司馬遼太郎のレビュー一覧
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自分だったら、たまたま、コネのおかげで、出世できたとしても、あんまりうれしくない。冷静に分析しすぎて、引け目を感じてしまうだろう。
分析すらせず、ただ素直に地位を受け入れる伊右衛門は参考にならないが、
分析したうえで、自分のこれからのために、手に入れたものを最大限活かす。そういう開き直りができたら、いいんだろうな。
ある意味千代も、伊右衛門に依存しているのか。
伊右衛門が土佐を拝領したときに、現地の人を採用していたら、明治維新でも何か変化があっただろう。土佐内で上士と郷士の間の軋轢なんてのもなかっただろうし。武市が処刑されることもなく、もしかしたら、長州・薩摩と肩を並べる維新推進藩になっていたかも。竜馬も、脱藩せず、土佐の中で・・・縮こまったままだったかも。 -
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ネタバレ千代の知恵があれだけ発揮されたのは、伊右衛門が頭が良くなかったから。知恵者はいつも、人徳あるリーダーの影にいる。黒田官兵衛しかり、諸葛亮孔明しかり。・・・といったが、伊右衛門にそこまでの人望があったのか、疑問。w
メモ。
関ヶ原の戦いの勝因の1つに、千代とガラシャがいる。徳川方についた武将の懸念は、大阪にいる妻子の安否。秀吉時代の政策で、大名たちは自らの妻子を京都においていた。体のいい人質。さらに、大阪城内の部屋に参内するよう求める。それを、ガラシャの自殺、千代の家に積み上げたわらで家事を起こすと脅す。それで妻子を人質に取りづらくなった大阪側。武将たちは、安心して、戦いに挑んだとさ。 -
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ネタバレ貧農の家に生まれながら関白となり、位人臣を極めた豊臣秀吉の奇蹟の栄達は、その一族、縁者たちを異常な運命に巻き込んだ。平凡な彼らに与えられた非凡な栄誉と境遇は、ときに豊臣凋落の予兆となる悲劇をもたらす。甥・秀次、正室・北ノ政所、弟・秀長、妹・朝日、養子とした皇族や武将、そして大坂城に散った淀殿と秀頼。彼らの運命を描きながら、豊臣の栄華と衰亡の軌跡をたどる司馬文学の傑作。
秀吉は
1)卑賤から身を起こし
2)二十年で天下人となったが
3)政権は一代しか続かず
4)晩年まで実子にめぐまれず
5)嫡男はその生母とともに自殺し
6)血統は絶やされた
という、特異ないきさつを持っています。
「秀吉は、信長や家康とちがって、
豊臣家の藩屏となるべき血縁者をほとんど持っていない」
【新潮文庫『関ヶ原』(中)P.458】
1)殺生関白
2)金吾中納言
3)宇喜多秀家
4)北ノ政所
5)大和大納言
6)駿河御前
7)結城秀康
8)八条宮
9)淀殿・その子
1、関白豊臣秀次…秀吉の実姉おとも(後の瑞龍院日秀)の再婚相手で、尾張大高村の百姓弥助(後の三好武蔵守一路)の子。次弟は秀勝。三弟は秀俊で豊臣秀長の養子。初め三好孫七郎秀次と称し、河内2万石から、秀吉の後継者となり、尾張伊勢100万石、位人臣を極め関白。暗愚で残虐非道な振舞いの為、高野山へ追放され切腹。妻妾は幼児諸共、京都六条磧で刑戮され尽くした。
