【感想・ネタバレ】歴史と視点―私の雑記帖―のレビュー

あらすじ

歴史小説に新しい時代を画した司馬遼太郎の発想の源泉は何か? 帝国陸軍が史上初の惨敗を喫したノモンハンの戦いを、太平洋戦争を戦車隊員として戦った自身の体験と重ね合わせながらふりかえり、敗戦に至る壮大な愚行に対する一つの視点を呈示するなど、時代の諸相を映し出す歴史の搏動をとらえつつ、積年のテーマ“権力とは”、“日本人とは”に迫る独自な発想と自在な思索の軌跡。

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Posted by ブクログ

合理性を追い求めた米露に対して、偏ったこだわり(見た目の美しさ、ディーゼルエンジン)で戦えない戦車を作らせた旧陸軍。
目的の達成のための理性的な判断よりも思想的・抽象的な考え方を好んだ軍司令部。
それらは今の社会にも連綿と受け継がれているという気がする。
無駄な資料、無駄な会議、狭いこだわり、属人化した仕事。
けれど一方で、合理性を追い求めるだけでは物足りないのもまた事実。目的を達成するための合理的判断と、付加価値としてのこだわりや理想の境を明確にし、本当に捨てられないもの(それは魂に通ずるかもしれない)の立場を明確にすることこそ必要なのではないか。
戦時中、軍の無茶な作戦に不満を漏らす者はいなかったという。それを絶望というよりは諦観だったと司馬遼太郎は振り返っている。
諦観。私が何をしてもこの人は変わらない、この組織は変わらない、この国は変わらない。そうして口を噤むのは、身に覚えがあった。

2023/06/15 戦車の話より

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2024年12月20日

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広範な資料を閲読した経験に裏付けられた作家にとっては、地図上の地名一つからでも、その地にまつわる人の物語を紡ぎ出すことができるのである。

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2020年07月01日

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司馬さんの考察が深い。
明治維新後の長州人と土佐人の身の振り方の違い。

それにしても昭和6~7年から20年までの怒涛のキチガイのような十数年がもったいない。

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2016年05月30日

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司馬遼太郎による表に出てこなかった歴史の数々を彼独自の視点で描く。なにより、彼自身が所属した戦車第十九連隊のことを描く「戦車・この憂鬱な乗物」は興味深く、実体のない戦略や兵站を直視せず、空気の支配による幻想を作り上げた日本陸軍についての考察は、今の僕らの活動にも非常に参考になった。気合いとマネジメント。このどちらも必要である。

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2012年11月11日

Posted by ブクログ

前半は筆者が戦車部隊にいた頃の回想、後半は調べた歴史に関する内容など。歴史に触れた編の時代や場所はまちまちで、雑記帳とあるとおり本になるまでには至らなかったものと思われる。下調べの結果をまとめているだけあり、それぞれ短編ながら面白い。
何となく文章からは好きだからやってるような印象を受けた。

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2020年01月05日

Posted by ブクログ

司馬遼太郎さんの、エッセイ集。
電子書籍で読んだのですが、まず不満があって。それぞれの文章の初出がどこにも明記されていない。
まあ、良いのですけど、やっぱり良くない。気持ち悪い。明記して欲しいなあ、と思います。

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僕は司馬遼太郎さんは好きなので。
エッセイや旅行記や対談本なども、基本、好きです
そんなにハズレがありません。
その代わり、もう随分読んでいるので。新鮮味は特にありません。
それでも時折、司馬遼太郎さんの文章というか、言葉が読みたくなります。

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いろいろな文章が入っていますが、まあ、いちばん印象に残るのは、
司馬さん自身が第二次大戦の末期に陸軍兵、それも戦車の下士官として過ごした日々について、そして戦車について書かれた、「戦車・この憂鬱な乗り物」「戦車の壁の中で」「石鳥居の垢」の3篇だと思います。

司馬さんは文中、自分が乗った戦車の、言ってみれば自動車としての性能や機械としての努力を大いに認めながら、下記のように指摘します。

”(日本軍の)この戦車の最大の欠陥は、戦争ができないことであった。敵の戦車に対する防御力も攻撃力もないにひとしかった”

