夏目漱石のレビュー一覧
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漱石らしいとても歯切れのいい文体が気持ちよくて、主人公の代助の、現代で言えばニートな身分でありながらインテリで偉そうな思考回路がおかしくてところどころ笑いながら読みました。前半は。
後半は、代助がどんどん追いつめられていく様子がちょっと痛々しい。自業自得なんだけど。
どんなに頭がよくても感情(特に恋愛感情)はなかなか制御できない。それなのにそこに理屈をくっつけようとして余計苦しんで…漱石の重い小説にはこういう主人公が多い気がします。
ぼんやりした終わり方がかえって印象的でした。
漱石の比喩表現は見事ですね。さすが文豪、と惚れ惚れしました。 -
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序盤は情景が描けず、やや苦しかった。
優柔不断な小野。小野の従順さこそ夫として「欲しいもの」に値すると考えている、高笑いハイカラ美女・藤尾。
そんな藤尾にデレデレ状態の小野だったのだが、五年来、彼の妻になるものと見做されていた女、小夜子がやってくる。
二人を前に、傷を負わずして藤尾を選択しようとした小野。からの、結末がすごい!うーん、なかなか突飛だと思う。。。
小野、藤尾、小夜子の話はなんだかどろどろしていて、あまり好きにはなれなかったが……序盤から謎めいていた藤尾の兄、甲野の終盤の涙になんだかきゅん!
更に、糸子と甲野が共に家を出るシーンも良かったなー。
雨が降っても、濡れるのはあなたではない。
いやあ、かっこいい!
本当はもっと読み込むべき部分があるのだろうが、初読ではストーリーを追うのに必死だった。 -
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登場人物のキャラがしっかり立っておりあとは自然に物語が進んでいく。
前半とくに詩的だか仏教的だか何れにせよ難解な文章が挿入されており、それは飛ばした。
「僕が君より平気なのは、学問の為でも、勉強の為でも、何でもない。時々真面目になるからさ。なるからと云うより、なれるからと云った方が適当だろう。
真面目になれる程、腰が据わる事はない。真面目になれる程、精神の存在を自覚する事はない。天地の前に自分が現存しているという観念は、真面目になって始めて得られる自覚だ。
真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。遣っ付ける意味だよ。遣っ付けなくっちゃいられない意味だよ。人間全体が活動する意味だよ。口が巧者に働いたり、手が小器用に働いたりするのは、いくら働いたって真面目じゃない。頭の中を遺憾なく世の中へ敲きつけて始めて真面目になった気持になる。安心する。
実を云うと僕の妹も昨日真面目になった。僕は昨日も、今日も真面目だ。
君もこの際一度真面目になれ。人一人真面目になると当人が助かるばかりじゃない。世の中が助かる。
ーどうだね、小野さん、僕の云う事は分からないかね。」357㌻
僕も真面目になるよ! -
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草枕は眺めるように読む小説である。
主人公は日常の生活圏から逃げ、自己に沈静しながら、現れてくる世界をただ眺めようとする。それは「おのれの感じから一歩退く」ためである。漱石自身が苦しみに対処するためにそれが必要だった。
草枕は漱石が「自分の屍骸を、自分で解剖して、その病状を天下に発表」した小説である。余と那美さんは二人とも漱石の分身だ。漱石は自分の屍骸を美しい言葉で綴る。それが彼が苦しみから逃れるための方法だった。
読者はそれを眺める。しかし、漱石の言葉が美しすぎるがために、読者は自分が読んでいるものが彼の死骸だとは思わないのである。
漱石の病跡には諸説あるようだが、この小説に現れた病状は分裂病的だと思った。探偵に付け狙われ、屁をひったと言われ続けるという描写は、まるで精神医学の教科書に載っても遜色がない。 -
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『三四郎』『それから』に続く、いわゆる三部作の締め。もっとも、前2作とは打って変わって、筋立て上ではドラマチックな展開はほとんど無い。むしろ、『それから』にも通じるような道徳上の「不義の愛」が、いつまでも宗助と御米の人生を暗くし続けている。その描写が手を変え品を変えなされる。『それから』同様に、「自然」とも「運命」とも称される、自我を超越した何らかの力が生活に働きかけているとしか思えないような出来事を、宗助も御米も体験してしまう。この繰り返しは、生活上の小康状態を得た最後のシーンでもなお予感されている。「またじきに冬になるよ」という言葉は、「自然」「運命」の力の強大さを表して余りあるものではないだろうか。
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『三四郎』『門』との内容的関連から「三部作」と称される小説。前作『三四郎』が青年の自己形成を主題としたBildungsromanの趣が強いのに対して、本作の主人公・長井代助は物語の開始時点で高等教育を修了し、父や兄からの経済的援助のもとに高等遊民的な生活を送っている。その生活が、平岡とその妻三千代の登場によって撹乱される。三千代への愛、平岡との友情、家族との関係など、様々なファクターを考慮しつつ、代助は自己内省を深めていく。その末に到達した結論は、合理性(ここでは父の薦める通りに見合い結婚をすること)ではなく、三千代への愛を貫くことだった。しかし、それによって家からは勘当され、平岡との友情も破綻し、遊民的生活に安住することも出来なくなる。その意味で、本作のクライマックスは、三千代への告白よりも、全ての光景が赤に染まっていく、あの狂気寸前の代助の情景描写に他ならない。
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ようやく読み終えた!