2、金吾中納言小早川秀秋…北ノ政所(秀吉正室寧々)は杉原助左衛門定利(のち木下と改姓)の子に産まれたが、早くから伯母の浅野家の養女となった。生家杉原家の当主家定は寧々の年子の弟にあたるが、その5男を豊臣家の養子に入れた。秀秋である。12歳で従四位下右衛門督(唐名を金吾将軍)、15歳で参議、16歳で権中納言という異数の累進を遂げるが、その人となりは愚人であった。慶長の役では総帥を勤めるが、秀吉の癇気に触れ越前に改易されるも、家康の取りなしと、秀吉の薨去で封地を守り、やがて関ヶ原での寝返りが東軍勝利の主因となった。秀秋は歴史に於いて、豊臣家を滅ぼす役割しか演じなかった。
3、備前中納言宇喜多秀家…秀吉が織田家の将として中国攻めの頃、播磨の秀吉と安芸の毛利家の間にあった、備前・美作の大名宇喜多直家が織田方に降った。その際秀家は人質として安土へ行くが、父直家の死去の際、秀吉が見せた厚情を生涯忘れなかった。後、豊臣家の養子となり、五大老の一人となり、勇猛な備前兵の大軍を率いて関ヶ原では獅子奮迅の働きをするが破れ、薩摩に逃れた後、八丈島に流される。内政や政治・権謀に暗く、可憐な迄に豊臣家への素直な忠義を貫いた。豊臣家の養子達の内、彼一人が秀吉の遺志に応えた。関ヶ原の敵味方全てが既に滅んだ、4代将軍家綱の明暦元年まで長生した。享年84歳。
4、高台院北ノ政所…秀吉の正室、寧々である。勃興期の織田家で未だ下級物頭の秀吉(当時木下藤吉郎)と結婚し、前田利家・まつ夫婦とは垣根一つを挟んだ仲であった。やがて異数の累進を遂げた秀吉によって、従一位という女性最高の位を得てもまるで権柄ぶらず、尾張の頃の言葉と物腰を貫いた。やがて豊臣政権が固定し、秀吉の寵が淀殿に移り、その膝下に石田三成、小西行長らの近江系官僚が政治を執ると、次第に寧々の周りには加藤清正、福島正則、浅野幸長らの尾張系の荒大名がその庇護を受けるようになり、寧々自身が徳川家康を頼りにした為に、遂には関ヶ原での尾張系大名と、黒田長政、小早川秀秋の東軍参加への道が出来ていく。秀吉と寧々が作り上げた豊臣家という存在を、淀殿に継承させる事を潔しとしなかった心情が伺える。それを見届けるかの様に、家康の寄進に依る京都東山の高台寺に於いて、秀吉の菩提を弔いつつ、3代将軍家光の寛永元年9月、76歳の生涯を閉じた。
5、大和大納言豊臣秀長…秀吉の異父弟小一郎。秀吉はお仲(大政所)と百姓で織田家の足軽弥右衛門との子であるが、小一郎は継父竹阿弥との子である。秀吉は此の継父と合わず早く家を出た為、兄弟の邂逅は、秀吉が士分に取りられた後である。以降は竹中半兵衛に薫育され、天性の調整と内治の天稟を持ち、その温厚さ故に広く慕われて、豊臣政権の基礎を固めた。大功を立てても秀吉や配下に譲り、自己は目立たず兄の影に従う篤実さを生涯持ち続けた。惜しくも小田原征伐の頃の天正19年正月23日、大和郡山城で死去。享年51歳。秀長の早世が豊臣家の衰亡を早めたと言っても過言ではない。
6、駿河御前旭姫…秀吉の継父の子で異父妹にあたる。小一郎秀長の実妹。秀吉が異数の出世を遂げ始めた頃は、尾張中村の水呑百姓に嫁いでいたが、その夫は俄かに侍に取り立てられ、佐治日向という名を与えられるが、程なく死ぬ。次に副田甚兵衛という秀吉の直参に嫁ぐが、此の男も大した才覚も無く、小身のままであった。やがて徳川家康との間に小牧長久手の戦いが起こり、家康有利での講和後、秀吉は何とか家康を籠絡せんものと外交を仕掛けるが、旭姫を甚兵衛と離縁させ、家康に嫁がせるという手を打ち、更に生母大政所を人質に浜松に下らせた。此の後に家康は本拠を駿府に移したため、駿河御前と称せられた。僅か3年半後の天正18年8月聚楽第で死去。享年48歳。直後に小田原征伐が起こっている。彼女もまた、秀吉の異常な運勢に、運命を変転された一人であった。
