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巨星、堕つ――。1996年2月12日、十年間続いた『文藝春秋』の巻等随筆「この国のかたち」は、筆者の死を持って未完のまま終わることになった。本書は絶筆となった「歴史のなかの海軍」の他、書き言葉としての日本語の成り立ちを考察した「言語についての感想」「祖父・父・学校」などの随想、講演記録「役人道について」を収録。
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Posted by ブクログ
司馬遼太郎さんのエッセイ「この国のかたち」最終巻です。全体を通して、色々な時代の日本の出来事・思想が書かれています。 第6巻では、海軍について多くのページが使われています。日本の海軍は、帝国主義時代の防御ようとして増強されましたが、気がつけば統帥権を武器に歯止めの効かない大きな組織になっていました...続きを読む。歯止めの効かなくなった組織の恐ろしさ、行く末について学ぶことが出来ます 司馬遼太郎さんの知識の元、俯瞰的に歴史が書かれているので、世界との関わりや時間の繋がりを感じながら読むことができます。 深堀して知りたい好みの時代も出てくると思います(自分は、明治〜大正〜昭和初期)。 司馬遼太郎さんの何とも言えない飄々とした語り口。随筆ならではのリズム感。是非読んで見てください❗
著者の絶命による未完の書。司馬遼太郎が考える日本についての考察。面白かった。本巻は随想集が追加されている。またこれが司馬遼太郎の原風景を述べているようで興味深い。敗戦直後の京都という都市についての考察が興味深かった。
シリーズ最終巻にして絶筆となった随想が含まれる。「この国のかたち」というタイトル通り、作者が存命だった90年代までの、この国の根源のようなことが解説されている。冷静さと緻密な描写と圧倒的な取材に基づいた作品、多少突き放した感があって、それがかえって近づきたさを醸し出す。大学時代に講演にお呼びしようと...続きを読むして丁寧なおお断りの手紙をもらったっけ。どこへしまいこんだかなあ。
「明治の脾弱な国力で、この一戦(日露戦争の日本海海戦)のために国力を越えた大海軍を、もたざるをえなかった。問題は、それほどの規模の海軍を、その後も維持したことである。」 撤退戦略から目を背けない文化がある国だったら、歴史も将来も大きく変わっているだろうに、とつくづく思う。
…巨星、堕つ。1996年2月12日、十年間続いた『文藝春秋』の巻頭随筆「この国のかたち」は、筆者の死をもって未完のまま終わることになった。… 電車に乗って「さぁ最後の完だぞ!」と本書を手にとった瞬間に飛び込んできた文字列。裏表紙に記載されていた。とてもショックだった。司馬さんが亡くなられていたのは...続きを読む知っていたが、この本が絶筆になっていたとは…とても悲しくなった。呆然とした。なぜだか… 1996年2月といえばわたしが役人を辞めて一年ほどフラフラして退職金を使い果たしてやっと仕事を始めた頃であった。それから18年。全く何をやっていたのか?ただ、生きてきた。ずいぶん思い悩んだが、まぁそれでよかったのだろう。生命というのは生きることがその本質であろう。まちがいなく生きてきた。 言語についてとても興味深いことが書かれていた。話し言葉と文章の言葉とは違うのである。耳はバカだから。目はそういう訳にはいかない。目は厳しい。しゃべりは適当でもいいが、書いたらそうはいかない。もう少し書けるようになれたらいいな。 Mahalo
司馬遼太郎の日本人観コラム集、最終巻。 巻末の「役人道について」という章での、日本人には自分や日本歴史が我慢してきたのにあいつは何だという「公」の思想が批判の基準にあるという指摘が面白かった。確かにこの思想のおかげでマナーの良さなどの良い面に繋がっているのかもしれないが、逆に我慢しすぎて幸せを感じに...続きを読むくくなっているのではとも思った。
