夏目漱石のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
ネタバレ漱石未完の長編。
実は未完だというのは本を最後まで読むまで知らなかった僕。
それくらい先入観なしで読んでいたのがある意味奇跡かも。
漱石の小説は結構すきなのね。
なんかニヒリズムがどの主人公にもあるような気がして、
津田もそういう類の人間だ。
自分が本当に好きな女性と結婚できずに、
堕落をしてあげく親の金が支給されないとなるととんでもないことだと言わんばかりの感じ。
一応真面目な僕からすると働けって。
各々の登場人物が非常に特徴あるように描写されていて、
文章の美しさは三島由紀夫ほどではないけれども、
いつも漱石の小説に惹かれるものがある。
たぶん感情移入しやすいのだろうか。そうでもな -
Posted by ブクログ
登場人物のキャラがしっかり立っておりあとは自然に物語が進んでいく。
前半とくに詩的だか仏教的だか何れにせよ難解な文章が挿入されており、それは飛ばした。
「僕が君より平気なのは、学問の為でも、勉強の為でも、何でもない。時々真面目になるからさ。なるからと云うより、なれるからと云った方が適当だろう。
真面目になれる程、腰が据わる事はない。真面目になれる程、精神の存在を自覚する事はない。天地の前に自分が現存しているという観念は、真面目になって始めて得られる自覚だ。
真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。遣っ付ける意味だよ。遣っ付けなくっちゃいられない意味だよ。人間全体が活動する意味だよ。口が巧者に -
Posted by ブクログ
草枕は眺めるように読む小説である。
主人公は日常の生活圏から逃げ、自己に沈静しながら、現れてくる世界をただ眺めようとする。それは「おのれの感じから一歩退く」ためである。漱石自身が苦しみに対処するためにそれが必要だった。
草枕は漱石が「自分の屍骸を、自分で解剖して、その病状を天下に発表」した小説である。余と那美さんは二人とも漱石の分身だ。漱石は自分の屍骸を美しい言葉で綴る。それが彼が苦しみから逃れるための方法だった。
読者はそれを眺める。しかし、漱石の言葉が美しすぎるがために、読者は自分が読んでいるものが彼の死骸だとは思わないのである。
漱石の病跡には諸説あるようだが、この小説に現れた病 -
Posted by ブクログ
『三四郎』『それから』に続く、いわゆる三部作の締め。もっとも、前2作とは打って変わって、筋立て上ではドラマチックな展開はほとんど無い。むしろ、『それから』にも通じるような道徳上の「不義の愛」が、いつまでも宗助と御米の人生を暗くし続けている。その描写が手を変え品を変えなされる。『それから』同様に、「自然」とも「運命」とも称される、自我を超越した何らかの力が生活に働きかけているとしか思えないような出来事を、宗助も御米も体験してしまう。この繰り返しは、生活上の小康状態を得た最後のシーンでもなお予感されている。「またじきに冬になるよ」という言葉は、「自然」「運命」の力の強大さを表して余りあるものではな
-
Posted by ブクログ
『三四郎』『門』との内容的関連から「三部作」と称される小説。前作『三四郎』が青年の自己形成を主題としたBildungsromanの趣が強いのに対して、本作の主人公・長井代助は物語の開始時点で高等教育を修了し、父や兄からの経済的援助のもとに高等遊民的な生活を送っている。その生活が、平岡とその妻三千代の登場によって撹乱される。三千代への愛、平岡との友情、家族との関係など、様々なファクターを考慮しつつ、代助は自己内省を深めていく。その末に到達した結論は、合理性(ここでは父の薦める通りに見合い結婚をすること)ではなく、三千代への愛を貫くことだった。しかし、それによって家からは勘当され、平岡との友情も破
-
Posted by ブクログ
ようやく読み終えた!
思ってた以上に切なくて、焦れったくて、どうしようもなかった。
また読みたい。
特に印象に残ったところ
・「ああああ、もう少しの間だ」
・「あなたはよっぽど度胸のない方ですね」
・「可哀想だた惚れたって事よ」
・「あなたに会いに行ったんです」
・「そう。じゃ頂いて置きましょう」「ヘリオトロープ」
・ヘリオトロープの壜。四丁目の夕暮。迷羊。迷羊。空には高い日が明かに懸る。
・「われは我が愆を知る。我が罪は常に我が前にあり」
以下は雑感。
『三四郎』を初めて読んだ。なかなか印象深い作品で、学生時に読んでいれば、また違った感想を抱いたかもしれないなとも思う。
『三四郎』