まあ、思わず笑ってしまう語り口。

以下、事実かどうかは僕は確かめるすべはありませんが。

とにかく物資がなくて、かつ、兵器の優劣の戦場でのリアリズム効果を見つめることができなかった昭和の陸軍。
そうしてできた戦車は、戦車ではあるものの、「戦車 vs.戦車」という戦闘になった場合は、あらゆる意味で、装甲や弾の破壊力で、物理的に勝負にならない代物だったということです。

そんな戦車で、本土決戦で敵の戦車と戦えと。

その際に、行軍で避難民が邪魔なら踏み潰して良いと。

そういう司馬さんの実体験を、司馬さんらしい、時に乾いたユーモアも交えながら冷静に語られるのですが。

この文章では、なんというか。
司馬さんがどろどろっとした感情、愚痴、恨みつらみ、そんなものをほとばしらせる感じがありました。

あふれちゃった。

そういう状況下で、二十歳前後で、「俺は死ぬんだ、死ぬんだ」と覚悟しなくてはならなかった青春。
と、言うものを想像しろと言われても、正直、できません。

そんな時代が「終わったもの」として葬られても、まだ生きている司馬さんにとっては、忘れられない、忘れてはいけない、2度とあんな世界を観たくない、あの責任を誰かに問いたい…。

そして、「またいつでも、ああいうことになるんぢゃないかと思う」という、悪夢に汗をかいて跳ね起きるような危機感があったんだなあ、と思いました。

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昭和の陸軍に対して、肉体的と言って良いまでの恨みというか、反感を隠すことがなく。
一方で、明治時代の政府や軍事に対して、一定の好評価と、感情レベルでの好意を持っている。

そんな司馬さんの、論という以前の、体温、体臭みたいなものが、「受け付けない、気に入らない」、というヒトには、いちばん受け入れがたい本かも知れませんね。「歴史と視点」。

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以下、備忘録。メモ。

●大正生まれの「古老」
グアム島の密林から横井庄一さんという元軍曹が発見されたのが1972年。恐らくその年に書かれた文章。横井さんは30歳で終戦を迎えましたが、それを知らず、仲間2人とともに、「戦争は続いている」と思いながら28年間生活していました。
この事件から、「生きて虜囚の辱めを受けず」という考え方は明治以降であることとか、近代国家、軍隊という、個人にとって重苦しいものについて、とか。そして、戦争、戦争だけでなく集団熱狂みたいなものへの嫌悪など。

●戦車・この憂鬱な乗物

●戦車の壁の中で

●石鳥居の垢

●豊後の尼御前
戦国時代、九州。大友宗麟の領内で、「おんな城主」がいた、というお話。攻め寄せる敵を相手に軍を率いて籠城戦、攻防戦の末、見事に打ち破った。
「へえ〜」と思って面白かった。2017年にNHK大河ドラマで「おんな城主」を放送するそうですが、あれは井伊のお話。
ただ、なんだか見せ場で言うと、この九州の「尼さん城主」の方が面白いんぢゃないかと思うくらい…。

●見廻組のこと
佐々木只三郎さん、という幕末の幕臣の、まあ一代記。
幕末の京都で、「新選組」と同じように「見廻組」というのを作り上げた。見廻組は幕臣中心で、あまり統率も良くなくぱっとしなかった。なんだけど、佐々木さんは数人と共に、どうやら竜馬暗殺を実行したようです。

●黒鍬者
幕末の「江原素六」というヒトのお話。
貧しい最下層の幕臣、「黒鍬者」から学問で身を立てて。一時期は「菜葉隊」という緑の羽織袴の幕臣部隊を率いて。
明治以降は静岡の徳川家で過ごし、教育者になったそう。
幕府瓦解の季節、土方歳三と一瞬、すれ違うような因縁があったそう。

●長州人の山の神
幕末明治の動乱で、主に戦場指揮官として活躍した、「白井小助」のお話。大した才能は無かったらしく、栄達しなかった。だけど、栄達した伊藤博文や山県有朋らの先輩にあたる。なので、時折上京しては、からみ酒で困らせた、という挿話が楽しい。

