明治33年10月より2年間漱石は英国に留学した。どこに行っても日本人がうようよ状態の現在と違って、当時は海外で生活する日本人は少なく、とても心細かっただろうと想像される。
元々神経質だった漱石は「英国人全体が莫迦にしている。そうして何かと自分一人をいじめる。これほど自分はおとなしくしているのに、これでもまだ足りないでいじめるのか」と思い詰めるほどの神経衰弱にかかってしまい、周囲の者に心配を掛けていたという。
しかし、この外国生活は作家としての漱石に大きな影響を与えたのは間違いない。 というのも、漱石は明治38年一月の「ホトトギス」に「吾輩は猫である」の第一編を発表して小説家としての第一歩を踏み出しているが、それと並行して「帝国文学」の一月号に発表したのがこの「倫敦塔」である。
さて、作品は『二年の留学中只一度倫敦塔を見物した事がある。その後再び行こうと思った日もあるが止めにした。人から誘われた事もあるが断った。一度で得た記憶を二辺目に打壊わすのは惜い、三たび目に拭い去るのは尤も残念だ。「塔」の見物は一度に限ると思う』という感想から始まる。
恐々ながら一枚の地図を案内として、漱石は倫敦を徘徊した『無論汽車へは乗らない、馬車へも乗れない、滅多な交通機関を利用仕ようとすると、どこへ連れて行かれるか分からない。(略)予は已むを得ないから四ツ角へ出る度に地図を披いて通行人に押し返されながら、足の向く方角を定める。地図で知れぬ時は人に聞く、人に聞いて知れぬ時は巡査を探す、巡査でゆかぬ時は又外の人に尋ねる』
もちろん、「夏目の語学は行く船の中からあちらの方に賞められたというくらいだからだいじょうぶでしょう」と夏目鏡子が「漱石の思いで」の中で書いているぐらいだから、会話には自身があったのだろう。
ダブルデッカー(二階建てバス)とアンダーグランド(地下鉄)を利用し、タワーヒル駅で降りる。地下から上がればすぐ目の前に『空は灰汁桶を掻き交ぜたよう様な色をして低く塔の上に垂れ懸っている。壁土を溶かし込んだ様に見ゆるテームスの流れは波も立てず音もせず無理矢理動いているかと思われる。(略)見渡したところ凡ての物が静かである。物憂げに見える、眠っている、皆過去の感じである。そうしてその中に冷然と二十世紀を軽蔑する様に立っているのが倫敦塔である』と書いている堀と城壁に囲まれた中世風の城と、その向こうにタワー・ブリッジが見える。
倫敦塔は、王室の居城としても使われたが、貴族や王室関係者の牢獄としての役割をしていた。しかも、死刑執行場ともなっていて、ここで処刑された囚人は数知れなく、権力争いで殺された、王子や妃も多く、暗いイメージが定着しているようだ。
ビーフイーター(衛兵)の案内で館内を見学する。リチャード二世が殺された白塔。作品中で、死刑執行人が斧を研ぎながら「切れぬ筈だよ女の頸は恋いの恨みで刃が折れる」と歌っていたボーシャン塔。エドワード王子(12才)とその弟が叔父に殺されたといわれている血染めの塔(ブラディタワー)を案内される。
帝王の歴史は悲惨の歴史であったと漱石は書いているが、まさに謀略のために血が流された歴史でもあったのだろう。
塔内見学途中で、気分が悪くなり早々に引き上げる。タワー・ブリッジに冷えた体でたどり着くと、風はますます強くなり、時折霙までが横殴りに吹き付けてきて、凍てつく気分になる。にぶく濁って波立ったテームズ川の向こうは、怨霊が倫敦塔を渦巻いて騒いでいるように強風が吹き荒れていた。