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「こゝろ」は後期三部作の終曲であるばかりでなく、漱石文学の絶頂をなす作品。自我の奥深くに巣くっているエゴイズムは、ここでぎりぎりのところまで押しつめられる。誠実ゆえに自己否定の試みを、自殺にまで追いつめなければならなかった漱石は、そこから「則天去私」という人生観にたどりつく。大正3年作。(C)KAMAWANU CO.,LTD.All Rights Reserved
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Posted by ブクログ
『こころ』(夏目漱石)の先生と『曖昧な弱者の時代』(伊藤昌亮)
内向する弱さと外向する弱さ
伊藤昌亮が言う「曖昧な弱者」とは、中間層やマジョリティに属しながら「自分たちも損をしている」「つらいのに守られない」と感じる層である。明白な弱者(経済的・文化的に公認されやすい弱者)への支援を特権と見て敵意を抱き、その不満をSNSで増幅させる。食うには困らないが、相対的に不遇だと感じている人々だ。
『こころ』の先生は、この類型に当てはまる。経済的には困っていない。叔父に財産を奪われた経験はあるが、その後の生活は安定しており、定職にも就かず暮らしている。マジョリティの男性知識人として、物質的な困窮からは遠い。にもかかわらず、Kを裏切ったという取り返しのつかない行為を生涯抱え続け、人間不信と自己嫌悪の中で社会から距離を置き、最終的に自ら命を絶つ。現代の感覚で言えば「死にたくなったら筋トレしろ」と一笑されかねない、食うに困らない曖昧な弱者である。
ただし、決定的な違いがある。
現代の曖昧な弱者が抱くのは、他者に向けた、比較から生まれる怒りだ。「自分だって苦しいのに、なぜあっちばかりが守られるのか」。その敵意は外部に向かい、政治的な言説や分断のエネルギーになる。先生の弱さは徹底して内向している。他者を責めず、自分を責める。叔父を憎んだが、最も深く憎んだのは「同じことをしてしまった自分」だった。その自己嫌悪は誰にも噴出せず、沈黙と孤立、そして自死として内側に沈殿していく。
現代の曖昧な弱者は「なぜ自分は守られないのか」と問う。先生は「なぜ自分はこんな人間になってしまったのか」と問う。前者の怒りは外部化でき、承認や再分配を求める形で政治に接続する。後者の苦しみは、すでにやってしまった行為に根拠があり、誰を責めても解決しない。妻にさえ真実を話せない孤独は、そこから生まれる。
両者に共通するのは、物質的な余裕が、自分の弱さを直視し続ける条件になるという構造だ。余裕がなければ、先生はここまで長く自分を罰し続けられなかった。現代の曖昧な弱者も、生活の切迫の中で怒りをここまで肥大化させにくかったかもしれない。プロレタリア文学が批判した「余裕のある人間の内面の悩み」と、現代の「生活に困っていないのにメンタルで苦しむ人間への冷笑」は、形を変えた同じ視線である。ただ漱石が描いたのは、その余裕の中でこそ露わになる、自分のエゴイズムを自覚してしまった人間の行き場のなさでもあった。
しかし、先生を「曖昧な弱者」と呼ぶことには、どこか安易さがある。自分が弱者の外にいるという位置から見ているからだ。先生の内向的な弱さを、現代の冷笑(死にたくなったら筋トレしろに代表される)より深く見てしまう自分は、結局「余裕のある側」に立っている。だがその余裕は固定されていない。自分もまた、少しのきっかけで、先生のように自分を罰し続ける側にも、現代の曖昧な弱者のように怒りを外部に向ける側にもなる。その近さと怖さは、わかっているつもりだ。
先生は、現代の「曖昧な弱者」の原型の一つである。ただしその原型は、怒りを外部に向けるタイプではなく、自分に向け続けるタイプだ。2026年の感覚で先生を一笑するのは簡単だ。だがその背後には、弱さを「誰かを叩くエネルギー」に転換する現代の回路と、弱さを「自分を罰し続ける孤独」に沈めてしまう過去の回路との、根本的な違いがある。どちらがより「健全」かではない。どちらも「食うに困らないこと」がもたらす、特有の行き場のなさだ。そしてその行き場のなさの外に、観察する自分がいるとは限らない。
Posted by ブクログ
常日頃考えていたことが言語化されるタイミングが、読んでいてとても多かった
また、高校生の時に授業で教科書版に省略されたものを読んで、よく記憶に残っているフレーズも多かった
明治の精神や、自分の心に殉ずることなど、考える余地のあるものが多い
自分の不純さを自分が一番理解していて、それでいて(そこを隠して)相手に自分を受け入れてもらおうとする自負に辟易していたのでよく刺さった
また、(法律的、実際的に)義務でなくても、そうしないといけないと強制的に(自分で)自分を縛り付けているものがあるのならそれは、ある意味それは義務であると常々考えていてそれの是非もよくわからない(明治の精神と一緒で)
正解の道から逸れてしまって、道に戻ることは可能ではあるが、そこには痛みが伴い、その痛みは自分にとって尋常でないということもよくわかる
叔父と私の本質的な醜さには違いがあると思ったけど、そこはまた考える余地がありそう
なんか容量をえない感想を書いてしまった
Posted by ブクログ
『とにかく恋は罪悪ですよ。よござんすか。そして神聖なものですよ』
先生が「私」に語ったこの言葉は、恋心が人の心を狂わせる一方で、どんな手を使ってでも誰にも譲りたくないという人間の強い気持ちが、愚かしくも、どこか尊いものであるということを暗示しているように感じた。
物語の終盤で、人間は決して完全な存在ではなく、常に利己的な本能に振り回される哀しい生き物なんだと突きつけられ、息苦しさを覚えた。だけど、どこかで救われるような、ほっとする感情も覚えた。人間とはそういうものだ、と誰かにそっと肩を叩かれたような感覚に近い。
生々しい人間のリアルな葛藤が、これでもかと描かれる本書。先生が私に伝えた心情が、いつまでも胸に突き刺さる物語だった。
Posted by ブクログ
解説を読むと、第3章だけでひとつの作品だったようだ。
この章だけで、作者の言いたいことは完結していると感じられるが、1章、2章が加わることによって、小説然とした作品に昇華されている。
張り巡らされた伏線回収というものではないが、1章での先生との会話での疑問が解けていく心地良さが感じられる。しかし文章自体はたいへん居心地が悪い。
この複雑な感情は、最近読んでいた小説では感じられない新鮮さだった。
今回、この作品は音読した。
現代では使わない言い回しや単語があるのは想定していたが、送りがながかなり独特で、何度も読み直した。
これは時代のものなのか、漱石独自のものなのか、本を読んできていない私には分からない。
黙読よりも、おそらく倍の時間はかかったが、時代の空気を感じられた気がするので、古い作品を読む時は今後も続けよう。
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