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若き代助は義侠心から友人平岡に愛する三千代をゆずり自ら斡旋して二人を結びあわせたが、それは「自然」にもどる行為だった。それから三年、ついに代助は三千代との愛をつらぬこうと決意する。「自然」にはかなうが、しかし人の掟にそむくこの愛に生きることは二人が社会から追い放たれることを意味した。 (注・解説 吉田熈生)
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Posted by ブクログ
「自然」でありたいと希望し、近代の論理に抗って三千代を選ぶ代助。しかし、後半の代助の心の動きは「自然」ではないように感じるところがある。柄谷行人はそれは姦通を扱ったから、無意識の発露であるからという。漱石は「拙」であっても「自然」であることを目指していたが、むしろ「自然」であるためには「拙」になって...続きを読むしまうのかもしれない。中世に戻りつつある現代において漱石を読む意味はこの辺りにあるのか。
漱石前期三部作の第二作。 自他共に認める、高等遊民である主人公代助の親友の妻を愛してしまうことによって、実社会に落とし入れられていくまでを描く、漱石による愛の物語。 まず、代助が高等遊民を自称名乗るに当たり、それに合わせて描かれる高等遊民らしい描写に圧倒されるだろう。 特に漱石の他作品(特に初期作...続きを読む品)を読んだことがある人なら、彼の幅の広さを感ぜられる。 漱石自身が持つ百面相とも言える、作品毎の表情の変化は、それだけで読むに値するのかもしれない。 漱石は文学論上半自然主義派の余裕派に分類される作家であるが、この「それから」内では余裕を感じつつも、自然主義的要素が所々に見ることができる。(あくまで私の主観であることをあしからず笑) 「三四郎」の痛快さを継承しつつも、さらに人間心理の描写を緻密に表現し、比較的暗い作品という印象を受けた。 ちょっと読むには若すぎたかもしれない。代助と同じ年頃になった時に読み直してみたい。 そしてその際の自分の感想が楽しみである。笑
1909年(明治42年)。 国語の教科書のイメージが先行しているせいか、文豪作品は優等生的で退屈と思われがちだが、読んでみると必ずしもそうではない。最初こそ文体が堅苦しく感じられるかもしれないが、慣れてしまえば大したことはない。というか文体に慣れてしまえば、実はいわゆる古典的名作こそ、その中身は反社...続きを読む会的で、病的で、自意識過剰で、ひねくれていて、だからこそ面白い、ということに気づく。むしろ、書店で平積みにされているベストセラー本の方が、文体がくだけていて読みやすいというだけで、中身は「仲間を大切にしよう」「努力することは素晴らしい」「成功こそ人生」など、教科書以上に教科書的な内容だったりする。 『それから』はというと、そういう「友情・努力・勝利」といった前向きな価値観に対し、徹底的にノーという小説である。まず、主人公・長井代助の設定が「大学を卒業しているのに定職に就いていない30男」であり、高等遊民というと聞こえがいいが要するにニートである。金がなくなれば実家にもらいに行き、親から説教されてものらりくらりとかわすだけで、世間の価値観に染まらない自分こそ上等な人間であると内心誇りに思っている。のみならず、実業家としてがつがつした生活を送り、かつ、がつがつすることこそ成功者の証と信じて疑わない父親のことを、心の貧しい気の毒な人間だと考えている。当然、そんな了見で一生やっていけるはずもなく、やがて親友の妻・三千代と道ならぬ恋におち、父親から勘当され生活費の支給が途絶えて、軽蔑していた社会に孤立無援で出ていかざるを得なくなる。 この反道徳的な小説が、明治42年の朝日新聞に連載されて人気を博していたという。今よりもはるかに同調圧力の強い時代に、よくこんな脱力系の小説が受け入れられたものだと感心する。年代的には、日露戦争の記憶も生々しく、日韓併合を目前に控えたマッチョな時代だったはずだが、光が強ければそれだけ影も濃くなるということだろうか。富国強兵が国是の時代にあって、少なくとも朝日新聞を読んでいた人々の間には、精神の均衡を保とうとする本能が無意識のうちに働いたのかもしれない。 「何故働かないって、そりゃ僕が悪いんじゃない。つまり世の中が悪いのだ。もっと、大袈裟にいうと、日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ。」 「日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでいて、一等国をもって任じている。