無料マンガ・ラノベなど、豊富なラインナップで201万冊以上配信中!
※アプリの閲覧環境は最新バージョンのものです。
※期間限定無料版、予約作品はカートに入りません
Posted by ブクログ
統帥権の発想は今も生きているかもしれない
コロナ対策は自由と人権を圧迫した。当時、専門家として対策を担った尾身茂氏は、菅首相と並んで記者会見し、首相と並ぶ権力者の風であった。新型インフルエンザ等対策推進会議の議長、あるいはその下部組織の分科会会長に過ぎない立場にもかかわらず、だ。本来の姿でない権力体制が容易にまかり通ってしまった時期だった。歪んだ権力に勢いを得て増長した専門家は、控えめに言っても多かったと思う。司馬遼太郎は本書で、旧日本軍が振りかざした「統帥権」を考察している。軍参謀本部が本にした『統帥参考』に、次のような興味深い記述を見つけている。冒頭の「統帥権」という章に、以下のように書かれている。……之ヲ以テ、統帥権ノ本質ハ力ニシテ、其作用ハ超法的ナリ。(原文は句読点および濁点なし。以下、同じ) 超法的とは、憲法以下のあらゆる法律とは無縁だ、ということなのである。(本書より)国のエリートが自らの存在を超法規的だと思う考えることほど危険なことはない。実際、参謀本部は戦争で日本という国を滅ぼしかけた。著者は、本書をあれこれ寄り道して書きながら、この危険な意識の由来が気になって仕方がないようで、ついに思い至ったのは、明治政府による近代化で廃れた惣の若衆文化だった。ふとおもうことだが、昭和前期、内閣というオトナ制に対して参謀本部が統帥権というミコシをかついで若衆化して一大暴走を開始したのも、右の潜在文化と無縁ではないかもしれない。(中略)戦後は官公庁や会社というオトナ体制と労働組合の関係をそういう目で見ると、潜在文化がなお生きているという観察がなりたつように思えてならない。(本書より) こう記した著者が生きていたなら、労組などよりもまず今日の医療業界に昔日の統帥権を見たのではないだろうか。 本書の読後、そう思った。
Posted by ブクログ
この国のかたち。第1巻。司馬遼太郎さん。
司馬遼太郎さん(1923-1996)が、晩年に文芸春秋に連載していたエッセイ。
歴史の逸話、地理、文化や宗教などの雑学が雑然と山積みされたオシャレな市場を、「へええ」と周遊する。そんな愉しみに頁をめくっていると、日本、この国の輪郭というか個性を見上げながら散歩している気分になってくる。銅像に例えれば、横から見たり後ろから見たり。そして、この国のかたちを感じるためには、当然のように、他の国のかたちも感じなければ判りません。中国、インド、朝鮮、オランダ、などなど…日本と縁があった様々な国についての造詣を元に、「この国」のかたちが浮き出てくるわくわく感。
もちろん、それは、「だからこの国はよその国に比べて素晴らしい」という話でも無ければ、「よその国に比べて劣っている」という話でもなく。(ここンところがレアな貴重さであるところが昨今の悲しさか)
司馬遼太郎さんのエッセイは、どんなものでも読み易くアベレージが高いのですが、まとまっている感や、連続エッセイとして愉しめるお得さで言うと、司馬エッセイの中でも文句なく白眉。一家に一冊、永久保存版。
#
●現在に至るまで、日本人のある一面のイメージを作っている、「儒教」「朱子学」について。その中国や朝鮮との比較。
●明治維新の基礎思想「尊王攘夷」自体が輸入思想である、というお話。
●明治日本、つまり帝国主義の加害者側に立って行く舞台裏の必死さ、オモシロサ。
●権威だけを持つ貴族の時代(平安)から、実際の農業を土地に密着して行う武士の時代へ。このリアリズムへの大転換が革命的に日本史を面白くした、という視点。鎌倉時代のオモシロサ。