7、越前少将結城秀康…実父は徳川家康であるが、生母おまんが出自の卑しい侍女であって家康は喜ばず、徳川家で重んぜられなかった。小牧長久手の戦の後の講和で徳川家から人質として豊臣家に送られるが、秀吉は秀康を大変愛した為に、彼もまた実父以上に秀吉を思慕した。のち秀頼が生まれた為に、常陸の名族結城家を継承し、徳川家に戻される形で家康に従った。秀康は異母弟で徳川家の世子秀忠を遥かに凌ぐ器量を備え、剛毅果断で、周囲を静まらせる威徳を備えていたが、反って家康は此れを恐れ、刺激せざるよう扱われた。よって秀康は一度も戦場に出ていない。関ヶ原の後は越前若狭75万石を領したが、大坂の陣の起こる前の慶長12年病没。享年34歳。徳川の血を持ち、豊臣の養子であり、類稀な将器を備えながら一度もそれを顕す機会を得ず、遂に若くして空しく世を去った。政治に翻弄されきった人生であるといえよう。
8、八条宮智仁親王…父は誠仁親王(正親町天皇の養嗣子)、母は勧修寺晴子。兄は周仁親王で、正親町天皇を継ぎ、後の後陽成天皇となる。智仁親王は今出川(菊亭)晴季の斡旋で、関白に就いた秀吉の養子になっている。皇族が臣下で、しかも氏素性もしれない秀吉の養子になるなど、史上唯一の事である。親王は非常に聡明で、和学に通じ、後に幽斎細川藤孝より『古今集』解釈の秘伝、「古今伝授」を受けている。後鶴松の誕生を機に、第二皇位継承権者として皇族に復すが、絶頂期の秀吉を間近に見て育ったため、その感興は秀吉を眩しく捉え、聚楽第、伏見城、そして秀吉自らの縄張りによる自身の八条宮邸などの桃山文化の美術・建築に強く影響を受け、豊臣家が滅んだ後、桂離宮を造営し、其処に住んだ。同時代の日光東照宮と美意識の対極として今に語られる。3代将軍家光の寛永6年没。享年50歳。
9、淀君・豊臣秀頼…淀君は北近江小谷城主浅井長政と、信長の妹お市の方との長女。秀頼、幼名は拾、秀吉と淀君の次男(長男鶴松は夭逝)。世界史上にも極めて類稀な強運によって人臣の栄華を極め尽くした秀吉と豊臣家。此処まで見てきた様に、俄かに立ち上った異常過ぎる強運は、彼の周囲の人々をも巻き込み、彼らは皆数奇な生涯を送った。その最も象徴的なものが、淀君と豊臣秀頼であろう。織田家の血を引く淀君は、武家の貴種の血統を崇拝する性癖がある秀吉に溺愛され、二度も豊臣家の世継を生んだ為に、異常な権勢を持つに至った。その側近は、石田三成以下の近江系の文治派の吏僚大名で構成された為に、正室北ノ政所を戴く、加藤清正・福島正則以下の尾張系の武断派大名らと、豊臣家を真っ二つに割って抗争した。此の間隙を利用して関ヶ原の戦いを起こし、遂に天下を得て幕府を開いたのが徳川家康である。豊臣家は65万7千4百石の一大名に転落し、家康はその生存中に豊臣家を滅ぼすべくあらゆる手を打ち、その命運を追い詰めてゆく。三成亡き後の大坂城内には既に人無く、無能な家老の片桐且元、淀君の乳母大蔵卿の縁者の大野治長・治房兄弟、秀頼の乳母の子、木村長門守重成など、淀君を中心とする閨閥の支配する家となっており、情報の漏洩、家臣の離反、秀頼が家康に伺候させられた事に依る家格の失墜など、大坂の陣に到る前に、家康に調略され尽くしてしまう。中でも最大のものは秀吉が大坂城内に貯蔵していた夥しい金銀を、秀吉供養や秀頼祈願の為と称して、莫大な出費を強いた事で、汲めども汲めども一向に減らない莫大な金穀の量に、家康も舌を巻いたと伝わる。やがて方広寺大仏と大仏殿の再建に到って漸く尽き、方広寺鐘銘事件によって武力討伐へと発展していく。
