富樫倫太郎のレビュー一覧
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北条の風魔小太郎、武田の山本勘助、上杉の曽我冬之助。
足利学校で学んだ青年時代の誓い、戦場で軍配者として相まみえることに人生をかけた三人の軍配者たちの物語、ここに完結。
長尾と武田の小競り合いは続いていた。
景虎が京に上洛し、正式に関東管領として任ぜられると、上杉を名乗るべく鶴岡八幡宮を目指す。
関東土豪の数を合わせ、十万の兵を引き連れて関東から相模へを向かう先には北条の小田原があった。
一方、武田は景虎不在の隙を縫い、信濃守護の名のもとに北信濃内に残る越後勢の城、砦を落としていった。
そして長尾が信濃に打ち込んだ最大の楔、飯山城に軍を進めると、景虎は小田原を放棄して越後に戻 -
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武田晴信の軍配者、山本勘助として召し抱えられた四郎左は自らの戦略で戦での勝ちを進めていった。
山内上杉家を小田井原で快勝した戦では、捕らえた敵方の中に曽我冬之助がいた。
かつての足利学校の友は別れてのち、扇谷上杉家の軍配者として采配を振るったが、やがて重用されなくなって以降は軍配者として死んでいた。
四郎左は、そんな冬之助を逃して越後へ向かうように助言する。
武田家が常勝軍団となってからは家中に驕りが蔓延していた。
信濃領の北、坂城を本拠とする村上氏が信濃守護の小笠原氏と結託する動きが見えた。
晴信は軍勢を佐久口から北信濃へと向ける。
これが武田家第一の大敗、上田原の戦いへつ -
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かつて足利学校で学んだ学友、三人の一人の左郎次は、学校時代には亡き山本勘助の名を騙っていた。
足利学校のち建仁寺で軍配者として学んだのち、大名に召し抱えられるべく諸国を歩いたが、誰も左郎次を召し抱える者はいなかった。
仕方がなく生まれの駿河に戻ると、山本家の郎党から仇とされ、軟禁生活が八年続き、軍配者として名を上げる夢を叶えられずに腐っていた。
この時期、駿河には無人斎こと武田信虎がいた。
戦上手の男だったが政は全くできず、家臣に恨まれた挙句に息子の晴信に甲斐から追放されて駿河で隠居していた。
しかしこの男、甲斐に戻り再び主君となる野望を秘めていた。
無人斎は左郎次に、甲斐へ