夏目漱石のレビュー一覧
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ネタバレ難しい。格別面白かったわけではないんですが、面白くないと断定できるほどこのストーリーの全てを味わい尽くしたかの自信がもてません。読み返そうとは今思えないのですが、何か認識しづらくて小さいヒントみたいものが散りばめられていそうな文章のように感じてしまって、読んだ実感はあっても理解できた実感が0です。
読み終えて真っ先に思ったのは、「安井の元から宗介とお米がいかにして離れたか見当がつかないので、宗介の苦しみに共感できない」ということでした。夫婦で社会からのつまはじきものとして生きることにしたこと、この結論だけしか分かりません。なんかこういうよく分からんけど結果そうなったみたいなのが全編多いです。
多分、私には早すぎた小説な気がしました。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ親を亡くし、弟を引き取ってひっそりと妻御米と暮らす宗助。御米はかつて宗助の友人安井と同棲していたが、宗助が略奪してしまったことが割と後半に明らかになる。それまでは子どもがいないことを気に病む御米の描写や、御米をやや疎んじる宗助の弟小六の様子があるけれど、その伏線が全編の真ん中くらいにあるこの略奪婚の話で急に回収され、そこからは、後ろ暗い罪故に子どもができないと悩む御米と、隣人坂井から坂井の弟の友人である安井を引き合わされそうになって戦く宗助が描かれる。宗助はそれを気に病んで鎌倉の禅寺に行き、十日間籠るが、悟りの門は閉ざされたまま、家に帰ってくる。そこで安井はまた東京を出て行ったと聞いて一時の安寧を得たところで物語は終わる。
漱石は門人に適当にタイトルをつけさせて、そのタイトル『門』に合わせてこの話を書いたというが、ちゃんと最後に門に回収されていてさすがなのと、門外漢とか、門に関する語が(意識してみるからかもしれないけど)ちょいちょい使われている気がした。
『三四郎』や『それから』よりも淡々として静かな展開という印象。 -
Posted by ブクログ
解説などには、この小説が、『坊ちゃん』と並んで親しみやすい作品と長年思われてきたが……とあるが、個人的には全く親しみやすいとは感じなかった。恐らく親しみやすいと思われて来たのは、解説 (p.314) に
「新聞小説の利点を上手に活用しているといえば、新聞に掲載される日付と小説のなかの話の時期をほぼ重ねあわせた構成に、その一端をうかがうことができる。連載がはじまったのは9/1だが、三四郎の上京の車中風景を話の冒頭にもってきたのは偶然ではなく (……当時、大学の新学期は秋……)、紙面に出る時期を意識したからである……。……団子坂の菊人形の場面を織りこんでいるのも……同じような配慮から来ている。三四郎が新しい知見を次第に加え、世界と人生について認識を深めてゆく過程を追うためには、いうまでもなく話の運びを時間の経過のなかに置かなければならないが、ここではそれを季節の歩みと縫いあわせて、読者を飽きさせない工夫がこらされている。」
などとあるように、読者の生きる時間と物語の時間の流れが一致していたり、登場する土地の情景描写が東京に暮らす人にとって馴染み深かったり、そういうレベルのものだと思う。
作品の主題は、全部読みきってみて思うのは、恐らく恋愛、というか、新しい時代の女性像と、その新しい時代の女性との恋愛。こういう作品の場合、対比されるべき旧い時代の女性が出てくるものだと思うが、この作品にはみあたらない気がする。三四郎と同じく熊本から上京した野々宮さんの妹よし子が旧い女性かと言われると、そんな感じはしない。その点で、対比になっているのは三四郎自身なのかなと思う。
その主題の周りにちょいちょい、漱石が他の作品でもとりあげる当時の日本のエセ西洋化などについての話がでてくるが、他の作品と比べると影は薄いかと思う。そのほか当時の時代を象徴するものとして、p.115の「空中飛行器」は、『三四郎』の発表 (1908年) の五年前 (1903年) にライト兄弟が初めて動力飛行を成功させたということに因み、p.232の「自分の取る新聞などは……泥棒早見といふ欄があつて、どこへどんな泥棒がはいつたか、一目に分るやうに泥棒がかたまつてゐる。」という一文は、それだけ当時は泥棒天国だったのか……などと想像して面白かった。
この作品が読んでいてよくわからないのは、美禰子が宇宙人すぎるところにあるのかと思う。「迷える子 (stray sheep)」といったよく解らない発言がちょくちょく出てくる。三四郎にも謎ながら、読む人も霧に包まれた心持ち。解説に拠れば、美禰子は野々宮さんが好きだったものの、野々宮さんが研究に没頭して振り向いてくれないものだから、三四郎に気があるようなそぶりを見せて野々宮さんの気を惹こうとしていたらしい。でもそれなら美禰子が三四郎に言った「馬券で中るのは、人の心を中るより六づかしいぢやありませんか。あなたは索引の附いてゐる人の心さえ中て見やうとなさらない呑気な方だのに」(p.193) は誰の心を指しているのか。まさかこれも、三四郎を騙すための言葉?だとしたら新時代の女性は怖すぎる。
さらにもっと言えば、当時の東京の読者には親しみやすかったかも知れない土地に紐づいた描写が、現代時にには全く解らない。漱石時代の面影が現代でも遺っているところなどもはやないだろうが、東京に住んでいるうちに巡ってみたい気もする。
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p.196の「小口當座預金(あづかりきん)通帳(かよいちやう)」とゆうルビがおもしろい。
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p.202の「晩餐(ジンナー)」は元々「ヂンナー」のはず。旧仮名の現代化を図ったって書いてある。ただ、ヂは人によってはディの音として使っている場合もあるから、これをジになおすのは不適切では。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ私小説に徹するという意味で、漱石の他の作品とは一線を画す小説。
海外留学から帰って大学の教師になった健三は、長い時間をかけて完成する目的で一大著作(『吾輩は猫である』に相当すると思われる)に取りかかっている。その彼の前に、十五、六年前に縁が切れた筈の養父・島田が現れ、金をせびる。養父ばかりか、姉・御夏や兄・長太郎、事業に失敗した舅までが、健三にまとわりつき、金銭問題で悩ませる。その上、妻の御住とはお互いを理解できずに暮らしている毎日で…。
徹頭徹尾、金、金、金。さして裕福でもない健三に群がり無心する親類縁者たちと、それに辟易させられっぱなしの健三。
金銭を描くことを文芸的にタブー視する作家もいる中、漱石の作品では躊躇いなく金銭問題が取り上げられますが、わけても今作は金まみれ。
おまけに細君とは反りが合わず、互いを責め続けるという、暗澹たる状態。現代ならとっくに離婚でしょう。
金を遣っても尽きる見込みのない親類の無心に、「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない」と吐き捨てる健三。
彼の嫌悪感はむろん自身にも向いています。劇的な展開こそないものの、光が見出せないため読後感は重い。
なお、今作は専ら健三、ひいては漱石の視点から描かれているため、妻・鏡子の口述をまとめた『漱石の思い出』で妻の言い分もひも解くとまた違った地平も見えそうです。