落としに行く。
     しかし、強くなっていた熊本鎮台にてこずり、失敗したといえる。
     神風連のせいっちゃせいだ。

    p352 児玉源太郎
     当時24歳の児玉源太郎が熊本鎮台に駆けつけ、神風連の乱を鎮圧した。このころから児玉は一目置かれていたようだ。
     さて、この翌年の西南戦争で乃木希佐も登場する。各作品がつながっていく感じ。

    _______


     我慢の時がこの巻で終わりそうである。次回から、胸熱の展開が予想される。

     しかし、西南戦争の原因となるこの時代、しっかりと解説してもらったので西南戦争も表面的な楽しみ方だけじゃない、味わい方ができるだろう。…かな。

     
     思ったより、藩閥政治への嫌悪感が薄かったな。木戸孝允の言ったように当時の人間はただの不平家なだけだったから、あまり響かないのかな。

     少佐の名言が思い出される。
    「世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら目と耳を閉じ、口をつぐんで孤独に暮らせ。それも嫌なら…」

    0
    2015年02月05日
  • 新装版 箱根の坂(中)

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

    伊勢新九郎が伊豆を乗っ取る中巻。とても渋くて、あまりおすすめできないというオススメの本である。



    ______
    p29 頼朝が頭領になれたわけ
     頼朝が関東八州の棟梁に推戴されたのは、彼の人望や実力というわけではない。
     力を付けた関東の農民や武士団は、西の朝廷にいつまでへりくだっていなければいけないのか、不満が膨れている。そこで、自分たちで蜂起するのにふさわしい頭目を求めた。その頭は、格式高い貴種の出であることが望まれた。源頼朝は、いうても天皇家から臣籍降下した雅な人間である。ちょうど良い存在である。
     鎌倉幕府の成立の頃から、頭領は担がれた神輿でしかないのである。それが、神輿を担ぎもしなくなったのが戦国時代と言えようか。

    p36 巫女
     当時は、病気は魔性の仕業として、巫女などが祈祷によって払うものだった。にんにくの臭いで攻めたり。
     昔は縫い針は呪術性が強かったらしく、失くすと呪いがあるとして巫女による祈祷を受けた。巫女の秘部は呪術性が強いので、すっぽんぽんの巫女が針の落ちていそうな部屋を回って祈祷し、「三日のうちに出てくるであろう」というような胡散臭い生業をしていた。

    p62 塩留
     沿岸部を治める今川氏の外交戦術「塩留」内陸の国への塩の輸出を封じることで、兵糧攻めにする。そのための関所もあった。

    p90 農民の力
     早雲は言う、農民が力を付けたのは誰の入れ知恵でもない、社会の発展が生み出した自然の流れである。
     日本は古来から、支配層は支配層のためにしか政治をしてこなかった。だれが農民のためを思って政治をしたか。
     農民が鉄を安く手に入れられるようになり、自分の手で開墾をし、力を付けたのである。自分の手で力を付け、自分たちの足で立ったのである。

    p129 道灌の江戸城
     道灌は足軽戦法の創始者。さらに上杉氏の吏僚として江戸城を普請したのも太田道灌

    p153 早雲の違い
     守護のように権威を振りかざしたりはしない。自ら百姓頭として農事の世話やもめごとの調停役や百姓用の式目を作って、積極的に民のための政治をした。
     また、早雲の国の租税は安かった。税を軽くすることで民の力を伸ばすことこそ、国力をあげることにつながると考えた。というのも、世に足軽戦法が浸透してきたからだろう。
     税を軽くし、面倒をよく見てくれる国主のために働く農民を育てる。それが早雲の違い。

    p156 応仁の乱とは
     応仁の乱を起こさせたエネルギーとは何か、司馬遼太郎は国人の生産高向上による「余剰価値」であるとみている。
     農業生産高が飛躍的に上がったことで、経済が発展し、貨幣とともに価値の貯蔵ができた。それを相続する時にすさまじいエネルギーを生み出し、応仁の乱のような社会的混乱を巻き起こした。

    p243 朱印状
     朱印状は今川風が元祖であった。鎌倉・室町時代に中国の宋代の文化が輸入流行した。そこに捺印の文化が生まれ、今川家が真似して、戦国武将に広まっていった。今日の日本の捺印文化の発端はここら辺にあるという説。