淀君その人は、美貌以外の何の能力も無い女性であり、己の地位だけに拠って、遂に大局に盲目な儘であり、家康に脅され、宥められ、すかされる度に家康が思うが儘の愚かな反応のみを繰り返した事には、当の家康でさえ苦りきった思いを持った事であろう。大坂の陣では真田幸村、後藤基次、長曾我部盛親、毛利勝永、明石全登といった名将を有しながら、彼らを信頼せず、夏の陣で豊臣家の滅亡寸前になってさえ、秀頼を陣頭に立たせて士気を鼓舞する事さえしなかった。その秀頼は22年の生涯で、名前以外の何の声も痕跡も残さず、大坂城山里廓の焔硝蔵の爆砕と共に此の世から消滅した。 -
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ネタバレ温和でごく自然な人情のゆきとどいたこの家の家風は、晋作の祖父のころからすでにそうであった。こういう家庭から、なぜ晋作のような、武士ぐるいの好きな一人息子がうまれたのであろう。
「松本村の寅次郎が、こうしたのだ」と、小忠太は梁のきしむような砲声のなかで言ったことがある。松陰のことである。いま諸隊を扇動してさわぎまわっている連中は、みな寅次郎の門人ばかりであった。
が、お雅はそうは思わない。教育というものがそれほど力のあるものであろうか。夫の晋作を見ていると、高杉家の、いかにも良吏の家といったおだやかな家風から、あのような武士ぐるいの好きな男が出てくるというのは、なんともつじつまがあわない。晋作は、教育の力というものがいかにむなしいものかという標本のようなものではあるまいか。晋作は明倫館の秀才でありながら、しかも良家の子でありながら、十代の終わりごろ、祖父母や両親の目をかすめて、松本村の吉田寅次郎の私塾に通っていたという。そのために晋作が寅次郎の力で変形されたというのはまちがいで、本来、寅次郎と同質の人間だったのだとお雅はなんとなく気づきはじめている。同質であればこそ、晋作は寅次郎の感化を受けたのであろう。感化をうけてから、同質の部分がいよいよ砥がれて鋭利になったのであろう。
新生内閣が、成立している。その首相格の座に、山田宇右衛門という老人が就任した。宇右衛門は吉田松陰の幼少のころの師匠であり、松陰も、
「自分は終生この人の学問、見識を越えることはできない」と、兄の民治に書き送っているほどの人物で、晋作もこの人事に大いに満足していた。本来なら革命軍の首領である晋作が政府首班になるべきだったが、かれは避けた。
藩では、晋作を諸隊をすべて統括する陸軍大臣格にしようとしたが、晋作はそれに対し、一笑で報いただけであった。
かれはこの時期、その後ながく長州人のあいだに伝えられた名言を吐いている。
「人間というのは、艱難は共にできる。しかし富貴は共にできない」と、いう。その具体的な説明について晋作は一切沈黙しているが、かれは革命の勝利軍である諸隊の兵士の暴状を暗に指しているらしい。かれらは上士軍との決戦のとき、あれほど義に燃え、痛々しいばかりの真摯さで連戦奮闘してきたのだが、ひとたび革命が成功するや、ただの無頼漢になったような面がある。
二流、三流の人間にとって、思想を信奉するほど、生きやすい道はない。本来手段たるべきものが思想に化り、いったん胎内で思想ができあがればそれが骨髄のなかまで滲み入ってその思想以外の目でものを見ることもできなくなる。そのような、いわば人間のもつ機微は、井上も伊藤も、ここ数年、生死の綱を渡ってきて知りすぎるほど知った。彼等は、こわい。 -