そうして、無理にも一等国の仲間入りをしようとする。だから、あらゆる方面に向って、奥行を削って、一等国だけの間口を張っちまった。なまじい張れるから、なお悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。」 「こう西洋の圧迫を受けている国民は、頭に余裕がないから、碌な仕事はできない。悉く切り詰めた教育で、そうして目の廻るほどこき使われるから、揃って神経衰弱になっちまう。話をして見給え大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の今日の、ただ今の事より外に、何も考えてやしない。考えられないほど疲労しているんだから仕方がない。」 「日本国中どこを見渡したって、輝いている断面は一寸四方もないじゃないか。悉く暗黒だ。その間に立って僕一人が、何といったって、何をしたって、仕様がないさ。」 『それから』より100年後の私達は、代助が働かない理由を、負け犬の遠吠えだと笑いとばすことができるだろうか。ともかくも、漱石に端を発する近代以降の日本文学が、進歩思想に対する徹底的な懐疑とともに始まったという事実は、記憶しておいていい。
文学上の「高等遊民」を感じようと読んだ作品。解説で吉田熈生が「息苦しい感じ」と評す漱石の文体を肯定できるようになるには年月がかかった。ストーリーは「自然」に人を愛そうとする遊民・代助の社会的不許の愛である。ただし注目に値するのは、物語の幹ではなく枝葉にある。視線の行方、煩悩の文字、不快な相互理解の描...続きを読む写、それらの精微な表現がこの作品の醍醐味であろう。やはり漱石を読むには、中学生時代の私は幼すぎたね。
「代助は決してのらくらして居ゐるとは思はない。たゞ職業の為ために汚されない内容の多い時間を有する、上等人種と自分を考へてゐる丈である。」
代助の三千代への愛が真実の愛であるのに、代助が謂うところの義侠心によって、三千代を平岡に譲ったことが私には腑に落ちない。これでは真実の愛よりも義侠心のほうが代助にとっては価値あるものになるのではないか。私には、やはり謎だ。 代助から打ち明けられて初めは泣いていた三千代だが、「…けれども私もう度胸を据...続きを読むゑてゐるから大丈夫なのよ。だつて何時殺されたって好いんですもの」と代助に言うのだが、ここで三千代の愛は代助の愛より強いのではないのかと想った。 三千代が愛しい。
僕にとっては夏目漱石二作目、虞美人草に続いてです。 前に読んだ虞美人草は面白いかといわれると微妙でしたが、それからは面白かった。今の時代の人が読んでも面白いと思える作品。主人公の代助の心情描写には共感を覚えました。 描かれている恋愛観も素晴らしいものでした
主人公の代助は現在で言えばネオニートと言う言葉で一蹴されそうな身分。職につかず親の仕送りで生計を立てている。しかし普通のニートや引きこもりのように学びもせずただ娯楽に耽っていたりと言うことはない。彼は日々芸術など高尚な世界との交流を楽しみ学ぶ高等遊民であり、ニートと言う言葉で片付けるにはあまりにも舌...続きを読む足らずと言う気がする。 3回読んだが、難しいところが多い。三四郎より簡単だったと言う人がいたが、僕にとっては哲学的表現が多いように感じ三四郎より難解であった。 色々と難しい代助の人生観は度々理解できないものがあるが、共感できたりするところが多い。彼の人生観をただのニートの言い訳とみなすのはあまりにも勿体無いであろう。それはこの作品が100年経った今でも盛んに読まれていることによって裏づけされていると言える。 前半200ページ(いわゆる『起』の部分)はややだるいところもあるが、哲学が好きな人にはお薦めできる。後半の100ページ(ここに『承転結』が詰め込まれている。しかし個人的にはこの物語は転で終わっており、結は無いような気がする。結の部分は3部作の最後をしめくくる『門』で語られているのだろうか)で話は怒涛の展開を見せる。 しかし働かない身分での妻帯が許されて、不倫が許されないなんて、当時の社会の掟って現在と随分違うのね〜と思う。
大学時代に読んだはずなのに、こんなにおもしろい話とは思わなかった。 やっぱり、その時々で感じるものって違うんだな。 ダイヤモンドかポテトーか、結局なやむところは同じで、 漱石に先見の明があったのか、それとも人間なんてものは今も昔も変わりないということなのか…
夏目作品で一番印象に残っていた本。 やはり「僕の存在にあなたが必要だ」の箇所は 今読んでもキュンとくる。
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