原田マハのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレ印象派の画家、マティス・ドガ・セザンヌ・モネを描いた短編集。
4名の印象派の画家について、
マティスについては家政婦からの視点、ドガについては友人からの視点、セザンヌについては彼を応援していた画材商の娘からの手紙、モネについては義理の娘からの視点というように異なった描かれ方がされており、興味深く読むことが出来た。
当然のことながら、この4名の印象派の画家については学校の美術の授業で習って知ってはいたが、こうした物語を読むとその人となりを知ることが出来、より身近な存在に感じられ、作中に出てくる絵画作品名を見ると、ネットでその画像を探し出し見てしまう。
モネ晩年の大作であるオランジェリー美術館の睡蓮作成の話も記述されていたが、この内容を知っていれば、昨年大塚国際美術館で展示されていた睡蓮の壁画の見方も大きく変わっていたのだろうなと思ってしまう。 -
Posted by ブクログ
読み終わった。でも、原田マハの作品では、久しぶりに不完全燃焼だった。史実と虚構の入り混じった展開に、いろいろ刺激は受けた。
俵屋宗達が、『風神雷神』を描くところまで到達していない。続篇を期待したい。天正遣欧使節団が、日本に帰国したのが、1590年。天下は秀吉の時代。秀吉は、1587年7月にバテレン追放令(バテレンとは宣教師のこと)を発布していた。秀吉は、宣教師を追放したが、キリスト教を否定していなかった。それで、1591年3月に秀吉に、天正遣欧使節団は、聚楽第であっている。家康は、1612年に「禁教令」を出し、キリスト教を完全に禁止した。日本は鎖国となり、オランダとの貿易だけに限った。
本書を読みながら、天正遣欧使節団の帰国後の行く末が、気になった。
伊東マンショは、大友宗麟の名代。日向国主伊東義祐の孫。司祭に叙階。1612年長崎で死去。千々石ミゲルは、大村純忠の名代。後に棄教。1633年死去。(ただし、長崎、諫早市で墓が見つかり、ロザリオと一緒に埋葬されていたため、棄教ではないという説もある)。中浦ジュリアンは、司祭に叙階。1633年、長崎で穴吊るしの刑により殉教。原マルティーノは、司祭に叙階。1629年、追放先のマカオにて死去。本書『風神雷神』の物語は、原マルティーノの日誌が元になっている。原マルティーノは、語学に優れ、スペイン語、イタリア語、ラテン語に通じて、通訳の役割も果たす。物語では、俵屋宗達との関係も良好だった。原マルティーノは、マカオの大聖堂の地下に、生涯の師ヴァリニャーノ司祭と共に葬られている。
1583年11月、インドのゴアに到着。ヴァリニャーノ司祭は、ゴアにとどまることになる。イエズス会からインドの管区長に任命された。宗達は、ヴァリニャーノを父と思い、ついてきた。宗達がローマに行けと命令された時、ヴァリニャーノ司祭が立ち会った。また、天正遣欧使節団の許可もとった。また行く途中においてのイタリア語の教師でもあった。ヴァリニャーノは、清廉潔白、正義感強く、こうと決めたら筋を通してやり抜く人だった。宗達は、身を切るような痛みを感じた。「あなたは、ローマまで行くと言われた。嘘をついたのか」を問う。
1584年8月、ポルトガル、リスボンに到着した。歓迎され、宮殿の絵を見るが、初めは珍しさがあったが、同じものに見えてきてがっかりする宗達。2ヶ月後、スペインのマドリードに到着。スペイン国王フェリペ二世と謁見。宗達は、父親が渡してくれた風神雷神の扇を見せる。マルティーノは、ユピテルとアイオロスと紹介する。
1585年3月 イタリアのリヴォルノに到着。トスカーナ大公国で、ピサの宮殿に入る。宗達は。コジモ・ディ・メディチに会う。その威厳に驚く。沢山の肖像画はブロンズィーノが描いた。
フィレンチェに到着。ヴェッキオ宮殿。メディチ家が支配する礼拝堂。キリスト受難のレリーフ。祭壇の聖母子像。聖母マリアと幼子。内側から放たれる清らかな光。絵には命が宿っていた。それを描いたのが、レオナルドダヴィンチ。(ダヴィンチ村の出身のレオナルドという意味だった)その絵に宗達は感服する。
ローマ、カンピドリオの丘のふもと、イエズス会の本拠、ジェズ協会へ。ジュリアンは熱を出し、三人と絵師の宗達しかローマ法皇に謁見できない状況となった。1585年3月23日法皇、グレゴリウス十三世と謁見。グレゴリウス十三世は、ボローニャ生まれ、ボローニャ大学に学び、教鞭を取った経験を持つ。ユリウス暦から新しい暦、グレゴリウス暦を導入した。宗達は、『洛北洛中図』の屏風を渡す。システィーナ礼拝堂の天井画が、ミケランジェロの『天地創造』と『最後の審判』の画を見て、宗達の心に沁みた。宗達は、ダヴィンチ、ミケランジェロに会いたかったが、ダヴィンチは1519年、ミケランジェロは1564年に死んでいた。また、グレゴリウス十三世は、謁見の18日後に亡くなった。コンクラーヴェヶ行われ、シクストゥス五世が選ばれた。
神は世界を光と闇にわかちたもうた。
さらに神は太陽と緑を創りたもうた。
また神は水と大地をわかちたもうた。
天と、地と、光と、緑と、水と。
宗達は、天地創造に惹きつけられ、一切の言葉を奪い去られて、ただただ涙を流していた。
宗達は、この絵をみつために、ローマにやってきたのだった。
宗達は、ミラノにいた。ドミニコ会のサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の厨房を抜けて、食堂の壁画が、ダヴィンチの『最後の晩餐』だった。そこには、裏切り者がともに食卓を囲むことを許しているキリストがいた。宗達は、クリスチャンではなかったので、違和感を感じていたが、ここでキリストの心の広さを感じる。
そして、その食堂に少年が現れた。絵道具を持っていた。その少年が、1571年生まれのミケランジェロ・メリージ・カラヴァッジオで、14歳だった。いやはや。宗達とカラヴァッジオと会わせるとは、すごい。二人は交流し、互いの絵を送り合う。そして、カラヴァッジオが働いていたシモーネ・ペテルツァーノ公の絵画工房で、工房の作業を見るのだった。実際にカラバッジョは、その頃工房にいた。
宗達は、ダヴィンチの絵に出会い、ミケランジェロの絵に向き合い、「描きなさい。まっすぐに。己の信ずるままに』という声が聞こえたのだった。