    p249 すみーれ
     室町時代の菫の花の発音は「すみーれ」だった。菫の花の花弁の下に大工の墨入れのようなものがついていたから、墨入れのような発音になったという説。
     菫がぽつんと咲いていたら「大工さんが置いていったのかな」というと、巧い一言。

    p256 倹約家
     早雲は吝嗇者として嫌われる一面もあった。夜は8時には寝ること。そして朝4時には起きることを家臣に言い聞かせていた。
     しかし、それでも本質的に素晴らしい人間なので、そういう表面的なことしか言われない。心根の部分では皆から慕われ、信用される頭領だった。

    p300 尊氏の功罪
     足利尊氏は太っ腹な大将だった。南朝を倒して政権を握ったが、それには失ったものも多かった。戦で家臣が功績をあげるたびにその褒賞を与えなければいけない。それを尊氏は惜しみなく与え、戦勝地を得られなければ自分の領地を分け与えた。
     その結果、世の中は領土の椅子取りゲームの強い者が正義という世になってしまった。将軍家の領土も減り、もはやその名前しか権威が無く実行的な支配力が落ちてしまったのも、社会混乱を招いた一因だろう。

    p365 土台になるだけ
     北条早雲は、今川新五郎範満を討ち取り、妹:千萱の子:今川氏親が駿河の地の守護になる環境を整えた。
     早雲ほどの人物なら、幼い氏親ではなく自分で駿河の地の棟梁になることもできただろうし、彼の方がより多くの人数を集められたかもしれない。
     しかし、彼はあえてそうはしなかった。かれは土台になっただけ。

     2014年の大河の黒田官兵衛もそうだが、できる男は自らが頭になるのではなく、手足になり、頭を支えるのだな。

    p368 国一揆
     早雲の考える駿河の国は、「駿河の国は、百姓のもちたる国」であった。一揆の象徴として今川氏親がいて、国人たちがキチンと権利を持った生活ができる社会を作るのが、早雲の理想であったし、武士の生き残る道だと考えた。

    _____

     北条早雲の人間の大きさが発揮される巻だった。

     室町時代は熱いなぁ。司馬遼太郎が書くとすごく熱い。日野富子とかを題材にするとドロドロだけれど、この本は熱い。いや、そんな温度は高くないな。
     良い加齢臭のする本でした。

    1
    2015年01月25日
  • 功名が辻(二)

    Posted by ブクログ

    山之内一豊という凡庸な亭主をして、城持ち武将へと押し上げるという、上げマン一代記であるが、主人公 千代の知性を含めた人間的な本質の高さと必要以上に驕ることのない一豊の純朴さが読み手に安心感を与える。羽柴秀吉という登り龍を見極め、その家中で安定して禄を得ることは容易ではない、ましてや徳川の時代にしたたかに生き延びていくのであるから奇跡というより他はないと思う。

    0
    2015年01月19日
  • ペルシャの幻術師

    Posted by ブクログ

    やはりチンギスハンを描くと井上靖的になってしまう。
    そちらの印象が強烈すぎる。
    兜卒天の巡礼はぶっ飛んでる。

    0
    2015年07月15日
  • 新装版 箱根の坂(上)

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

    戦国大名の奔りである北条早雲のおはなし。応仁の乱がわかってないと、面白さ半減だ。武士の世とはなんだったのか、その終わりの時代の物語。


    _____
    p88 礼儀作法
     小笠原貞宗が『大鑑清規』を参考にして殿中作法を再編した。この応仁の乱の時代に日本の礼儀作法の基礎を確立した。

    p178 通婚の文化
     この時代の男女関係は男が女のもとへ通う通婚が常であった。しかし、関東の武士の文化が広まることで一夫一妻制が関西にも広がった。

    p196 当時の恩
     室町時代に農業技術が飛躍的に向上した。それ故に食うに困ることがぐっと減ったのがこの時代である。
     「恩の主より、情けの主」ということわざがあるが、平素食べさせてもらっている主人よりも、格別の情けをかけてもらった人物に心動かされるようになるのは、この時代以降である。
     それまでは、食うを保証してくれる人物に全身全霊をゆだねることこそ美徳だったのだ。

    p201 ようかん
     羊羹は対明貿易で伝わってきたものである。この頃では、将軍家や豪商など、明との貿易に関わっている者しか食べられるものではなかった。それを今川義元は、伊勢新九郎の妹;千萱と寝た時に食べられて、驚いた。