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ネタバレ日本は、この列島の地理的環境という、ただひとつの原因のために、ヨーロッパにはない、きわめて特異な政治的緊張が起こる。外交問題がそのまま内政問題に変化し、それがために国内に火の出るような争乱が起こり、廟堂(政府)と在野とが対立する。廟堂とは体制のことであり、外交を現実主義的に処理しようとする。野はつねに外交について現実的ではない。現実的であることを蔑視し、きわめて抽象的な思念で危機世界を作り上げ、狂気の運動をくりひろげる。幕末は維新のぎりぎりまで型に終始した。この他国にとってふしぎな型を理解するには、日本の地理的環境にかぎをもとめる以外になぞの解きようがない。
幕威のこの急速なおとろえは、嘉永6年ペリーがきたときからのことで、この節目の明瞭さも、この国の特殊な地理学的理由に根ざしている。ペリーで代表される外圧さえなければ、幕府の権力生理の寿命はあと半世紀はたっぷり保ったであろう。
が、この列島の上にある権力は、外圧という水平線の向こうからくる、怪物によって左右される。この国のひとびとの地理的特殊心理は、水平線のかなたの外国を、その実体を実体として見ることができず、真夏の入道雲のように奇怪な、いわば恐怖を通しての像か、それとも逆に甘美な、いわば幸福と理想を造形化したような幻像としてしかうつらない。戦慄と陶酔はつねに水平線のかなたにある。
松陰は革命のなにものかを知っていたにちがいない。革命の初動期は詩人的な予言者があらわれ、「偏癖」の言動をとって世から追いつめられ、かならず非業に死ぬ。松陰がそれにあたるであろう。革命の中期には卓抜な行動家があらわれ。奇策縦横の行動をもって雷電風雨のような行動をとる。高杉晋作、坂本竜馬らがそれに相当し、この危険な事業家もまた多くは死ぬ。それらの果実を採って先駆者の理想を容赦なくすて、処理可能なかたちで革命の世をつくり、大いに栄達するのが、処理家たちのしごとである。伊藤博文がそれにあたる。松陰の松下村塾は世界史的な例からみてもきわめてまれなことに、その三種類の人間群をそなえることができた。ついでながら薩摩藩における右の第一期のひとは島津斉彬である。第二期人が西郷隆盛であったが、かれは死なずに維新を迎えた。それだけに「理想」が多分にありすぎ、第三期の処理家たちにまじわって政権をつくるしごとができず、十年後に反乱し、幕末に死ぬべき死をやっと遂げた。「十年待て」と、松陰が高杉にすすめたのは、高杉を第二期の人たらしめようとしているようであり、その点でかれの高杉へのこの垂訓はきわめて予言性が高い。
人間は本来猛獣であるのかどうかはわからないが、多少の猛獣性はあるであろう。しかしその社会が発生してからというものは、社会を組むことによって食物を得、食物を得るために社会をもち、それを維持し、さらにまたその秩序に適合するように人間たがいがたがいを馴致し合ってきた。そのなかでもっともよく馴致された人間を好人物としてきたことは、どの人種のどの社会でもかわらない。高杉小忠太は人間の猛獣性を「剛気」とよぶ。その「剛気がもし平均以上に過量になったばあいはそれをおさえねばならぬ。おさえるのが人の道である。おさえるために学問(倫理)というものがある」と、いう。そういう人物が尊い、と小忠太は言いつづける。あるいはそうであろう。平均的人間がときに猛獣になるのは社会が餓えたときだが、社会が餓えないかぎりその社会の秩序に従順で、従順であることがその社会の維持と繁栄に役立ち、小忠太のいう「中庸的人物こそ偉大である」ということになるであろう。しかし、「日本はいま、外圧のためにこわれようとしている」と師の松陰が説いた社会の滅亡を予言する危機思想からみれば、小忠太の思想は「俗論」になる。晋作も父は俗論家だとおもっている。