●権力の神聖装飾
明治初期に、「どうやったら天皇っていうのが神様っぽく、大きな権威を持ってるように、装飾できるのか」ということについて、伊藤博文とかが話し合った。その話し合いは、普通にテーブルで議論されて、そこには明治天皇も普通に意見交換に参加して、皇后さんがお茶を持ってきたりした、ということとか。
儀典・儀礼・儀式みたいなものを、どの時代も成功者は取り入れることで権力を支えてきましたよ、みたいな。

●人間が神になる話
どうやら、昭和時代まで、山村などでは。
高貴なヒトが来たら、そのヒトが入浴した湯を飲んだりしてたらしい、という。
江戸時代まで、京都の天皇と貴族たちがどれだけ貧しかったか。
一方で、情報も無い時代に、貧しさと引き換えに神秘性があり、生きる神みたいな信仰があったとか。
でも、その信仰っていうのは、「そのために死にます!」みたいな強烈なものでは無かった、とか。そういうお話。

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2016年12月07日

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司馬遼太郎が思ったことを考察したエッセイ
内容が深く濃いため、よく調べてるなあと感心したけど、まあ当たり前だよね(笑)
あまり聴いたことない戦中の戦車についてや、妙麟尼の殉教的精神、公家が以外にも質素で、天皇が神だとは信用されていなかったことなど
なかなかに面白かった
ただ少し細すぎて多少ついていけない部分があった

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2016年06月08日

Posted by ブクログ

司馬氏の人生にからめて雑多に歴史について書かれたエッセー。日本の戦車がいかに使えないものだったかを述べた章や、天皇を神だと思っていた日本人はいないのではないかと述べた章は痛快であった。

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2012年10月06日

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風変りな視点から時代を切り取るエッセイ集。戦車兵の目線から第二次大戦を考察したり、女だてらに城主代行を務めた尼僧の目線で戦国の世を考察したりする。明治政府の大官となった後輩たちをイビりまくる田舎の先輩白井小助の物語「長州人の山の神」も秀逸。

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2012年09月23日

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坂本竜馬の死因と話は本当に面白かったです。

一貫して、「日本」という国を浮き彫りにしていると感じました。変な言い方かもしれないけれど・・この人視点がとてもまともだなと思って読んでました。

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2009年10月04日

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ちょっと古い本です。古本屋さんで発掘しました。第二次大戦の司馬氏の実体験が書かれていて、彼が小説を書くきっかけになった事実に触れられています。一読の価値はあります。おそらく今は別の著作の形で内容はまとめられていると思います。

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2009年10月04日

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歴史的小説家による、雑話集。彼の仕事の後考察の側面を持つ、自身の体験等からも紡ぎ出された書。歴史上の史実について、詳述された著者による談話は興味深い。

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2024年12月20日

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司馬遼太郎 「歴史と視点」 戦中昭和の日本国家への批判エッセイなど。


日本の国家は「攻撃も防御もできないポンコツ戦車」のようであり、無戦略で無責任なインチキ存在であったというのは ショッキングだった。そういう状態なら「日本降伏をきいたとき、悲愴感より解放感を感じた」というのは 当然の庶民感情だと思う



天皇の人間宣言「 現人神でなく人間である」について、当時の人は 天皇を神だと思っていたのか、前から不思議に思っていたが、はじめから 天皇は人間であることを知っていたし、宣言が出て 仰天した人も まわりにはいなかった らしく、ほっとした




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2021年11月16日

Posted by ブクログ

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太平洋戦争には戦略というものはなかった。横井庄一氏のような兵隊を汽船に乗せ、地図にあるかぎりの島々にくばてまわり、配るについては海軍がその護衛をし、まるで棄民のように島々に捨て去りにしたあとは、東条英機という集団的政治発狂組合の事務局長のような人が、東京の大本営で「戦陣訓」というお題目をひたすら唱えつづけただけの戦争であった。20

太平洋戦争というのは、それだけの戦争である。この戦争からひきだせる教訓などなにもない。

「日本は地理的に対外戦争などできる国ではありませんね」というふうに言ってもらうほうがよく、いわゆる、十五年戦争にわずかでも教訓がひきだせるとすれば、そういうあたり前の、小学生なみの地理的常識を再確認した、ということだけである。21
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ネジマワシは私は知っていた。しかし陸軍戦車隊ではこれをエツキラマワシとよんでいた。柄付螺廻のことである。陸軍は海軍とちがい、英語と民間語を宗教的禁忌のようにきらう風があった。ミシンはホウセンキ(縫穿機だったかな?)であり、スリッパは上靴であり、ズボンは袴であり、物干しはブッカンバ(物干場)である。アクセルのことを、噴射践板といった。クラッチは連動版であり、ハンドルは転把である。31
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儒教は行儀がよかった。行儀のよさこそ儒教のかなめであり、儒者たちは煩瑣で形式的な礼を考えだし、それを演出する専門家であった。