司馬遼太郎の文章が好きだという嗜好が根底にあるのだが、 このシリーズを読破してこの国が愛おしくなったことは間違いない。 同時に、今この時点のこの国を哀しく思う気持ちも大きくなる。 周囲から学んで吸収するチカラの大きさをそのままに精神の貧しさを払拭する方法ってないのか。 過去を懐かしんでばかりいる...続きを読むのは無意味だけど過去も未来も関係なく堅持すべきものってあるんじゃないのか。 彼は、この連載を終えるときにどんな総括をしてくれるはずだったんだろう。
後半からちょっとずつ説教くさく…(笑) 全巻楽しく読みました。 時折わが身を振り返り、胸が痛く…頭も痛く(笑) 本を読むということは、客観的な自省が可能になるという点で、とてもいいことです。
司馬遼太郎さんは、凛としてさっぱりとした人間が好きなのだと改めて感じる文章だった。 戦国期の侍や、幕末の志士や、明治の日本人が好きで、昭和初期の軍人が嫌いなのだろう。 そういえば、半藤一利さんがそんな事を書いていた気がする。
この巻の途中で、司馬遼太郎は、死んだ。 あの世で高田屋嘉兵衛と話せるといいね。歴史家には死んでからもその楽しみがある。 司馬氏が一番書きたかったのは、昭和の戦時下の歴史のはず。事実、司馬氏はなぜ歴史を書くのかという問いに「22歳のころの自分に手紙を書いている気持なんだ。何で日本があんな風にな...続きを読むっちゃったのか。昔の日本人はもっとまともだったに違いない。そう思って歴史を書いている。」とこんな感じで答えている。つまり、昭和の15年戦争を追及するために歴史に携わっているということだ。 けれども、司馬遼太郎はその昭和の時代の作品は書けなかった。「書いたら、俺は、死んじゃうよ。」そう言っていたらしい。 そんな司馬氏だが、このエッセイではちょいちょい昭和の陸軍のことに触れている。死ぬ前にやっぱ書いたんだな。にじみ出たんだなー。 そういう意味で、司馬遼太郎の作品の中でも価値の高いシリーズだと思います。(この巻ではあんま戦時中のことはでない。4,5巻の方が詳しい) ________ p22 スペインの失敗 スペインが17世紀に海上覇権を握ったが、後にイギリスに奪われる。それは、スペインが植民地貿易に依存しすぎて国内産業を育てなかったからである。イギリスは囲い込みによる毛織物産業を興し、その技術を用いて綿織物産業に進出し、蒸気機関の発明に至る。 p47 海軍のいる国 大海軍を持つ国というのは植民地を持つ国である。植民地貿易の商船を護衛し、商業圏ににらみを利かせるために海軍を持つのである。しかし、日本は植民地を持たないのに海軍を作った。それは植民地にならないため、自衛の手段として海軍を作り、バルチック艦隊を倒した。危機が去ったなら浪費でしかない海軍は解体されるか規模縮小されるのが正しい。しかし、日露戦争で名誉を遂げた日本海軍は規模拡大を求めた。 欧米列強でさえ、当時の建艦競争で財政が逼迫して、海軍軍縮協議がされたほどである。それでも日本の軍部は軍縮を渋った。 ロンドン軍縮会議を日本が批准した時も、時の浜口雄幸内閣に軍部は猛抗議した。この時、「統帥権干犯」という滅びの呪文が登場した。 p78 声楽の導入 日本に声楽が正式に導入されたのは平安時代の空海や円仁の時と言われる。声明といわれる読経の調曲が唐から入ってきた。 声明の起源は古代インドにある。神秘的な発声が呪力を帯びるという信仰から始まったらしい。中国を伝って日本に来た。 琵琶法師や江戸時代の邦楽の歌い方は声明にある。 p83 オルガンが声明を殺した 明治期に教育制度が確立されて、オルガン唱歌が普及した。ここから日本人の歌の基本が変わった。現代では演歌の中にかすかに独特の節回しが感じられるかもしれないが、若者の間では、消えた。 p84 木曽義仲 信州木曽谷からでた木曽義仲は源氏の流れを汲んでいる。彼から先の時代になって、信州は人材を輩出する地になった。鎌倉時代、臨済宗の巨人になった覚心(1207~98)もその一人である。 p90 せうゆ! 覚心和尚は入宋して、径山寺(きんざんじ)で修業した。その時に食べた味噌が大変気に入り、帰国し紀州の由良にもどってから、まねて作ってみた。それが今日の和歌山名物「きんざんじみそ」であるが、覚心がつくった味噌で醤油ができた。これが日本のソウルフード醤油の起源である。 p93 言葉は緊張する 司馬先生が学生時代にモンゴル語を勉強した時「400語を覚えればゲルで暮らせる」と言われた。遊牧民の原始的な生活には高度な論理能力は必要ないということ。