    p237 田中
     田中はかつて田舎という意味の言葉でしかなかった。
     日本の苗字で田中さんが多いのは、明治維新の帯名で田中と名乗った人が多かったからである。それほど日本は田んぼの国だったのだろう。

    p270 一遍
     一遍和尚が道端で小便をすると、人々はその御小水を争いくみ上げて、病気の物はそれを飲み、負傷者はそれを体に塗ったという。そして病や傷を治したという。
     なんだ。イエスと全く一緒じゃあないか。

    p307 家の場所
     応仁の乱の東軍と西軍は、細川邸と山名邸が花の御所の東西に分かれていたからそう名称された。

    p326 将軍の経済
     足利将軍家は民からの直接税で生きてはいなかった。対民貿易の利益で生活していたのである。だから、民のことを考えなくたっていいっちゃいいのである。彼らから巻き上げた税金で暮らしてるんじゃないのだから。
     徴税権は将軍ではなく、各地の守護が持っている。将軍とは事実上の守護のトップでしかなく、不思議な存在であった。

    p338 守護
     伊勢新九郎はどんなに将軍が動こうとも、守護が動こうとも世の中は変わらないと見た。土地の地侍や農民が動かなければ、何も変わらない世の中になったのである。
     農本主義の子の時代、実質的な力を持っていたのは働き手であった。その頭として君臨した守護や将軍もその権威を失い始めていた。もっと、実質的な力にコミットした権力が物言う時代になってきた。それが戦国大名なのである。

    p376 徒然草
     吉田兼好の恋愛観が今と合わな過ぎておもろい。
     兼好曰く、「一夫一妻制はアカン」とのこと。「一人の女に熱を上げる男は大した玉ではない。それに女の方も、寵愛を独占するなんて心休まらないでしょう。」とさ。何一つ間違っていない。
     さらに「絶世の美女に心失うのも分かる。しかしそれだけではないか。それが自身の地位をあげるでもなく、金になるでもなく、まして世を良くするわけもなく。色香に囚われるだけのあさましい行為である。まして、子でもできてそれを可愛がる男の姿など情けないだけである。」
     これは京の文化におおいに影響されているが、そういう時代だったことを知りたい。しかし、現代にも通じそうだから怖い。男<女な時代なんだなぁ。

    _____

     上巻はまだ形を潜めている感じ。これからもっと面白くなっていくと期待する。

     小田原城はけっこうな観光地である。その小田原城の始祖である北条早雲をもっと知るべきと思って読み始めた。

     これをもっと早く知っていれば、小田原城の歴史観をもっともっと楽しめていたんだろうなぁ。もったいないことをした。

    0
    2015年01月14日
  • 功名が辻(三)

    Posted by ブクログ

    三巻は、秀吉に待望の男子が生まれ頃からはじまる。秀頼誕生は、いろいろな波紋と影を天下に投げかける。秀吉が跡目としてで関白に据えた秀次、秀次は、関白になり実権を実質的に握り天下に号令したいと考えているが、そもそも、その器ではない。その事がよく解っている秀吉は決して実権は渡さない。秀吉は、豊臣の天下のため秀次を関白にし、そしてその沙汰を悔やんでいる。その行き違いからは「怨み」しか生まれない。そして、秀頼の誕生により権勢を増した淀君と北の政所が角を付き合いそこに派閥がうまれていく、この要となる秀吉が老い、要として朽ちると共に豊臣の天下が傾いていく様を千代の目を通して時代の変換点が描写される。

    0
    2015年01月07日
  • 功名が辻(四)

    Posted by ブクログ

    四巻は、関ヶ原の前哨となる奥州、上杉討伐のころから描かれる。
    史書によると関ヶ原では山之内一豊は、さしたる槍働きがないとされるのにもかかわらず、土佐一国を与えられている。このくだりは、本巻のハイライトとも言えるものであろう。読者は、凡庸の中の非凡を山之内一豊の中に感じ、近親感を持って一巻から読み進めてきたと思う。千代の操縦にも上手く嵌り、誠に良く出来た山之内夫婦に理想を重ねていたかもしれない。しかし、司馬遼太郎は、そのような偶像視がいかにも人間の本質を捉えてないことを諭す。人間の器と地位との関係のバランスが崩れるといろいろ難しいということを最終巻では語っている。いろいろ考えさせられる一冊である。

    0
    2015年01月07日