思ってた以上に切なくて、焦れったくて、どうしようもなかった。
また読みたい。
特に印象に残ったところ
・「ああああ、もう少しの間だ」
・「あなたはよっぽど度胸のない方ですね」
・「可哀想だた惚れたって事よ」
・「あなたに会いに行ったんです」
・「そう。じゃ頂いて置きましょう」「ヘリオトロープ」
・ヘリオトロープの壜。四丁目の夕暮。迷羊。迷羊。空には高い日が明かに懸る。
・「われは我が愆を知る。我が罪は常に我が前にあり」
以下は雑感。
『三四郎』を初めて読んだ。なかなか印象深い作品で、学生時に読んでいれば、また違った感想を抱いたかもしれないなとも思う。
『三四郎』に出てくる登場人物は、悪意はないけれど軽薄な学生与次郎や筋金入りの研究肌である野々宮。同じく研究肌でありながら厭世気味に思える広田先生、そして謎の女性美禰子など、様々なキャラクターに溢れている。
とりわけ、三四郎にとって不可解な存在でありながら惹かれずにはいられなかった美禰子。
教養のあるところを見せたり(きれいな英語の発音や絵画を見てヴェニスと判るなど)、「迷える子」と呟いたり溜息を漏らしたりする人物だが、ただそれがどういう意図にあるか読者や三四郎はわからなくて、それが一層美禰子を謎めいた女性にみせている。
おそらく読者は、そのような美禰子に対して肯定的か否定的か、感想が分かれるところではないだろうか。
美禰子に共感する人、不快感を覚える人、理想とみる人・・・。本当に様々だと思う。それはつまり、その人の考え(人生観・恋愛観)を映す鏡として、美禰子という人物が機能しているということなのかもしれない。
そういえば、『三四郎』の中でイブセンが出てきていた。
イブセン(イプセン)といえば『人形の家』だが、その主人公はノラという女性だ。簡単なあらすじは以下。
ノラは良い妻、良い母親として何不自由なく暮らしており、夫はそんなノラを雲雀よリスよと可愛がっていた。だがノラが犯したある罪を知ったとき、夫はノラを罵倒し、自分の威信を守ろうとする。それを見たノラは、自分が今まで夫の「人形」であったこと、夫の前は父親の「人形」であったことに気付き、可愛い子どもたちと夫を捨て、家を飛び出す。
そんな、いわば近代的な女性の自立として紹介されるような作品である。
『三四郎』の中では「ええ乱暴です。イブセンの女のような所がある」(p141、与次郎の言)や「イブセンの女は露骨」(p141 広田先生の評)というような表現なので、それが『人形の家』のノラなのかどうか明記されていないが、私はその作品しか知らないので自然ノラと美禰子とを重ね合わせていた。
そもそも美禰子は、自立的、自己意思のある女性として解釈されることもあるが、本当にそうなのだろうか。
「あの女は自分の行きたい所でなくっちゃ行きっこない。勧めたって駄目だ。好な人があるまで独身で置くがいい」(p177)というのは広田先生の言葉だが、本当にこの時代に、兄しかいない女性が好きというだけで結婚できるのだろうか。もちろんできるのかもしれない。
だが、婚約者が美禰子の兄の友人であること、兄の結婚が決まっていたこと、また先方はよし子との縁談が先にあったこと、そして「われは我が愆を知る。我が罪は常に我が前にあり」(p290)という言葉を、美禰子が三四郎のいる場で微かに呟いたことを考えると、それが意に沿わぬ婚約であったという見方もできる気がする。
自分が「人形」であることに気付いたノラはすべてを捨て、嵐の外へと飛び出すが、美禰子は「人形」であることを知りつつ、それを受け容れたのかもしれない。
さて、物語中、三四郎が美禰子に惹かれていたことは明らかではあるが、はたして美禰子は三四郎のことをどう思っていたのであろう。
私は、美禰子も三四郎と同じように、彼に惹かれていたのだと思う。少なくとも、絵のモデル中に三四郎が美禰子にお金を返そうする前までは、好意を寄せていたのではないかと。
三四郎にしては、二人を繋げていると感じていたその金銭を返すことによって、二人がまた無関係なもの同士に戻るか、あるいはその繋がりがなくなることで関係を縮めることができるか―一つの賭けのようなものだったのかもしれない。
だがそのことを持ち出したあと、美禰子は画家の原口が訝しく思うほど表情を変じてしまう。疲れたような顔。美禰子にとって、それは決定的なことであった。
その後、三四郎がようやくの思いで伝えた「あなたに会いに行ったんです」(p247)という言葉。この言葉は、お金の話を持ち出す前であればよかったのに、と思わずにはいられない。
それに対して美禰子が「御金は、あすこじゃ頂けないのよ」(p247)と返すことができてしまったように、表面的には、三四郎の言葉は、お金を返しに会いに行った、というふうに受け取れてしまうからだ。
もちろん読者はそんなふうには思わないし、美禰子もわかってはぐらかしているように思えるが、だが、もう少し早く三四郎が美禰子へと思いを伝えていれば。
結局、変わらなかったかもしれない。だが、変わったかもしれない。そう思うにつけて、切ない場面だなと感じた。
さて、しかしながら三四郎はこのあとどうするのであろうか。
広田先生みたいに、強い想いを胸に抱きながらひとりでいることを選ぶのか。
はたまた闊達なよし子とうまくいくのか(これもいいと思うんだけど…)。
いやいや、熊本にいる御光さんと一緒になるのか。
個人的には、『それから』みたいになるのも悪くないのではと思うのだけど。