これは古代の狩猟民族のほとんどに当てはまるのだろう。本来人間は生きていくのに対して語彙は必要ないのである。たとえば、自宅でどれほどの言葉を使って生活しているだろうか。「おい。」「はい。」で成り立つ夫婦もいるのだから推して測れる。 これは手抜きではなく、大脳の言語中枢を休ませているのではないか。休ませる必要があるほど、社会において使われる言語は脳を緊張させ、疲弊させる。 疲れることなく絶えずおしゃべりしているオバさんとかもいるが、その内容はたいして頭を使ったものではない。決まり文句というものがあるが、人々は日常会話の中でも自分でそれを作り、会話における脳の疲弊を避けているように思う。 p97 商業は抽象を生む 自給自足の社会では現物がすべてである。しかし、商品というものとして野菜や採集物を見れば、「価値」という抽象的な概念が発生する。価値を付けなければ売れるものにならない。 p98 木炭 抽象の続き。紀州南部(熊野)の人々は山地に住んでおり、農業生産が低かった。早くから商品を作り、経済活動をしていた。木炭を売った。備長炭である。 ただの木炭ではなく、備長炭という特殊なものを作る技術には、科学や計算が必要になってくる。売りだすには、相場や流通の地理的知識などが必要になる。祖・庸・調の税がかかれば政治の知識が関わる。 木炭を作るにも、語彙や知識が必要になってくる。 仲買人など商人になれば論理力も必要になるだろう。商業による人の交流が人間の言語力を発達させた側面がある。 p102 武士=農民 今となっては武士階級というものがあったと定義されるが、鎌倉幕府のできた頃は武士は武装農民である。農民集団のリーダー格が自衛のために武装して、それが各地で政治を始めたということにすぎない。公地公民だから、武士も貴族にとっては領民でしかない。 とはいえ、武士という農民から一歩進んだ人たちのおかげで庶民文学ができた。『平家物語』などがそうである。日本の言語の発展の一段階。 p122 読みにくい文章は口に出して読んでみる 現代の私たちは、文字を目で読む者だと思いきっている。昔は黙読だけでなく、朗読も一般的だったようだ。 目で読むだけでは頭に入ってこない文章は、声に出してみると変わるかもしれない。 p128 セザンヌ セザンヌはただ絵を描いたのではなく、絵を幾何学的に分析して造形理論を展開し、彼の理論を用いれば誰でも絵画を構成できるように、絵画に普遍性を生み出した。 日本文学においては漱石がセザンヌに匹敵する。 p150 都市 正岡子規が東京に出てきて驚いたことのひとつに、東京の女は自分で包丁を持って魚をさばくことができないということである。子規はその理由を知っている、それは魚屋がやることだからである。 都市とはそういうものである。 だから、生活に関係のないものが発展する。芸術、学術、娯楽…。 p152 漱石の無知 漱石の家は東京の牛込にあった。そこから少し行ったところには稲穂のそよぐ田園があったらしい。子規と漱石がそのあたりを散歩した時に、漱石は米が稲の実だと知らなかったことが判明。都会の人はそういうもんである。 p171 作者:歴史 大阪の靫というさびれた町の感想。江戸時代には金肥の卸売市場として盛大に栄えた町だった。しかし、明治維新で開国した結果、外国の安い綿織物の輸入で日本の綿花産業は衰退し、金肥の需要もなくなった。そうして廃れたのだが、さらに第二次大戦の空襲で灰燼に帰して、戦後は米軍の飛行場にされた。 歴史の敗北を次々と味わってきた。きらびやかな繁華街もあれば、寂れた街並みもある。こういうのは歴史が作った芸術のようにも思える。 p201 源氏姓は中国的 源姓は平安初期の頃、814年に嵯峨天皇が皇子皇女を臣籍降下させるために名乗らせたのが始まり。こうして逼迫した天皇家財政から養う人数を減らすようにした。 中国において、苗字が二文字であるのは蛮族の名称である。ついでに、国名も蕃国は二字で表される。(匈奴、鮮卑、突厥…日本。)遣唐使の時代であった平安の世で、中華思想に倣って一字姓を使いたがったのもわからないでもない。見栄を張りたいのだ。 源姓を最初に用いたのは源信(承久の変)と源融である。下の名前も訓読み音読みどちらにも対応しやすいものがつけられるようになった。 