結局、劉邦は儒者を採用せざるをえなかった。皇帝の権威を成立せしめるのは型であるということを、儒者の叔孫通はよく知っていた。長楽宮ができたのを機会に、叔孫通は三十人の儒者をうごかしてまず皇帝に拝賀する儀式を作りあげた。194

それを実際にやってみると、その型を演技することによって皇帝はナマ身の劉邦その人ではなく、皇帝とは多分に形而上的存在であることがわかった。

孔子の儒教はこういうものではなかったかもしれない。しかしこの学問が実際に効用を発揮したのはこのときからであり、このとき以後、中国では儒教と政治が不離のものになる。195
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徳川家康は豊臣政権の欠陥をよく知っていた。家康が天下をとったとき、かつての室町幕府がもっていた殿中の儀礼をしらべさせ、高家という儀典専門の旗本を置き、江戸城を荘重な儀礼の場にした。195

徳川家の典礼というのは、諸事こまごまとやかましく、武家政権らしい簡潔さというようなものはない。この典礼からみればこの政権の本質は武断主義でなく文治主義であったことがわかる。196
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こういう西洋謁見方式でいいものかどうか、天皇の権威をたらしめるにはもっと荘重でなければならないのではないか、ということである。特に、保守家の岩倉具視や山県有朋はもっていたにちがいない。198

欧州はそれよりも先んじていた。王政や帝政はすでに歴史のかなたに去りつつあり、そのことは山県に衝撃をあたえた。

山県はこの趨勢をみて多くの明治の政治家や思想家たちが奇妙なほどそうであったように彼も、「合衆政」の徒にはならなかった。むしろ出発のときよりも熱烈に日本的君主制の基礎を確立すべく帰国した。

明治十年代のおわりごろ、伊藤博文が憲法起草と立憲政治に熱中していたときも、山県は伊藤のそういう考え方に冷淡であった。立憲政体ができあがってからも、山県はむしろ日本の体制に反立憲的要素を入れようとし、その公然たる陰謀に熱中した。

かれは陸軍と官僚をおさえ、その法王的存在になり、ついには「天皇の軍隊」「天皇の官僚」という、いわば反立憲的体制を確立することに成功した。205

昭和前期の軍閥ファシズムを生むにいたる素地は、山県が明治期において十分につくっておいたものであった。

明治期における山県は、漢の高祖における叔孫通にあたる者であったかもしれない。天皇の地位をいかに重厚にするかということは、かれの終生の宿題のようなものであった。206
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2015年10月18日

Posted by ブクログ

司馬遼太郎が気になる歴史人物や事柄を拾って行くエッセイ的な本かな?歴史を深く知らない私にはよく理解出来なかった部分があったが面白かった。日本のちゃちな戦車の話や天皇が神だとは誰も信じていなかった話など。

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2014年04月03日

Posted by ブクログ

前半、戦争、戦車に対する怨念がすごい。
半分を割いて当時の話をかきつらねる。

天皇は神である、とは当時も思っていなかったという著者。
そう思っているのは以外にも、マッカーサーしかり外国人だったという。
天皇の人間宣言は旗からみれば滑稽だったのかどうか。
確かに、当時の庶民の考えは後世の人間からすれば、推測すらできないのかもしれない。

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2015年07月14日

Posted by ブクログ

司馬遼太郎は大正時代生まれだったんだ。ますます遠く感じる。
でも彼のエッセイはいま読んでもそれほど色褪せてはいない。古くさい人だなぁとは思うけども。

戦争は過ぎ去ってから振り返ってみれば、まるで絵空事だ。
なのに今でもまだ、その悲しみや苦しみが癒やされないまま耐えている人がいる。
あんないかがわしいことのために殺し合う必要が本当にあったのか。

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2011年10月13日

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