思想というのは要するに論理化された夢想または空想であり、本来はまぼろしである。それを信じ、それをかつぎ、そのまぼろしを実現しようという狂信狂態の徒(信徒もまた、思想的体質者であろう)が出てはじめて虹のようなあざやかさを示す。思想が思想になるにはそれを神体のようにかつぎあげてわめきまわる物狂いの徒が必要なのであり、松陰の弟子では久坂玄瑞がそういう体質をもっていた。要は、体質なのである。松陰が「久坂こそ自分の後継者」とおもっていたのはその体質を見抜いていたからであろう。思想を受容する者は、狂信しなければ思想をうけとめることはできない。
が、高杉晋作という人物のおかしさは、かれが狂信徒の体質をまるでもっていなかったことである。このことは、松陰の炯眼がすでに見抜いていた。「君らはだめだ、なぜならば思想に殉ずることができない。結局はこの世で手柄をするだけの男だ」と、あるとき松陰は、絶望的な状況下でその門人たちを生涯に一度だけののしったが、おそらく松陰はとくに高杉をめざして言ったのであろう。晋作は思想的体質でなく、直感力にすぐれた現実家なのである。現実家は思想家とちがい、現実を無理なく見る。思想家はつねに思想に酩酊していなければならないが、現実家はつねに醒めている。というより思想というアルコールに酔えないたちなのである。
天皇とその公卿団が、時勢のなかに大きく登場してきた。ところが当の天皇と公卿団はなんの政治訓練もなく、知識も情報ももっていなかったために、西洋人といえば牛馬同然の獣類で、きわめて汚れた存在であり、悪心だけをもっているというただそれだけの認識をもっていた。とくに孝明帝はひどかった。帝は愚人ではなかったであろう。しかしその世界認識は山奥の神主とかわらず、「神州の聖域にそういう者を入れては、皇祖皇宗になんとおわびしていいかわからない」と、ただそれだけを言いつづけた。帝の恐怖の述懐が、やがれそれを洩れきいた側近の公卿の手で、「勅諚」というおもおもしい形に変えられ、公卿の手を通じて、京に群れている勤王攘夷志士のあいだに手渡された。かれら志士たちの正義の巨大な背景は孝明帝であり、さらにその帝の本質はといえば、無知と恐怖であった。しかし、革命期のエネルギーは、敵方に対する理解からうまれるのではなく、無知と恐怖からうまれるものであろう。 -
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ネタバレ普通に面白い小説でした。
山内一豊の出世を描く、千代の内助の功の話。
伊右衛門は、木下藤吉郎(豊臣秀吉)の手についたが、出世は遅々として進まない。
そして、ついに時代に転機が訪れる。
信長が、本能寺で自害することとなったのである。
その信長の後継者を巡って対立することになる諸将の中で、いち早く飛び出したのは秀吉であった。
秀吉は、パフォーマンスと話術とで、あっという間に筆頭へと上りつめることになる。
秀吉についた伊右衛門にも、ようやく運が向いてきた。
伊右衛門は、四十歳を目前にして、ようやく大名になったのであった。
ただし、たった二万石の……であったが。
けれど、秀吉の天下も長くは続かなかった。
という話でした。
まあ、こういう話を読んで、だいたい、一番しっくりくる言葉って「諸行無常」なんだろうけど、その諸行無常の世の中の中で、決して積極的でも野心的でもない一豊を千代がどうやって支えていったのかを、楽しむ本だと思っているので、時代背景とともに楽しめれば、と思います。
まだまだ続き物なので、一豊がどうやって秀吉の元から家康の元へと移れたのか、そのあたりがわからないので楽しみにしています!