p206 平安の土地制度 平安の土地制度は公地公民制であった。臣籍降下した者たちが東国支配を進めて新たに農場を開墾しても、所有権を持つわけではなく、中央の公家の臣下として管理人を務めるにすぎないのである。そのため武士は中央に参じて公家のご機嫌取りをしなくてはならなかった。 ちなみに、○○兵衛という名前が多いのは、公家が武士に対して荘園管理人としての地位として兵衛(ひょうえ)というか下級官職を与えたことが名残である。 このように平安の土地の権利は公家にあった。だから、各地を治めるには源平藤橘どこかの勢力に与することになる。源平藤橘の名前が日本でこれだけ影響力を持つのはそのためである。それほど平安時代の公地公民という仕組みは簡単になくなったものではなかったのである。 p208 公家が生き延びたわけ 鎌倉幕府以降で武家政権が実権を持った。なのになぜ公家は生きているのか。中国なら易姓革命の理論で前政権は中絶される。 源氏は天皇家の臣籍である。本当に血のつながりがあるかというと、定かではないが、先祖は公家なのである。だから武士が政権を握っても、本家をつぶせるものではないのである。あくまで天皇の臣下として征夷大将軍を任じられている存在なのである。 苗字というのは、歴史が深い。 p218 アジア的なもの 1919年5月4日の中国の五・四運動はアジア的なものからの脱却だった。マルクス唯物史観のリアリズムで儒教という腐敗してしまった道徳をぶっ壊す運動だったのである。 p220 江戸の抽象化 江戸初期のころは戦国時代の名残もあり、藩主に家臣が仕えているという意識が強かった。ゆえに殉死という慣例もあった。武家諸法度によって禁じられたが、御家と人のつながりが強かった。 江戸中期以降になると藩を法人としてみる意識が強くなった。藩主は「君臨すれども統治せず」で老中らが行政を担った。幕末の志士たちの思想、特に長州は完全に藩主を忘れているようである。藩は藩主のものではなく、そこに住む者のもの。 江戸時代は抽象的な「公」の精神が根付いてきた時代である。 p230 田沼意次 江戸時代の藩財政は困窮していた。農本主義は気候いかんで黒字赤字が乱高下する不安定な産業基盤の上に立っている。そこで各藩は産業を興すようになる。その役を任されたのは立直し屋といわれる人で、民間人が登用された。金儲けをするために呼ばれた人だから、当時の武士の価値観からすれば低俗な人間と思われたであろう。 江戸幕府でも立て直し屋が政権をとった。家治の時代の田沼意次である。 p239 アジア的な自民党 政治家が外国にはいってロビィ活動をするとどうなるか。その人はその国の黒い部分にまみれて帰ってくる。アジアなら古い中国の賄賂の文化なんかを経験して帰ってくる。自民党の人間なんかは外国で活動した人もいて、そういう人はアジア的になっているといわれる。結局日本もアジア還りしている。というのは田中角栄とかの時代か?? p245 薩摩藩の役人道 江戸時代の土木工事はすごい。薩摩藩は幕府に命じられて木曽川の治水工事を費用は薩摩藩持ちでやらされる。自国領とはなんの関係もない土地の土木工事の責任を取らされるのである。当初20万両の予定が40万両かかってしまった。藩に損害をかけたということで奉行を務めた平田靫負ら51名の藩士が現場で腹を切った。 汚職の真逆である。かつての日本人にはアジアとは全く相いれない思想が根付いていた。 他のたとえで言えば、築城や城の修復。これは藩主がやるのではなく、家臣に命じて家臣が自腹でやる。そして領民が畑作業の暇を見て手伝いに来る。 このような土木工事がなされていたからか、土地や城は権力者である幕府や藩のものという考え方はなかった。そこからも法人という観念が生まれる下地になったのだろう。 土木工事で談合が行われるようになったところを見ると、現代日本はアジア還りしているんだなと思われるわけですよ。 ______ この本は教養が深まるとおもう。 教養とは、知識によって形作られる人格のこと。 この本を読んで得られた歴史の知識は、日本人としての思想に影響を与えないわけがないだろう。つまり、教養が増す、気がする。 ある程度司馬シリーズを読み終えたら、再読しよう。
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