●昭和10年~20年の、軍部主導の国家運営についての、分析というより、感慨というか怨嗟。これはもう、好む好まざるに関わらず、司馬さんの印鑑というか筆跡というか体臭みたいなもので、何冊かエッセイを読むと落語家の十八番のように耳タコになります。
●信長について、秀吉について、浄瑠璃について、仏教、孫文。経済、物流、文学から地理地形まで。「ブラタモリ」的な快楽も余裕で内包してしまう懐の深さ。
#
以下、本文より
いくつかは、司馬さん死して20年余、2017年の「この国」にぐっと刺さる警句になっている、と感じるところもあります。
「そんなことはない」と言いたいところですが…
#
人間と言うのは、よほどな人でない限り、自分の村や生国(こんにちでいえば母校やひいき球団もこれに入る)に、自己愛の拡大されたものとしての愛をもっている。社会が広域化するにつれて、この土俗的な感情は、軽度の場合はユーモアになる。しかし重度の場合は血なまぐさくて、みぐるしい。
単なるナショナリズムは愛国という高度の倫理とは別のものである。
ナショナリズムは、本来、しずかに眠らせておくべきまのである。わざわざこれに火をつけてまわるというのは、よほど高度の(あるいは高度に悪質な)政治意図から出る操作というべきで、歴史は、何度もこの手でゆさぶられると、一国一民族は壊滅してしまうという多くの例を残している(昭和初年から太平洋戦争の敗北までを考えればいい)。
“正義”を一点設けて、それを論理づけ、ひとびとに実行を強いる体系―もっと粗々に言いきれば、イデオロギーーというべきである。
イデオロギーの常として、善玉と悪玉が設けられた。マルキシズムもふくめて、イデオロギーが善玉・悪玉をよりわけたり、論断したりするときには、幼児のようにあどけなく、残忍になる。
革命政権というのは革命思想を守るものなのである。あとからきた思想は、当然危険思想あつかいにされてしまう。
過去は動かしようのないものである。ただ、これに、深浅いずれにしても苦みを感ずる感覚が大切なのではないか。
組織というのは、たとえ目的がなくても細胞のように自己増殖をのみ考えるものだ。
日本が朝鮮に対して売ったのは、タオル(それも英国綿)とか、日本酒とか、その他の日用雑貨品がおもなものであった。タオルやマッチを売るがために他国を侵略する帝国主義がどこにあるだろうか。
本来の仏教というのはじつにすっきりしている。人が死ねば空に帰する。教祖である釈迦には墓がなく、おしなべて墓という思想すらなく、墓そのものが非仏教なのである。
日本はたとえばブータンやポーランドやアイルランドなどとくらべて特殊な国であるとはおもわないが、ただキリスト教やイスラム教、あるいは儒教の国々よりは、多少、言葉を多くして説明の要る国だとおもっている。
#
何年前だか、一度読んだものですが、電子書籍化を機に再読。こういう短い章立ての素敵なエッセイが、スマホでいつでも読めるのはありがたいことです。
Posted by ブクログ
この本を読んで、最初に頭に浮かんだ言葉は「博覧強記」である。司馬遼太郎は、日本という国がどのような国であるかを調べ、考え、述べる。その「調べ、考え」の部分が常人には想像もつかないレベルのものなのだ。
司馬遼太郎は、このような読み物を書こうとしたきっかけとして、自らの兵士としての戦争体験をあげている。終戦の玉音放送を聞いた時の気持ちを、司馬遼太郎は「なんとおろかな国にうまれたことかとおもった」と綴っている。それは、「国家そのものを賭けものにして賭場にほうりこむようなことをやったひとびと」に対しての絶望的な想いであるが、しかし、一方で「むかしは、そうではなかったのではないか」と思い、その疑問を解き明かすために調べ物をするようになったのである。
博覧強記の人の書いたものであるが、その底には、日本という国が好きなのだ、という気持ちが和がれているように感じた。
※アプリの閲覧環境は最新バージョンのものです。
小説・文芸
小説・文芸
少年・青年マンガ
少女・女性マンガ
試し読み